若者に大望を懐かせた教育者 クラーク博士
ウィリアムS・クラークは1826年、米マサチューセッツ州に生まれた。ピューリ
タン信仰に立つアマースト大学に在籍中、キリスト教に劇的に回心。
卒業後はドイツに留学して植物学を修め、母校の農芸化学の教授になっている。南北
戦争では学生義勇軍の指揮をとり、大佐にまでなった。
「国家のためというより、呪われた奴隷制度をこの国から払拭したいという気持ちの
方が強かった」という。
その後、マサチューセッツ農科大学の創設に関わり、初代学長を務めた。札幌農学校
創立のための協力依頼を受けたのは、学長就任10年目の時のことである。
1876年(明治9年)6月下旬、横浜に到着。横浜で英語の聖書30冊を用意し
て、船で北海道に向かった。
船中、北海道開拓使の黒田清隆と激論になった。黒田から「学生達に最高の道徳を教
えてほしい」と頼まれ、「聖書を用いて行いたい」と答えたからである。
黒田はキリスト教禁制が解けてまだ間もないからだめだと言い、クラークは「聖書に
言及せずに道徳は教えられない」と譲らなかった。
論争は小樽に着くまで続いた。ほかの宣教師たちは、黒田はキリスト教に敵意を持っ
ているから不可能だと言ったが、結局、クラークが粘り勝ちした。
開校式の演説では、「ここで学ぶ学生は大望を喚起すると信じる。青年紳士諸君、健
康を保ち、食欲と性欲と利欲を制御し、知識と熟練を獲得せよ」と語り、学生たち
を感激させた。
また、「人間は規則で作られるものではない」として校則を廃し、「紳士たれ」でよ
しとした。持ってきた聖書を学生たちに配り、授業はその1章を読んでから始めたと
いう。指導は丁寧で、実際に即していた。
同時に謙遜で、その行動は意表を突いた。「この方は偉い先生だという先入観に支配
されて、導かるるままに従って行くばかりだった」と学生の一人は書き残している。
こうしてクラークの人格に圧倒された1期生は全員『イエスを信じる者の誓約』に署
名した。
その感化は直接教えを受けなかった内村鑑三ら2期生にまで及んだ。これらの学生た
ちは、その後、明治日本の各界で指導的役割を果たす人物になっている。
翌年4月、クラークは札幌を離れた。名残を惜しんだ学生たちは24キロ先の島松
まで見送った。
クラークは学生一人ひとりと握手して馬にまたがると、ひときわ声高く「青年よ、大
志を懐け」との名言を残して去っていった。クラークが札幌で教鞭を執ったのはわず
か8ヶ月であった。
2015年8月16日日曜日
No.122(トーマス・エジソンと新渡戸稲造)
トーマス・エジソンと新渡戸稲造
「これからの機械文明の時代を生きるには、心の進化が必要です。」
数々の発明を成したエジソンも、晩年は霊界と来世の研究に没頭した。「自分が何者
かによって生かされ、使命を与えられている。私の成した多くの発明は、全てその何
者かのほんの一部分に過ぎない」と感じるに至ったエジソン。
彼は、日本人の精神性の高さに深い興味(関心)を抱き、新渡戸稲造の著した「武士
道」を愛読した。
新渡戸稲造の母親は武士の妻として、稲造を厳しく育てた。「お前もお父様やおじい
様のような立派な人間になるのです。偉い人になるまでは帰ってきてはいけません」
と稲造をつき離し、一人勉学のために送り出した。
「母子が別れて暮らすことに年老いた私でさえ耐えられるのですから、若いお前が耐
えられないはずはありません」———厳しく突き放した母親の手紙を読む稲造。その
母親の期待に答えるべく必死で勉学に励む稲造の姿。彼は人類愛に燃え、洗礼を
受ける。そして、ジャンヌダルクに憧れ、自分の全身全霊を神と人類の為に捧げ尽く
すことを誓う。
「これからの機械文明の時代を生きるには、心の進化が必要です。」
数々の発明を成したエジソンも、晩年は霊界と来世の研究に没頭した。「自分が何者
かによって生かされ、使命を与えられている。私の成した多くの発明は、全てその何
者かのほんの一部分に過ぎない」と感じるに至ったエジソン。
彼は、日本人の精神性の高さに深い興味(関心)を抱き、新渡戸稲造の著した「武士
道」を愛読した。
新渡戸稲造の母親は武士の妻として、稲造を厳しく育てた。「お前もお父様やおじい
様のような立派な人間になるのです。偉い人になるまでは帰ってきてはいけません」
と稲造をつき離し、一人勉学のために送り出した。
「母子が別れて暮らすことに年老いた私でさえ耐えられるのですから、若いお前が耐
えられないはずはありません」———厳しく突き放した母親の手紙を読む稲造。その
母親の期待に答えるべく必死で勉学に励む稲造の姿。彼は人類愛に燃え、洗礼を
受ける。そして、ジャンヌダルクに憧れ、自分の全身全霊を神と人類の為に捧げ尽く
すことを誓う。
No.121(昭和天皇とキリスト教)
昭和天皇とキリスト教(佐賀新聞より転載)
〈マ元帥天皇の改宗検討〉
連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥は日本占領時代、民主
改革とともにキリスト教の布教にも努め、昭和天皇の「キリスト教改宗」まで真剣に
検討していた事実が、当時の関係者の日記から確認された。共同通信が入手した、米
プリンストン大図書館収蔵のジェームズ・フォレスタル米海軍長官(当時。後に初代
国防長官)の日記に明記されていた。結果的には、キリスト教の布教は戦後の一時的
なブームで終わり、昭和天皇の改宗問題はこれまで秘話とされてきた。
昭和天皇は敗戦から約三カ月後の一九四五(昭和二十)年十一月、プロテスタント代
表団と懇談、カトリック神父も含め、有力なキリスト教指導者と何度か会見した。
キリスト教社会運動家、賀川豊彦の進講も受けた。戦後いち早く訪米して帰国した女
性キリスト教運動家、植村環が皇后に聖書を進呈し、皇居内で聖書を講義したことも
あった。
四六年七月十日、日本を視察したフォレスタル長官はマッカーサー元帥と約一時間に
わたって会談した。
元帥はその際「天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現
にはかなりの検討を要する」と言った、と長官は日記に記した。
元帥はまた天皇について「欧米で言えば、育ちが良くてお金持ちの若い社交クラブ会
員のような人で、軍部に操り人形として利用された」との感想を漏らしたという。
こうした経緯を経て、当時の関係者の間で「天皇はキリスト教徒になるのではない
か」とのうわさが流れた、とGHQ宗教課のウィリアム・ウッダード元調査官は回想
録に書いている。
天皇が改宗すれば、多数の日本国民の入信も見込めるため、キリスト教各派の代
表は天皇との接触を求めて活発に動いた。当時皇居の警護も担当していたエリオット
・
ソープGHQ民間情報局(CIS)局長の回想録には、ローマ法王庁の駐日大使が天
皇との会見をしつこく要求したいきさつが明らかにされている。
各派の対立を避けるため結局、マッカーサー元帥の判断で「天皇の改宗は行われない
ことで決着した」とソープ准将は書いている。
昭和天皇自身は四八年八月のオーストラリア紙「メルボルン・サン」との会見で「自
分自身の宗教(神道)を体していた方がよいと思う」と言明、改宗の意思を明確に否
定した。
昭和天皇が一時期キリスト教関係者との接触を深め、西洋文明への関心を示したの
は、皇室の存続にプラスになると考えたため、とも理解できる。占領軍当局やキリス
ト教関係者はそうした行動を改宗への〝兆候〟と受け取り、うわさが先行した可能性
がある。
(春名幹男共同通信編集委員)
----------------------------------------
〈布教、大統領も承認〉
占領期にGHQが日本で進めた「キリスト教伝道」は、ハリー・トルーマン米大統領
の直接の承認を得て、米陸軍の占領地政策の一環として行われていたことが、同
大統領の関係文書から明らかになった。
米アマースト大のレイ・ムーア教授(日本史)がトルーマン図書館で発見した米政府
文書に明記されていた。
キリスト教布教は、敬けんなキリスト教徒だったダグラス・マッカーサー連合国軍最
高司令官が、個人として積極的に進めたことは知られていたが、実際には米政府の公
式の政策だったことがはっきりした。
当時のケネス・ロイヤル米陸軍長官は一九四九(昭和二十四)年四月二十七日付でト
ルーマン大統領あてにメモを送り、日本では神道が衰退して、米国にとって「宗教的
好機が到来した」と指摘、キリスト教的倫理、文化、政治的理念を「日本社会のすべ
ての階層に普及させる」よう訴えた。
これに対し、トルーマン大統領は「私は喜んでこれを受け入れる」とイニシャル署名
入りメモで答えた。
こうして、占領地政策担当のトレーシー・ボリーズ陸軍次官補が、カトリック、プロ
テスタント両団体の支援と助言を得て、計画を推進した。
これらの文書には、具体的な布教活動の内容や予算額などは記されていないが、
関係者によると、宣教師の派遣や聖書、賛美歌集の印刷、戦災で焼けた教会堂の
再建などが行われた。
日本に入国した宣教師の数は四五—五○年で三千人を突破。さらに、戦前・戦中に使
われていた聖書、賛美歌集が米国でリプリントされ、送られてきた。「賛美歌が君が
代と一緒に掲載されていたこともあった」と関係者は言う。しかし五二年に占領が終
了、キリスト教ブームは冷め、日本国民の間にキリスト教が拡大することはなかっ
た。
----------------------------------------
=フォレスタル日記要旨=
フォレスタル米海軍長官(当時)の一九四六年七月十日付日記の関係部分要旨次
の通り。
■マッカーサー元帥は一時間の会話で次のように語った。
1、日本の産業が復興し始めることができるよう、賠償問題では支払額を日本側に明
確に通告すべきだ。
2、彼(マッカーサー元帥)は天皇について、欧米で言えば、育ちが良くてお金持ち
の若い社交クラブ会員のような人で、軍部に操り人形として利用された、と表現し
た。
■天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現にはかなりの
検討を要すると思う、と元帥は言った。
----------------------------------------
ジェームズ・フォレスタル氏 一八九二—一九四九年。プリンストン大卒。ウォール
街の投資銀行ディロン・リード社に入り、社長を務めた。四○年、ルーズベルト大統
領に請われて海軍次官、次いで海軍長官に就任。四七年新設された国防総省の初
代長官。陸海空三軍間の調整などで苦労し、一年半後辞任。うつ病にかかり、四九
年自殺。
----------------------------------------
〈マ元帥、宣教師1000人求める〉
アマースト大教授、レイ・ムーア氏
十九世紀の人間であるマッカーサー元帥は、民主主義はキリスト教の原理から起こっ
たと信じ、キリスト教を日本で布教するよう米国の教会に要請した。一九四五年十
月、彼はプロテスタント指導者に「千人の宣教師の派遣」を求めた。
彼は、ある宣教師あての手紙で「私が日本のキリスト教化を楽しみにしていることを
理解してくれるでしょう。その目的のためにあらゆる努力が行われている」と書い
た。また五○年には、「キリスト教会は過去五百年間日本で、今ほどの好機に恵まれ
たことはなかった。・・・日本はキリスト教なしに民主主義になり得ない」とも書い
た。
彼は、皇居内の情報源にも勇気づけられて(昭和)天皇自身がキリスト教に改宗する
だろうと確信した。事実、彼は福音伝道師ビリー・グラハム師に対して、天皇はキリ
スト教を日本の公式宗教にしてはどうかと申し出た、と語ったという。一部の学者
は、こうしたマッカーサーのキリスト教への熱意の証拠を取り上げず、ワシントンの
支持がなかった、と言う。
実際には、統合参謀本部は一九四五年、正式に布教への支援を承認し、一九四
九年、ケネス・ロイヤル陸軍長官とトルーマン大統領は「日本における宗教的好機」
を利用するというマッカーサー元帥の政策を支持した。その後マッカーサー元帥は、
自分は「米国の兵士であると同時に神の兵士だ」と述べた。
----------------------------------------
レイ・ムーア氏 米アマースト大教授。1933年生まれ。国際基督教大で日本語を
学び、ミシガン大で博士号取得。64年以来アマースト大で日本史講座を担当。同志
社大、東大で客員教授などを務めた。著書に「内村鑑三」「天皇がバイブルを読んだ
日」など。
〈マ元帥天皇の改宗検討〉
連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥は日本占領時代、民主
改革とともにキリスト教の布教にも努め、昭和天皇の「キリスト教改宗」まで真剣に
検討していた事実が、当時の関係者の日記から確認された。共同通信が入手した、米
プリンストン大図書館収蔵のジェームズ・フォレスタル米海軍長官(当時。後に初代
国防長官)の日記に明記されていた。結果的には、キリスト教の布教は戦後の一時的
なブームで終わり、昭和天皇の改宗問題はこれまで秘話とされてきた。
昭和天皇は敗戦から約三カ月後の一九四五(昭和二十)年十一月、プロテスタント代
表団と懇談、カトリック神父も含め、有力なキリスト教指導者と何度か会見した。
キリスト教社会運動家、賀川豊彦の進講も受けた。戦後いち早く訪米して帰国した女
性キリスト教運動家、植村環が皇后に聖書を進呈し、皇居内で聖書を講義したことも
あった。
四六年七月十日、日本を視察したフォレスタル長官はマッカーサー元帥と約一時間に
わたって会談した。
元帥はその際「天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現
にはかなりの検討を要する」と言った、と長官は日記に記した。
元帥はまた天皇について「欧米で言えば、育ちが良くてお金持ちの若い社交クラブ会
員のような人で、軍部に操り人形として利用された」との感想を漏らしたという。
こうした経緯を経て、当時の関係者の間で「天皇はキリスト教徒になるのではない
か」とのうわさが流れた、とGHQ宗教課のウィリアム・ウッダード元調査官は回想
録に書いている。
天皇が改宗すれば、多数の日本国民の入信も見込めるため、キリスト教各派の代
表は天皇との接触を求めて活発に動いた。当時皇居の警護も担当していたエリオット
・
ソープGHQ民間情報局(CIS)局長の回想録には、ローマ法王庁の駐日大使が天
皇との会見をしつこく要求したいきさつが明らかにされている。
各派の対立を避けるため結局、マッカーサー元帥の判断で「天皇の改宗は行われない
ことで決着した」とソープ准将は書いている。
昭和天皇自身は四八年八月のオーストラリア紙「メルボルン・サン」との会見で「自
分自身の宗教(神道)を体していた方がよいと思う」と言明、改宗の意思を明確に否
定した。
昭和天皇が一時期キリスト教関係者との接触を深め、西洋文明への関心を示したの
は、皇室の存続にプラスになると考えたため、とも理解できる。占領軍当局やキリス
ト教関係者はそうした行動を改宗への〝兆候〟と受け取り、うわさが先行した可能性
がある。
(春名幹男共同通信編集委員)
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〈布教、大統領も承認〉
占領期にGHQが日本で進めた「キリスト教伝道」は、ハリー・トルーマン米大統領
の直接の承認を得て、米陸軍の占領地政策の一環として行われていたことが、同
大統領の関係文書から明らかになった。
米アマースト大のレイ・ムーア教授(日本史)がトルーマン図書館で発見した米政府
文書に明記されていた。
キリスト教布教は、敬けんなキリスト教徒だったダグラス・マッカーサー連合国軍最
高司令官が、個人として積極的に進めたことは知られていたが、実際には米政府の公
式の政策だったことがはっきりした。
当時のケネス・ロイヤル米陸軍長官は一九四九(昭和二十四)年四月二十七日付でト
ルーマン大統領あてにメモを送り、日本では神道が衰退して、米国にとって「宗教的
好機が到来した」と指摘、キリスト教的倫理、文化、政治的理念を「日本社会のすべ
ての階層に普及させる」よう訴えた。
これに対し、トルーマン大統領は「私は喜んでこれを受け入れる」とイニシャル署名
入りメモで答えた。
こうして、占領地政策担当のトレーシー・ボリーズ陸軍次官補が、カトリック、プロ
テスタント両団体の支援と助言を得て、計画を推進した。
これらの文書には、具体的な布教活動の内容や予算額などは記されていないが、
関係者によると、宣教師の派遣や聖書、賛美歌集の印刷、戦災で焼けた教会堂の
再建などが行われた。
日本に入国した宣教師の数は四五—五○年で三千人を突破。さらに、戦前・戦中に使
われていた聖書、賛美歌集が米国でリプリントされ、送られてきた。「賛美歌が君が
代と一緒に掲載されていたこともあった」と関係者は言う。しかし五二年に占領が終
了、キリスト教ブームは冷め、日本国民の間にキリスト教が拡大することはなかっ
た。
----------------------------------------
=フォレスタル日記要旨=
フォレスタル米海軍長官(当時)の一九四六年七月十日付日記の関係部分要旨次
の通り。
■マッカーサー元帥は一時間の会話で次のように語った。
1、日本の産業が復興し始めることができるよう、賠償問題では支払額を日本側に明
確に通告すべきだ。
2、彼(マッカーサー元帥)は天皇について、欧米で言えば、育ちが良くてお金持ち
の若い社交クラブ会員のような人で、軍部に操り人形として利用された、と表現し
た。
■天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現にはかなりの
検討を要すると思う、と元帥は言った。
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ジェームズ・フォレスタル氏 一八九二—一九四九年。プリンストン大卒。ウォール
街の投資銀行ディロン・リード社に入り、社長を務めた。四○年、ルーズベルト大統
領に請われて海軍次官、次いで海軍長官に就任。四七年新設された国防総省の初
代長官。陸海空三軍間の調整などで苦労し、一年半後辞任。うつ病にかかり、四九
年自殺。
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〈マ元帥、宣教師1000人求める〉
アマースト大教授、レイ・ムーア氏
十九世紀の人間であるマッカーサー元帥は、民主主義はキリスト教の原理から起こっ
たと信じ、キリスト教を日本で布教するよう米国の教会に要請した。一九四五年十
月、彼はプロテスタント指導者に「千人の宣教師の派遣」を求めた。
彼は、ある宣教師あての手紙で「私が日本のキリスト教化を楽しみにしていることを
理解してくれるでしょう。その目的のためにあらゆる努力が行われている」と書い
た。また五○年には、「キリスト教会は過去五百年間日本で、今ほどの好機に恵まれ
たことはなかった。・・・日本はキリスト教なしに民主主義になり得ない」とも書い
た。
彼は、皇居内の情報源にも勇気づけられて(昭和)天皇自身がキリスト教に改宗する
だろうと確信した。事実、彼は福音伝道師ビリー・グラハム師に対して、天皇はキリ
スト教を日本の公式宗教にしてはどうかと申し出た、と語ったという。一部の学者
は、こうしたマッカーサーのキリスト教への熱意の証拠を取り上げず、ワシントンの
支持がなかった、と言う。
実際には、統合参謀本部は一九四五年、正式に布教への支援を承認し、一九四
九年、ケネス・ロイヤル陸軍長官とトルーマン大統領は「日本における宗教的好機」
を利用するというマッカーサー元帥の政策を支持した。その後マッカーサー元帥は、
自分は「米国の兵士であると同時に神の兵士だ」と述べた。
----------------------------------------
レイ・ムーア氏 米アマースト大教授。1933年生まれ。国際基督教大で日本語を
学び、ミシガン大で博士号取得。64年以来アマースト大で日本史講座を担当。同志
社大、東大で客員教授などを務めた。著書に「内村鑑三」「天皇がバイブルを読んだ
日」など。
No.120(聖フランチェスコの祈り)
聖フランチェスコの祈り
主よ 私を平和の手先としてください
憎しみのあるところに、愛の種を蒔かせて下さい
無礼のあるところに 赦しを
疑いのあるところに 信仰を
失望のあるところに 希望を
暗黒のあるところに 光を
悲しみのあるところに よろこびを私に蒔かせて下さい
おお 主よ 願いを聞き届けてください
理解されるよりも 理解することを
慰められるよりも 慰めることを
愛されるよりも 愛することを求めることが出来ますように
私たちは 自分に死ぬ事によって自分を見い出し
自分に死ぬ事によって永遠のいのちをいただくのですから
Francesco (1181 or 82年〜1226年)
イタリア、アッシジの富裕な織物商人の長男として生まれ、戦争をきっかけに、キリ
ストと貧しい人たちへの愛に目覚めていく。
ウンブリア平原に咲く小さい花のように、また大空をさえずる雲雀のような自由を、
と唱えた聖フランチェスコにあやかって、1847年米国は、西海岸の都市をサン・
フランシスコと改名した。
同時代の日本では、法然・親鸞・道元らが活躍する時代でした。フランシスコ会の日
本での布教は1593年になります。
「ブラザーサン・シスタームーン」という聖フランチェスコを主題にした映画があり
ます。良かったらぜひ一度ご覧下さい!!素晴らしい映画ですよ。
主よ 私を平和の手先としてください
憎しみのあるところに、愛の種を蒔かせて下さい
無礼のあるところに 赦しを
疑いのあるところに 信仰を
失望のあるところに 希望を
暗黒のあるところに 光を
悲しみのあるところに よろこびを私に蒔かせて下さい
おお 主よ 願いを聞き届けてください
理解されるよりも 理解することを
慰められるよりも 慰めることを
愛されるよりも 愛することを求めることが出来ますように
私たちは 自分に死ぬ事によって自分を見い出し
自分に死ぬ事によって永遠のいのちをいただくのですから
Francesco (1181 or 82年〜1226年)
イタリア、アッシジの富裕な織物商人の長男として生まれ、戦争をきっかけに、キリ
ストと貧しい人たちへの愛に目覚めていく。
ウンブリア平原に咲く小さい花のように、また大空をさえずる雲雀のような自由を、
と唱えた聖フランチェスコにあやかって、1847年米国は、西海岸の都市をサン・
フランシスコと改名した。
同時代の日本では、法然・親鸞・道元らが活躍する時代でした。フランシスコ会の日
本での布教は1593年になります。
「ブラザーサン・シスタームーン」という聖フランチェスコを主題にした映画があり
ます。良かったらぜひ一度ご覧下さい!!素晴らしい映画ですよ。
No.119(斉藤宗次郎と宮沢賢治)
斉藤宗次郎と宮沢賢治
仏教徒を深く感心させた一人のキリスト教徒の話をしたいと思います。それは斉藤宗
次郎という人です。
1877年、斉藤宗次郎は岩手県花巻の禅宗の寺の三男として生まれました。彼は
15歳のとき、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となりました。
彼は小学校の先生となりました。一時、国粋主義に傾くのですが、やがてふとした
きっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。1900年、彼
は信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになりました。花巻の地で第一号のクリ
スチャンです。
斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは12月の朝6時、雪の降り積もった寒い朝、豊沢川に
おいてでした。珍しいことだと、橋の上には大勢の人が見物にやって来ました。
しかし、これはキリスト教がまだ「耶蘇教」「国賊」などと呼ばれて、人々から激し
い迫害を受けている時代のことです。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強
くなりました。親からは勘当され、以後、生家に一歩たりとも入ることを禁じられて
しまったのです。
町を歩いていると、「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。それ
でも彼は神を信じた喜びにあふれて、信仰を貫いていました。
しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、ついに彼は小学校の教師の職を辞めなけれ
ばならないはめになってしまいます。また迫害は彼だけにとどまらず、家族にまで及
んでいきました。
長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子どもと言われて腹を
蹴られ、腹膜炎を起こしてしまいます。何日か後、彼女はわずか九歳という若さで天
国に帰って行きました。
葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国の希望のなか平安に彼女を見送りましたが、
愛する子をこのようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の心情は、察するに余りあ
ります。
彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになります。朝3時に起き、汽車が着
くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという生活でした。重労働のな
か、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血しました。それでも毎朝3時に起き
て、夜9時まで働くという生活を続けました。その後の時間は聖書を読み、祈る時を
持ちました。不思議なことに、このような激しい生活が20年も続きましたが、体は
支えられました。
朝の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけまし
た。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走ります。彼は雨の日も、風の日
も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けました。自分の子どもを
蹴って死なせた子どもたちのために。
新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
やがて1926年、住み慣れたその故郷を離れ、彼が東京に移る日がやって来まし
た。花巻の地を離れるその日、″だれも見送りに来てくれないだろう〃と思って彼は
駅に着きました。
ところが、そこには町長をはじめ、町の有力者の人々、学校の教師、またたくさんの
生徒たちが見送りに来てくれているではありませんか。神社の神主もいました。仏教
の僧侶もいました。さらに他の一般の人たちも来て、町じゅうの人々が彼を見送りに
きてくれたのです。
斉藤宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのです。彼らは感謝
を表しに来ていました。身動きできないほど多くの人々が集まったのです。
そのなかの一人に、宮沢賢治がいました。
宮沢賢治は、有名な法華経信者です。その彼もそこに来てくれていました。そして斉
藤宗次郎が東京に着いてのち、彼に最初に手紙をくれたのは宮沢賢治でした。
宮沢賢治はその五年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくりまし
た。この詩は、最後は「そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられてい
ます。この詩のモデルになった人物が、斉藤宗次郎だったのです。
「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、欲はな
く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を
食べ、あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず、
野原の松の林の陰の小さな藁葺きの小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行っ
て看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな
人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらな
いからやめろと言い、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに
木偶(でく)の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず——そういう者に私はな
りたい」
仏教徒を深く感心させた一人のキリスト教徒の話をしたいと思います。それは斉藤宗
次郎という人です。
1877年、斉藤宗次郎は岩手県花巻の禅宗の寺の三男として生まれました。彼は
15歳のとき、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となりました。
彼は小学校の先生となりました。一時、国粋主義に傾くのですが、やがてふとした
きっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。1900年、彼
は信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになりました。花巻の地で第一号のクリ
スチャンです。
斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは12月の朝6時、雪の降り積もった寒い朝、豊沢川に
おいてでした。珍しいことだと、橋の上には大勢の人が見物にやって来ました。
しかし、これはキリスト教がまだ「耶蘇教」「国賊」などと呼ばれて、人々から激し
い迫害を受けている時代のことです。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強
くなりました。親からは勘当され、以後、生家に一歩たりとも入ることを禁じられて
しまったのです。
町を歩いていると、「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。それ
でも彼は神を信じた喜びにあふれて、信仰を貫いていました。
しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、ついに彼は小学校の教師の職を辞めなけれ
ばならないはめになってしまいます。また迫害は彼だけにとどまらず、家族にまで及
んでいきました。
長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子どもと言われて腹を
蹴られ、腹膜炎を起こしてしまいます。何日か後、彼女はわずか九歳という若さで天
国に帰って行きました。
葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国の希望のなか平安に彼女を見送りましたが、
愛する子をこのようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の心情は、察するに余りあ
ります。
彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになります。朝3時に起き、汽車が着
くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという生活でした。重労働のな
か、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血しました。それでも毎朝3時に起き
て、夜9時まで働くという生活を続けました。その後の時間は聖書を読み、祈る時を
持ちました。不思議なことに、このような激しい生活が20年も続きましたが、体は
支えられました。
朝の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけまし
た。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走ります。彼は雨の日も、風の日
も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けました。自分の子どもを
蹴って死なせた子どもたちのために。
新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
やがて1926年、住み慣れたその故郷を離れ、彼が東京に移る日がやって来まし
た。花巻の地を離れるその日、″だれも見送りに来てくれないだろう〃と思って彼は
駅に着きました。
ところが、そこには町長をはじめ、町の有力者の人々、学校の教師、またたくさんの
生徒たちが見送りに来てくれているではありませんか。神社の神主もいました。仏教
の僧侶もいました。さらに他の一般の人たちも来て、町じゅうの人々が彼を見送りに
きてくれたのです。
斉藤宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのです。彼らは感謝
を表しに来ていました。身動きできないほど多くの人々が集まったのです。
そのなかの一人に、宮沢賢治がいました。
宮沢賢治は、有名な法華経信者です。その彼もそこに来てくれていました。そして斉
藤宗次郎が東京に着いてのち、彼に最初に手紙をくれたのは宮沢賢治でした。
宮沢賢治はその五年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくりまし
た。この詩は、最後は「そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられてい
ます。この詩のモデルになった人物が、斉藤宗次郎だったのです。
「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、欲はな
く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を
食べ、あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず、
野原の松の林の陰の小さな藁葺きの小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行っ
て看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな
人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらな
いからやめろと言い、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに
木偶(でく)の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず——そういう者に私はな
りたい」
No.118(内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」)
内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」
●代表的日本人
内村鑑三の著作の一つに『代表的日本人』という名著がある。西郷隆盛、上杉鷹山、
二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げたもので、日清戦争(1894年)のさ
なかに書かれたものである。原題を『Japan and japanese』(のちに改題されて
『Representative Man of Japan』)といい、それは英文で書かれている。
なぜ英文で書かれたのか。
内村はその執筆動機をこう語っている。
「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにして
も欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業のひとつとしてこの事を為し
得たことを感謝します。私の貴ぶ者は二つの“J”であります。その一つはJesus(イ
エス)であり、いま一つはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義
務の幾分かを書いたものであります」
いわば内村は、当時、好戦的な野蛮国と批判していた欧米列国の人々に対して、「日
本にはこんな素晴らしい偉大な人物がいるんだぞ、なにが野蛮国なものか」と、キリ
スト教徒の殉教者にも劣らぬ彼らを、日本人の“誇り”として書いたのである。
たとえば、その一人、二宮尊徳に対しては、
「彼がいかに“土地の衰廃と人気の汚悪”と戦ったか。彼には術策と政略は皆無で
あった。『至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く』として、この人には清教
徒の血が通っている所があった」と、尊徳の中に「慈悲」「勤勉」「正直」「忍耐」
といった美徳を見つけだし、敬虔なるプロテスタントの清教徒と対比して見せてい
る。
むろん、この本は単なる「偉人伝」ではない。西郷に対して「余輩は彼ほど人生の欲
望の少なき人を知らない」と、無私無欲を称えているように、身を挺して仁を貫く
「武士道的精神」をプロテスタントにも劣らぬ伝統的精神として活写し、不屈の意志
力で人生を誠実に生きた彼ら五人の精神の美徳を、みずからの生き方の指針として、
「かくあるべし」と願って書いたのである。それはまさしく内村の生き方そのもので
あったのである。
なぜなら、内村は一般的には「日本的キリスト教徒」として知られているが、じつは
彼こそサムライ的な矜持を保ち、生涯その生き方を貫き通した人はいなかったといっ
てよい。その証拠に、『代表的日本人』が出た翌年、内村は『余は如何にして基督教
徒となりし乎』(これも英文)を書くが、彼はこの中で自分のキリスト教への回心が
「武士道の台木に接ぎ木するものだった」と述べ、その根底の精神に一貫して武士道
的精神が流れていることを告白している。
キリスト教徒といえば、とかく多くの人が西洋かぶれしたバタ臭い人を想像しがちだ
が、内村は墓碑に、
「われは日本のため
日本は世界のため、
世界はキリストのため、
すべては神のため」
と標したように、彼はすぐれた愛国者であり、もっとも日本人の美しき道徳律を持っ
て生きた国際人であり、神の忠実な下僕だったといえる。
●キリスト教徒としての萌芽
さて、その内村鑑三は、万延二年(1861)三月、つまりペリー来航から八年後、明治
維新から七年前、高崎藩松平家の家臣の子として生まれた。明治キリスト教徒として
同時代に活躍する植村正久、海老名弾正、小崎弘道からは三〜五年遅れ、良き友
あるいは論敵だった徳富蘇峰、山路愛山には二〜四年長じている。
父・宜之は謹厳実直な武士であると同時に儒学者でもあった。だが明治四年の廃藩置
県で職を解かれ、内村が札幌農学校へ入学したころには早くも隠居し、没落武士の身
となっっていた。
鑑三少年は、父の影響で最初は政治家を志し、一三歳で東京帝国大学の予科であ
る東京外国語学校へ進学した。が、先の家庭の事情から学資がつづかず、三年後、
授業料が無料で北海道開拓使の道が約束されている札幌農学校(北海道大学の
前身)へと転身する。
札幌農学校というと誰しも「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士を
思い出すが、クラークと内村との直接の関係はない。クラークが教鞭をとったのはわ
ずか八ヶ月のことで、直接の薫陶を受けたのは一期生のみである。同級生には五千円
札で知られる新渡戸稲造がいるが、内村らは二期生だった。
とはいえ、内村にとって札幌農学校での四年間は、彼の人生を決定する期間だったと
いってよい。内村はここで、クラークが残した「イエスを信じる者の契約」にサイン
し、初めて生涯の愛読書となる英文聖書に出会い、キリスト教の「神」を知った。
もちろん武士の子として育った内村は、簡単にキリスト教に入信したわけでない。そ
の経緯は『余は如何にして基督教徒になりし乎』に詳しいが、彼は「わが内なる精神
には武士道あり」と、当初はキリスト教を耶蘇教として認めていなかった。それどこ
ろか、友人たちがづつぎに入信するのをニガ虫をかみしめる思いでながめ、札幌神社
に参拝して「耶蘇教をわが国から追いだしたまえ」と祈りつづけるほどの青年であっ
たのだ。
ところが、いったん、キリスト教と武士道の精神が矛盾するものではなく、ともに自
己を鍛える崇高なる道徳律であることを理解すると、在学中に「信仰の独立」を唱
え、外国の援助や干渉を受けない独自のキリスト教を主唱したのだ。
明治一四年(1881)札幌農学校を首席で卒業した内村は、農学校の規定にしたが
い開拓使御用掛として勤め、のち農商務省に転ずるが、やがて明治一七年、その農
商務省も辞めて自費でアメリカへ留学した。ペンシルバニア州の州立精神薄弱児の
施設などで苦労して働き、その後クラークの母校でもあるアマスト大学に進学して
神学を修めた。そしてここでシーリー総長と出会い、決定的な「回心」を体験して福
音主義的信仰に導かれたのであった。
●後世への最大遺物
帰国後の内村は第一高等学校の講師の職にあった。だが明治二四年(1891)一月
、思わぬ試練に遭遇する。明治天皇の教育勅語奉載式で「敬礼」を躊躇したことで職
を解かれてしまうのだ。世に「不敬事件」として知られているが、内村は「国賊」
「不敬
漢」として、井上哲次郎ら国権論者を中心に、日本中のジャーナリズムから総攻撃さ
れた。もちろん内村にすればキリスト教徒の良心から出たものであったが、「忠君愛
国」に燃える世間はそれを許さなかった。
犯罪者のごとき烙印を押された内村には、身の置き場もなかったほどだった。友人を
訪ねてネグラを探す内村は、あるとき盛岡で宿をとった。「内村鑑三」の名では泊め
てくれないだろうと、「内村三蔵」という偽名をつかった。ところが、ちょうどその
年の五月、ロシア皇帝を大津で斬りつけた犯人が「津田三蔵」という名であったた
め、宿の主人はその人物と疑って内村を叩き出したという。
あるいはまたこんな話しも残っている。
日本中を転々とする内村は、京都に札幌農学校の先輩でクリスチャンでもあった大島
正健を訪ねた。腹が空いているだろうと大島がスキ焼きをご馳走すると、内村は鍋の
ものを全部平らげたのち、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と、一気に
鍋を持ち上げて飲み干したという。
内村によれば、不敬事件のあとの数年は、「飢餓線上をさまようごとく」であったと
記すが、だが、この間に処女作『基督教徒のなぐさめ』をはじめ、『日本人および日
本人』『余は如何にして基督教徒となりし乎』などの名著をあらわし、その精神は
「日本のため、世界のため、キリストのために」と、いっそう磨かれ、昂揚していく
のである。
なかでも感銘を受けるのは、こうした受難の時に、若きキリスト教徒たちのため
に夏期学校でおこなった「後世への最大の遺物」という講演である。
内村はいう。
「一人の人間として我々は何をこの世に遺せるか。金か、事業か、文学か……、だ
が、それらは誰もが残しうる最大の遺物とはいいがたい。誰もが遺せる最大の遺物、
それは勇ましく高尚なる生涯だと思うのです」
後にこの講演は一冊の本としてまとまり、内村の気概の精神を唱えるものとして、若
きキリスト教徒たちの「和製聖書」とまで呼ばれるが、この後、内村は先の著作のベ
ストセラーとともに、不死鳥のようによみがえったのである。
●日本の天職とは
いまや内村は、マスコミ界きっての売れっ子として国民的寵児となっていた。明治三
十年(1897)二月一四日、当時、日本一の発行部数を誇っていた黒岩涙香の『萬朝
報』に、内村が英文欄の主筆として迎えられると、同紙はその入社を一面トップで紹
介したほどだった。だが、やがて日露戦争が勃発し、社長の黒岩涙香が参戦論を展開
すると、内村は堺枯水、幸徳秋水らとともに「非戦論」を唱えて、同社を退社した。
明治三十六年十月九日のことだ。その日、萬朝報に掲載された「退社の辞」は、日露
戦争に反対する内村の心の叫びであった。
この間、内村は社会評論雑誌『東京独立雑誌』(明治三十一〜三十三年)、個人雑誌
『無教会』(同三十四〜三十五年)などを創刊しつづけるが、内村のライフワークと
なったのは、明治三十三年から死にいたる(昭和五年六十九歳で死去)まで出版され
た個人雑誌『聖書之研究』であった。これは全三百五十七号における一連の聖書講義
であり、内村はこれを「紙上の教会」とみなして、全国三千人の読者に三十年間送り
つづけたのである。それは「無教会主義」と呼ばれる内村の独自の布教活動であっ
た。
内村にすれば、キリスト教信仰は「キリストを信じる」という、ただそれだけのこと
で十分であり、洗礼を受けたり教会に通うことなどといった制度や作法は重要視しな
かったのである。
また日曜日ごとに行われた聖書講義は、東京市民の人気の的であり、会場となった場
所は常に満員であった。内村は聖書との関連で、人生を語り、世界をながめ、歴史を
解釈し、進んで人に信仰をすすめたり、信者をつくろうとはしなかった。
内村の真骨頂は、膨張する国家に対してその堕落ぶりを批判し、信仰と愛国心に裏打
ちされたナショナリズムを提唱したことだ。いわゆる「日本天職論」であるが、彼は
福沢諭吉の「脱亜論」とは違う、欧米と東洋の折衷を説き、次のような主旨を述べた
のである。
「日本のあるべき姿は東西世界の架け橋となることであり、軍事力や経済力とは別の
“信仰の国”として、平和国家を建設することである」と。
この言葉は今日の日本でも通用する一つの国家論といえるのではないか。ちなみに、
こうした内村から薫陶を受けた人々として有島武郎、志賀直哉、正宗白鳥、前田多
聞、南原繁、矢内原忠雄、高木八尺などがいる。
●代表的日本人
内村鑑三の著作の一つに『代表的日本人』という名著がある。西郷隆盛、上杉鷹山、
二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げたもので、日清戦争(1894年)のさ
なかに書かれたものである。原題を『Japan and japanese』(のちに改題されて
『Representative Man of Japan』)といい、それは英文で書かれている。
なぜ英文で書かれたのか。
内村はその執筆動機をこう語っている。
「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにして
も欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業のひとつとしてこの事を為し
得たことを感謝します。私の貴ぶ者は二つの“J”であります。その一つはJesus(イ
エス)であり、いま一つはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義
務の幾分かを書いたものであります」
いわば内村は、当時、好戦的な野蛮国と批判していた欧米列国の人々に対して、「日
本にはこんな素晴らしい偉大な人物がいるんだぞ、なにが野蛮国なものか」と、キリ
スト教徒の殉教者にも劣らぬ彼らを、日本人の“誇り”として書いたのである。
たとえば、その一人、二宮尊徳に対しては、
「彼がいかに“土地の衰廃と人気の汚悪”と戦ったか。彼には術策と政略は皆無で
あった。『至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く』として、この人には清教
徒の血が通っている所があった」と、尊徳の中に「慈悲」「勤勉」「正直」「忍耐」
といった美徳を見つけだし、敬虔なるプロテスタントの清教徒と対比して見せてい
る。
むろん、この本は単なる「偉人伝」ではない。西郷に対して「余輩は彼ほど人生の欲
望の少なき人を知らない」と、無私無欲を称えているように、身を挺して仁を貫く
「武士道的精神」をプロテスタントにも劣らぬ伝統的精神として活写し、不屈の意志
力で人生を誠実に生きた彼ら五人の精神の美徳を、みずからの生き方の指針として、
「かくあるべし」と願って書いたのである。それはまさしく内村の生き方そのもので
あったのである。
なぜなら、内村は一般的には「日本的キリスト教徒」として知られているが、じつは
彼こそサムライ的な矜持を保ち、生涯その生き方を貫き通した人はいなかったといっ
てよい。その証拠に、『代表的日本人』が出た翌年、内村は『余は如何にして基督教
徒となりし乎』(これも英文)を書くが、彼はこの中で自分のキリスト教への回心が
「武士道の台木に接ぎ木するものだった」と述べ、その根底の精神に一貫して武士道
的精神が流れていることを告白している。
キリスト教徒といえば、とかく多くの人が西洋かぶれしたバタ臭い人を想像しがちだ
が、内村は墓碑に、
「われは日本のため
日本は世界のため、
世界はキリストのため、
すべては神のため」
と標したように、彼はすぐれた愛国者であり、もっとも日本人の美しき道徳律を持っ
て生きた国際人であり、神の忠実な下僕だったといえる。
●キリスト教徒としての萌芽
さて、その内村鑑三は、万延二年(1861)三月、つまりペリー来航から八年後、明治
維新から七年前、高崎藩松平家の家臣の子として生まれた。明治キリスト教徒として
同時代に活躍する植村正久、海老名弾正、小崎弘道からは三〜五年遅れ、良き友
あるいは論敵だった徳富蘇峰、山路愛山には二〜四年長じている。
父・宜之は謹厳実直な武士であると同時に儒学者でもあった。だが明治四年の廃藩置
県で職を解かれ、内村が札幌農学校へ入学したころには早くも隠居し、没落武士の身
となっっていた。
鑑三少年は、父の影響で最初は政治家を志し、一三歳で東京帝国大学の予科であ
る東京外国語学校へ進学した。が、先の家庭の事情から学資がつづかず、三年後、
授業料が無料で北海道開拓使の道が約束されている札幌農学校(北海道大学の
前身)へと転身する。
札幌農学校というと誰しも「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士を
思い出すが、クラークと内村との直接の関係はない。クラークが教鞭をとったのはわ
ずか八ヶ月のことで、直接の薫陶を受けたのは一期生のみである。同級生には五千円
札で知られる新渡戸稲造がいるが、内村らは二期生だった。
とはいえ、内村にとって札幌農学校での四年間は、彼の人生を決定する期間だったと
いってよい。内村はここで、クラークが残した「イエスを信じる者の契約」にサイン
し、初めて生涯の愛読書となる英文聖書に出会い、キリスト教の「神」を知った。
もちろん武士の子として育った内村は、簡単にキリスト教に入信したわけでない。そ
の経緯は『余は如何にして基督教徒になりし乎』に詳しいが、彼は「わが内なる精神
には武士道あり」と、当初はキリスト教を耶蘇教として認めていなかった。それどこ
ろか、友人たちがづつぎに入信するのをニガ虫をかみしめる思いでながめ、札幌神社
に参拝して「耶蘇教をわが国から追いだしたまえ」と祈りつづけるほどの青年であっ
たのだ。
ところが、いったん、キリスト教と武士道の精神が矛盾するものではなく、ともに自
己を鍛える崇高なる道徳律であることを理解すると、在学中に「信仰の独立」を唱
え、外国の援助や干渉を受けない独自のキリスト教を主唱したのだ。
明治一四年(1881)札幌農学校を首席で卒業した内村は、農学校の規定にしたが
い開拓使御用掛として勤め、のち農商務省に転ずるが、やがて明治一七年、その農
商務省も辞めて自費でアメリカへ留学した。ペンシルバニア州の州立精神薄弱児の
施設などで苦労して働き、その後クラークの母校でもあるアマスト大学に進学して
神学を修めた。そしてここでシーリー総長と出会い、決定的な「回心」を体験して福
音主義的信仰に導かれたのであった。
●後世への最大遺物
帰国後の内村は第一高等学校の講師の職にあった。だが明治二四年(1891)一月
、思わぬ試練に遭遇する。明治天皇の教育勅語奉載式で「敬礼」を躊躇したことで職
を解かれてしまうのだ。世に「不敬事件」として知られているが、内村は「国賊」
「不敬
漢」として、井上哲次郎ら国権論者を中心に、日本中のジャーナリズムから総攻撃さ
れた。もちろん内村にすればキリスト教徒の良心から出たものであったが、「忠君愛
国」に燃える世間はそれを許さなかった。
犯罪者のごとき烙印を押された内村には、身の置き場もなかったほどだった。友人を
訪ねてネグラを探す内村は、あるとき盛岡で宿をとった。「内村鑑三」の名では泊め
てくれないだろうと、「内村三蔵」という偽名をつかった。ところが、ちょうどその
年の五月、ロシア皇帝を大津で斬りつけた犯人が「津田三蔵」という名であったた
め、宿の主人はその人物と疑って内村を叩き出したという。
あるいはまたこんな話しも残っている。
日本中を転々とする内村は、京都に札幌農学校の先輩でクリスチャンでもあった大島
正健を訪ねた。腹が空いているだろうと大島がスキ焼きをご馳走すると、内村は鍋の
ものを全部平らげたのち、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と、一気に
鍋を持ち上げて飲み干したという。
内村によれば、不敬事件のあとの数年は、「飢餓線上をさまようごとく」であったと
記すが、だが、この間に処女作『基督教徒のなぐさめ』をはじめ、『日本人および日
本人』『余は如何にして基督教徒となりし乎』などの名著をあらわし、その精神は
「日本のため、世界のため、キリストのために」と、いっそう磨かれ、昂揚していく
のである。
なかでも感銘を受けるのは、こうした受難の時に、若きキリスト教徒たちのため
に夏期学校でおこなった「後世への最大の遺物」という講演である。
内村はいう。
「一人の人間として我々は何をこの世に遺せるか。金か、事業か、文学か……、だ
が、それらは誰もが残しうる最大の遺物とはいいがたい。誰もが遺せる最大の遺物、
それは勇ましく高尚なる生涯だと思うのです」
後にこの講演は一冊の本としてまとまり、内村の気概の精神を唱えるものとして、若
きキリスト教徒たちの「和製聖書」とまで呼ばれるが、この後、内村は先の著作のベ
ストセラーとともに、不死鳥のようによみがえったのである。
●日本の天職とは
いまや内村は、マスコミ界きっての売れっ子として国民的寵児となっていた。明治三
十年(1897)二月一四日、当時、日本一の発行部数を誇っていた黒岩涙香の『萬朝
報』に、内村が英文欄の主筆として迎えられると、同紙はその入社を一面トップで紹
介したほどだった。だが、やがて日露戦争が勃発し、社長の黒岩涙香が参戦論を展開
すると、内村は堺枯水、幸徳秋水らとともに「非戦論」を唱えて、同社を退社した。
明治三十六年十月九日のことだ。その日、萬朝報に掲載された「退社の辞」は、日露
戦争に反対する内村の心の叫びであった。
この間、内村は社会評論雑誌『東京独立雑誌』(明治三十一〜三十三年)、個人雑誌
『無教会』(同三十四〜三十五年)などを創刊しつづけるが、内村のライフワークと
なったのは、明治三十三年から死にいたる(昭和五年六十九歳で死去)まで出版され
た個人雑誌『聖書之研究』であった。これは全三百五十七号における一連の聖書講義
であり、内村はこれを「紙上の教会」とみなして、全国三千人の読者に三十年間送り
つづけたのである。それは「無教会主義」と呼ばれる内村の独自の布教活動であっ
た。
内村にすれば、キリスト教信仰は「キリストを信じる」という、ただそれだけのこと
で十分であり、洗礼を受けたり教会に通うことなどといった制度や作法は重要視しな
かったのである。
また日曜日ごとに行われた聖書講義は、東京市民の人気の的であり、会場となった場
所は常に満員であった。内村は聖書との関連で、人生を語り、世界をながめ、歴史を
解釈し、進んで人に信仰をすすめたり、信者をつくろうとはしなかった。
内村の真骨頂は、膨張する国家に対してその堕落ぶりを批判し、信仰と愛国心に裏打
ちされたナショナリズムを提唱したことだ。いわゆる「日本天職論」であるが、彼は
福沢諭吉の「脱亜論」とは違う、欧米と東洋の折衷を説き、次のような主旨を述べた
のである。
「日本のあるべき姿は東西世界の架け橋となることであり、軍事力や経済力とは別の
“信仰の国”として、平和国家を建設することである」と。
この言葉は今日の日本でも通用する一つの国家論といえるのではないか。ちなみに、
こうした内村から薫陶を受けた人々として有島武郎、志賀直哉、正宗白鳥、前田多
聞、南原繁、矢内原忠雄、高木八尺などがいる。
No.117(嵐に遭った漁船)
嵐に遭った漁船
ある寒い冬の朝、ニューファンドランド島の東海岸にある小さな港から数隻の漁船が
出航しましたが、午後になって大嵐に見舞われ、夜になっても、1隻として港に戻る
ことができませんでした。
妻や母や子供や恋人達は、一晩中、海岸を行ったり来たりしながら、心配のあまり手
を握り締め、愛する者を救って下さいと神に呼び求めていました。
さらに悪いことに、民家の一つが火事になってしまいましたが、男達が皆出ていたの
で、火を消すことはできませんでした。
夜が明けると、漁船がそろって無事に港に帰って来たので、みな大喜びでした。けれ
ども、その中に一人だけ、絶望の表情をたたえた女性がいました。火事で家が焼けて
しまった男の妻です。
夫が陸にあがってくると、彼女は泣いてこう言いました。「ああ、あなた、私達はも
うおしまいだわ! 家も何もかも火事で焼けてしまったんですもの!」
けれども、驚いたことに、夫は喜びの声でこう言ったのです。「その火事を神に感謝
しよう! 漁船をみな、港に導いてくれたのは、燃えていた私達の家の炎だったんだ
よ!」
ある寒い冬の朝、ニューファンドランド島の東海岸にある小さな港から数隻の漁船が
出航しましたが、午後になって大嵐に見舞われ、夜になっても、1隻として港に戻る
ことができませんでした。
妻や母や子供や恋人達は、一晩中、海岸を行ったり来たりしながら、心配のあまり手
を握り締め、愛する者を救って下さいと神に呼び求めていました。
さらに悪いことに、民家の一つが火事になってしまいましたが、男達が皆出ていたの
で、火を消すことはできませんでした。
夜が明けると、漁船がそろって無事に港に帰って来たので、みな大喜びでした。けれ
ども、その中に一人だけ、絶望の表情をたたえた女性がいました。火事で家が焼けて
しまった男の妻です。
夫が陸にあがってくると、彼女は泣いてこう言いました。「ああ、あなた、私達はも
うおしまいだわ! 家も何もかも火事で焼けてしまったんですもの!」
けれども、驚いたことに、夫は喜びの声でこう言ったのです。「その火事を神に感謝
しよう! 漁船をみな、港に導いてくれたのは、燃えていた私達の家の炎だったんだ
よ!」
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