嵐に遭った漁船
ある寒い冬の朝、ニューファンドランド島の東海岸にある小さな港から数隻の漁船が
出航しましたが、午後になって大嵐に見舞われ、夜になっても、1隻として港に戻る
ことができませんでした。
妻や母や子供や恋人達は、一晩中、海岸を行ったり来たりしながら、心配のあまり手
を握り締め、愛する者を救って下さいと神に呼び求めていました。
さらに悪いことに、民家の一つが火事になってしまいましたが、男達が皆出ていたの
で、火を消すことはできませんでした。
夜が明けると、漁船がそろって無事に港に帰って来たので、みな大喜びでした。けれ
ども、その中に一人だけ、絶望の表情をたたえた女性がいました。火事で家が焼けて
しまった男の妻です。
夫が陸にあがってくると、彼女は泣いてこう言いました。「ああ、あなた、私達はも
うおしまいだわ! 家も何もかも火事で焼けてしまったんですもの!」
けれども、驚いたことに、夫は喜びの声でこう言ったのです。「その火事を神に感謝
しよう! 漁船をみな、港に導いてくれたのは、燃えていた私達の家の炎だったんだ
よ!」
2015年8月16日日曜日
No.116(続けられてきた水確保の努力)
続けられてきた水確保の努力
●蛇口から水が出るまで
水道の蛇口をひねれば清潔な水が勢いよく出る──それはいかにも当たり前に思えま
すが、はたしてそうでしょうか。降った雨が水源地から川を下り、ダムにたくわえら
れ、取水口、浄化場、水道管をへて蛇口から一滴の水の集まりとして出るまで、つま
り、おいしい水が飲めるまでに、東京では六日と十五時間かがるといわれています。
水は長い旅をしてくるわけです。しかも、水道局の人たちの絶え間ない努力があるか
らこそ、蛇口をひねるだけできれいな水が出るのです。蛇口の向こう側にいる人々に
対して感謝の念をもちたいと思います。
●玉川上水建設の苦労
水を守り、水を確保するための努力は、古くからつづけられています。
たとえば玉川上水。羽村−江戸四谷木戸間、約五〇キロの玉川上水は、江戸の昔、八
百八町、百万人のノドを潤したことで知られています。
江戸の町の発達にともなって飲料水が不足し始め、承応二年(一六五三年)、幕府は
多摩川の水を引く計画を立てました。その工事の中心となったのは玉川庄有衛門と清
右衛門の兄弟でした。玉川兄弟はこの工事に生命をかけ、その苦労もたいへんなもの
でした。
承応二年春、幕府から五千両の大金がおり、いよいよ上水工事が始まりました。しか
し天候が不順で、工事が思うようにはかどりません。五千両もまたたく間に底をつ
き、やがて労働者に払う賃金も滞り始めました。そこで玉川兄弟は自分たちの田畑を
切り売りして賃金に当てました。そして、とうとう最後の田畑までも手放し、工事を
つづけましたが、資金が足りなくなり、ますます苦しくなっていきました。しかし、
人間の生活にとって水がいかに大切であるかを知っていた玉川兄弟は、この工事を放
棄することはしませんでした。
ある晩、庄右衛門と清右衛門は金の工面のために江戸に出かけました。その間、給金
があてにならないのならと、労働者たちはとうとう工事をやめてしまいました。やけ
になった労働者の中には、上水堀をたたきこわせ、という者まで現れました。金の工
面ができず、がっかりして工事現場にもどった庄右衛門は、労働者たちの前で深々と
頭を下げ、必死の声をふりしぼりました。
「私はお前たちを裏切った。だから何をされてもうらまない。しかし……、あの上水
堀は私のものではない。あれは江戸何十万人の人間の生命につながっている。あれを
こわされたら、江戸の町民たちが永久に苦しまなければならない。だから、上水堀に
は手を触れないでくれ。上水堀さえ無事ならば、私がいなくても、何年か何十年か先
に、きっとだれかが私の遺志を継いでくれるだろう。だから、私は死んでもかまわな
い、ただ上水堀だけは……」
あたりは一瞬シーンと静まり返り、いつしか庄右衛門の目にも涙がれていました。
さっきまであんなにいきり立っていた労働者たちも、庄右衛門の熱意に打たれまし
た。いちばん前に立っていた労働者が、鋤をもったままスタスタと工事場へ向かい、
黙々と上水堀を掘り始めたのです。一人、二人、三人……やがて全員が目に涙を浮か
べながら仕事にとりかかりました。庄右衛門と一足違いで清右衛門がもどってきたと
き、真夜中の仕事場には恐ろしいほどの活気がみなぎっていました。
翌承応三年(一六五四年)四月、工事はついに完成し、多摩川の清き水が江戸の町へ
とうとうと流れこみました。以後約二百四十年間、明治二十三年に東京市上水道がで
きるまで、この玉川上水は市民たちの貴重な飲料水の供給源としてその役割を果たし
つづけました。
おそらくこのような例は、全国各地にたくさんあることでしょう。無名の先人たちが
工夫し努力してくれた成果が、今も多くの人々の生命を養っているのです。
●蛇口から水が出るまで
水道の蛇口をひねれば清潔な水が勢いよく出る──それはいかにも当たり前に思えま
すが、はたしてそうでしょうか。降った雨が水源地から川を下り、ダムにたくわえら
れ、取水口、浄化場、水道管をへて蛇口から一滴の水の集まりとして出るまで、つま
り、おいしい水が飲めるまでに、東京では六日と十五時間かがるといわれています。
水は長い旅をしてくるわけです。しかも、水道局の人たちの絶え間ない努力があるか
らこそ、蛇口をひねるだけできれいな水が出るのです。蛇口の向こう側にいる人々に
対して感謝の念をもちたいと思います。
●玉川上水建設の苦労
水を守り、水を確保するための努力は、古くからつづけられています。
たとえば玉川上水。羽村−江戸四谷木戸間、約五〇キロの玉川上水は、江戸の昔、八
百八町、百万人のノドを潤したことで知られています。
江戸の町の発達にともなって飲料水が不足し始め、承応二年(一六五三年)、幕府は
多摩川の水を引く計画を立てました。その工事の中心となったのは玉川庄有衛門と清
右衛門の兄弟でした。玉川兄弟はこの工事に生命をかけ、その苦労もたいへんなもの
でした。
承応二年春、幕府から五千両の大金がおり、いよいよ上水工事が始まりました。しか
し天候が不順で、工事が思うようにはかどりません。五千両もまたたく間に底をつ
き、やがて労働者に払う賃金も滞り始めました。そこで玉川兄弟は自分たちの田畑を
切り売りして賃金に当てました。そして、とうとう最後の田畑までも手放し、工事を
つづけましたが、資金が足りなくなり、ますます苦しくなっていきました。しかし、
人間の生活にとって水がいかに大切であるかを知っていた玉川兄弟は、この工事を放
棄することはしませんでした。
ある晩、庄右衛門と清右衛門は金の工面のために江戸に出かけました。その間、給金
があてにならないのならと、労働者たちはとうとう工事をやめてしまいました。やけ
になった労働者の中には、上水堀をたたきこわせ、という者まで現れました。金の工
面ができず、がっかりして工事現場にもどった庄右衛門は、労働者たちの前で深々と
頭を下げ、必死の声をふりしぼりました。
「私はお前たちを裏切った。だから何をされてもうらまない。しかし……、あの上水
堀は私のものではない。あれは江戸何十万人の人間の生命につながっている。あれを
こわされたら、江戸の町民たちが永久に苦しまなければならない。だから、上水堀に
は手を触れないでくれ。上水堀さえ無事ならば、私がいなくても、何年か何十年か先
に、きっとだれかが私の遺志を継いでくれるだろう。だから、私は死んでもかまわな
い、ただ上水堀だけは……」
あたりは一瞬シーンと静まり返り、いつしか庄右衛門の目にも涙がれていました。
さっきまであんなにいきり立っていた労働者たちも、庄右衛門の熱意に打たれまし
た。いちばん前に立っていた労働者が、鋤をもったままスタスタと工事場へ向かい、
黙々と上水堀を掘り始めたのです。一人、二人、三人……やがて全員が目に涙を浮か
べながら仕事にとりかかりました。庄右衛門と一足違いで清右衛門がもどってきたと
き、真夜中の仕事場には恐ろしいほどの活気がみなぎっていました。
翌承応三年(一六五四年)四月、工事はついに完成し、多摩川の清き水が江戸の町へ
とうとうと流れこみました。以後約二百四十年間、明治二十三年に東京市上水道がで
きるまで、この玉川上水は市民たちの貴重な飲料水の供給源としてその役割を果たし
つづけました。
おそらくこのような例は、全国各地にたくさんあることでしょう。無名の先人たちが
工夫し努力してくれた成果が、今も多くの人々の生命を養っているのです。
No.115(リンカーンの母の遺言)
リンカーンの母の遺言
アメリカ16代大統領となったアブラハム・リンカーン(1809-65)が、まだ幼い時の
ことであった。彼の家は貧しく小さな丸太小屋に住み、着たきりスズメの鹿皮の下着
のまま寝っころがるような生活をしていた。けれども母のナンシーは、そんなまずし
さにまけないで、人間にとって一番大切なものは物質ではないということを、まだ幼
い二人の姉弟に教えてきた。 リンカーンが10歳の時、彼の愛する母は、マラリヤ
にかかってしまった。彼女は、いよいよ神のみもとに召される時がきたことを悟った
とき、枕元にリンカーンと姉をまねいた。
病で痩せおとろえた手で、リンカーンの手をとり、頭をなでながら、信仰深い母は
いった。「おまえがこれからもっとも大切にし、そして実行してもらいたいことがあ
ります。これは、聖書の教えですが、お母さんの願いでもあります。神を信じなさ
い。そして正直に生きなさい。お父さんを助け、姉さんと仲よくし、隣人を愛しなさ
い。」 これを遺言として、母の魂は彼女の信じるイエスのみもとに召されて行っ
た。
1818年10月5日、母35歳、姉のサラは12歳のことであった。
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞きしたがえ。あなたの母の教えを捨ててはならな
い。」 箴言1章7節
************************************************************
リンカーンの母
1861年、アブラハム・リンカーンはアメリカ第16代の大統領の重い栄冠を勝ち
得た。彼はその就任式にのぞんでこのように語った。 「もし今日まで、わたしが何
かをなし得たことがあったとしたら、それは、信仰篤い母の賜物であります。また、
今後わたしが何かをなしうるなら、それは母の祈りの賜物でありましょう。」
「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」箴言 23章25節
【アブラハム・リンカーンのことば】
聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものは
すべて聖書にある。聖書はそれ自身の権威を裏づける無数の証拠を持っている。
【アブラハム・リンカーンのことば】
「聖書はこれまでに神がくださった最上のギフトであると、私は信じている。世界の
救い主から発する一切の良きものは、この書を通して我々に伝達される」。
アメリカ16代大統領となったアブラハム・リンカーン(1809-65)が、まだ幼い時の
ことであった。彼の家は貧しく小さな丸太小屋に住み、着たきりスズメの鹿皮の下着
のまま寝っころがるような生活をしていた。けれども母のナンシーは、そんなまずし
さにまけないで、人間にとって一番大切なものは物質ではないということを、まだ幼
い二人の姉弟に教えてきた。 リンカーンが10歳の時、彼の愛する母は、マラリヤ
にかかってしまった。彼女は、いよいよ神のみもとに召される時がきたことを悟った
とき、枕元にリンカーンと姉をまねいた。
病で痩せおとろえた手で、リンカーンの手をとり、頭をなでながら、信仰深い母は
いった。「おまえがこれからもっとも大切にし、そして実行してもらいたいことがあ
ります。これは、聖書の教えですが、お母さんの願いでもあります。神を信じなさ
い。そして正直に生きなさい。お父さんを助け、姉さんと仲よくし、隣人を愛しなさ
い。」 これを遺言として、母の魂は彼女の信じるイエスのみもとに召されて行っ
た。
1818年10月5日、母35歳、姉のサラは12歳のことであった。
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞きしたがえ。あなたの母の教えを捨ててはならな
い。」 箴言1章7節
************************************************************
リンカーンの母
1861年、アブラハム・リンカーンはアメリカ第16代の大統領の重い栄冠を勝ち
得た。彼はその就任式にのぞんでこのように語った。 「もし今日まで、わたしが何
かをなし得たことがあったとしたら、それは、信仰篤い母の賜物であります。また、
今後わたしが何かをなしうるなら、それは母の祈りの賜物でありましょう。」
「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」箴言 23章25節
【アブラハム・リンカーンのことば】
聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものは
すべて聖書にある。聖書はそれ自身の権威を裏づける無数の証拠を持っている。
【アブラハム・リンカーンのことば】
「聖書はこれまでに神がくださった最上のギフトであると、私は信じている。世界の
救い主から発する一切の良きものは、この書を通して我々に伝達される」。
No.114(数字の間違い- ウイリアム・グラッドストーン)
数字の間違い
ウイリアム・グラッドストーンは、蔵相時代に、部下に予算案の土台となる幾つ
かの統計値を算出させた。しかし、統計担当官の提出した数値は間違いだった。けれ
どもこの担当官の正確度に絶大の信頼を寄せていたグラッドストーンは、それらの数
値を確かめることをしないまま、下院に出向き、自分が受け取った不正確な数値に基
づいて、予算案の承認を求める演説を行なってしまった。その演説は新聞で取り上げ
られ、そのひどい間違いが暴露された。
グラッドストーンが困惑したのは言うまでもない。グラッドストーンは大臣室に戻
ると、この屈辱的状況を引き起こした張本人を直ちに呼び寄せた。恐れおののきなが
らやって来た統計担当官は、左遷を覚悟していた。ところが、グラッドストーンはこ
う言ったのだった。「この件で君がひどく狼狽していることはわかっている。こうし
て君を呼んだのはその心配を取り除いてやるためだ。君は国家の財政という複雑な事
柄を長い間、処理してきてくれたが、君が過ちを犯したのは今回が初めてだ。そこ
で、今までの君の立派な仕事ぶりに『おめでとう』を言い、心からの謝意を表明した
かったんだ。」
こんなまねができるのは、真の寛容さと広い心を持つ大人物だけです。
【ウイリアム・グラッドストーンのことば】
● 私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖
書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限
に引き離している。
●(「あなたの生涯で何が一番うれしかったか」との問いに答えて)「大学を主席
で卒業したときも、国会議員に当選した時も、首相になった時もうれしかったのです
が、最もうれしかったのは、青年時代、イエスを救い主と信じ、新生を経験し、信
じてバプテスマを受けた時でした。」
William Ewart Gladstone 1809〜98 イギリスのビクトリア時代の代表的な政治家
の一人で、1867年に自由党党首となり、4度にわたり首相をつとめた。在任1868
〜74、80〜85、86、92〜94年。
リバプールの富裕な商人の家に生まれ、敬虔(けいけん)なキリスト教徒としてそだ
てられた。イートン校をへてオックスフォード大学クライスト・チャーチで学んだが
、宗教より政治の道をえらんだ。しかし、生涯を通じて強い信仰心をもちつづけた。
ウイリアム・グラッドストーンは、蔵相時代に、部下に予算案の土台となる幾つ
かの統計値を算出させた。しかし、統計担当官の提出した数値は間違いだった。けれ
どもこの担当官の正確度に絶大の信頼を寄せていたグラッドストーンは、それらの数
値を確かめることをしないまま、下院に出向き、自分が受け取った不正確な数値に基
づいて、予算案の承認を求める演説を行なってしまった。その演説は新聞で取り上げ
られ、そのひどい間違いが暴露された。
グラッドストーンが困惑したのは言うまでもない。グラッドストーンは大臣室に戻
ると、この屈辱的状況を引き起こした張本人を直ちに呼び寄せた。恐れおののきなが
らやって来た統計担当官は、左遷を覚悟していた。ところが、グラッドストーンはこ
う言ったのだった。「この件で君がひどく狼狽していることはわかっている。こうし
て君を呼んだのはその心配を取り除いてやるためだ。君は国家の財政という複雑な事
柄を長い間、処理してきてくれたが、君が過ちを犯したのは今回が初めてだ。そこ
で、今までの君の立派な仕事ぶりに『おめでとう』を言い、心からの謝意を表明した
かったんだ。」
こんなまねができるのは、真の寛容さと広い心を持つ大人物だけです。
【ウイリアム・グラッドストーンのことば】
● 私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖
書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限
に引き離している。
●(「あなたの生涯で何が一番うれしかったか」との問いに答えて)「大学を主席
で卒業したときも、国会議員に当選した時も、首相になった時もうれしかったのです
が、最もうれしかったのは、青年時代、イエスを救い主と信じ、新生を経験し、信
じてバプテスマを受けた時でした。」
William Ewart Gladstone 1809〜98 イギリスのビクトリア時代の代表的な政治家
の一人で、1867年に自由党党首となり、4度にわたり首相をつとめた。在任1868
〜74、80〜85、86、92〜94年。
リバプールの富裕な商人の家に生まれ、敬虔(けいけん)なキリスト教徒としてそだ
てられた。イートン校をへてオックスフォード大学クライスト・チャーチで学んだが
、宗教より政治の道をえらんだ。しかし、生涯を通じて強い信仰心をもちつづけた。
No.113(自分らしく、奔放に (現代美術家 谷崎幸三郎))
自分らしく、奔放に (現代美術家 谷崎幸三郎)
これまで現代美術の抽象的な世界に触れるたびに感じてきたあの「冷たさ」をこの
人の作品にはなぜか感じさせない。じっと見つめていると優しい感覚を抱くと同時に
、ちょっとした懐かしさを覚える。作品の中にある種の無邪気さを感じるせいだろ
うか。
かつて、より「独創的」であろうとして、かえって自己を見失った。色とりどりの
オリコミ広告を一晩水に浸し、ぎゅっと固めて糸巻きにした造形物を無数に作り出し
ていた時期がある。無為にさえ思えるその作業は連日続き、サツマイモのような塊
は日を追うごとに増えていった。
谷口はその頃の自分を「全てに行き詰まり、道に迷っていた」と振り返る。新しい
表現を追い求めているつもりが、いつしか芸術の世界で認められたいがための創作
になっていた、とも。
ほかの人に認められる、あるいは評価されんがための行為は、何であれ精神を消
耗させる。美術家として抱く「もっと自由に」「より純粋に」との渇望とは裏腹に
、個展を開くたびに心と精神は消耗していった。
その苦しみから解放されたのは、聖書の言葉に出会ってからだ。当時はまだ信仰
もなく、むしろ宗教そのものに疑念を抱いていたが、まさに「打ちのめされる」よ
うな自己の内面への衝撃だった。
その衝撃の起点である聖書は、谷口に「自我」を捨てるように迫ってきた。「自分
のために生きるものはそれを失い、かえってそれを捨てる者は永遠の命を得る」とい
う一節が印象的だったという。
自分のスタイルを確立したい、自分だけの表現方法を確立したいという願いが、か
えって自分を見失わせていくことにも気がついた。そして、その「自我」を捨てたと
きに、ようやく「自分らしいスタイル」で描けるようになり、描く行為そのものを楽
しめるようになったという。
たまに芸術仲間から信仰を揶揄(やゆ)されることもあるが、「純粋に絵を描こう
とするなら、信仰がなければ無理だ」という確信は変わらない。
谷口幸三郎
1952年、滋賀県生まれ。東京芸術大学大学院版画科修了。
好きな言葉は、ヘンリー・ミラーの「生きて愛するためには、しかもその絵の具で
表現するためには人は真の信仰者でなければならない。崇拝するものがなければな
らない。」
これまで現代美術の抽象的な世界に触れるたびに感じてきたあの「冷たさ」をこの
人の作品にはなぜか感じさせない。じっと見つめていると優しい感覚を抱くと同時に
、ちょっとした懐かしさを覚える。作品の中にある種の無邪気さを感じるせいだろ
うか。
かつて、より「独創的」であろうとして、かえって自己を見失った。色とりどりの
オリコミ広告を一晩水に浸し、ぎゅっと固めて糸巻きにした造形物を無数に作り出し
ていた時期がある。無為にさえ思えるその作業は連日続き、サツマイモのような塊
は日を追うごとに増えていった。
谷口はその頃の自分を「全てに行き詰まり、道に迷っていた」と振り返る。新しい
表現を追い求めているつもりが、いつしか芸術の世界で認められたいがための創作
になっていた、とも。
ほかの人に認められる、あるいは評価されんがための行為は、何であれ精神を消
耗させる。美術家として抱く「もっと自由に」「より純粋に」との渇望とは裏腹に
、個展を開くたびに心と精神は消耗していった。
その苦しみから解放されたのは、聖書の言葉に出会ってからだ。当時はまだ信仰
もなく、むしろ宗教そのものに疑念を抱いていたが、まさに「打ちのめされる」よ
うな自己の内面への衝撃だった。
その衝撃の起点である聖書は、谷口に「自我」を捨てるように迫ってきた。「自分
のために生きるものはそれを失い、かえってそれを捨てる者は永遠の命を得る」とい
う一節が印象的だったという。
自分のスタイルを確立したい、自分だけの表現方法を確立したいという願いが、か
えって自分を見失わせていくことにも気がついた。そして、その「自我」を捨てたと
きに、ようやく「自分らしいスタイル」で描けるようになり、描く行為そのものを楽
しめるようになったという。
たまに芸術仲間から信仰を揶揄(やゆ)されることもあるが、「純粋に絵を描こう
とするなら、信仰がなければ無理だ」という確信は変わらない。
谷口幸三郎
1952年、滋賀県生まれ。東京芸術大学大学院版画科修了。
好きな言葉は、ヘンリー・ミラーの「生きて愛するためには、しかもその絵の具で
表現するためには人は真の信仰者でなければならない。崇拝するものがなければな
らない。」
No.112(「みな我が師」支えられてこその金メダル- 清水宏保選手)
「みな我が師」支えられてこその金メダル
清水宏保選手からの伝言
自分でも思いがけない感情なのですが、五輪が終わった今、胸の内側にあるのは、自
らに対する「ものたりなさ」です。
皆さんのお陰で、念願だった金メダルを五百メートルで取らせていただきました。千
メートルの銅メタル獲得できました。でも、目標を達成したとき、わき上がってきた
のは、「競技の頂点は、人としての頂点ではない」という当たり前の思いでした。
「競技者である前に、人間としてやるべきことをきちんと見つけていかなければ」と
いう気持ちです。いま、「意識の新陳代謝」が始まっているのを感じます。
表彰台に立たなければ、そんな気持ちになることはなかったかもしれません。土台を
作ってくれたのは、周囲で僕を支えてくれた方々です。
会社(三協精機)では、本業と関係ないスケート靴の改良のため、残業、休日出勤を
してくれました。エムウエーブの氷について、僕が生意気に文句ばかり言うのを、整
氷責任者は黙って聞いて、最高の氷にしてくれました。
練習をして、レースに出る。自分の役割はそれだけでした。ただ、皆さんの期待と自
分の弱さが重なって、五百メートルのレース直前の一週間は、悩み抜きました。「だ
れか、助けてくれ」。叫び出したい思いでした。
でも、ここで逃げ出しては、一生、逃げ続けなけれはならない。自分の中で「二人の
清水」が闘い、レース前夜、ふっと気持ちが軽くなった。遠足の前日の子供のよう
に、レースが楽しみになった。成功のイメージが自然にわいた。そうなれは、もう大
丈夫なんです。
レースでは、とにかく筋肉をしなやかに使うことだけを考えました。「力を入れる」
のではなく、「力を動かす」。
レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。指の力を抜くことが、八割の
気持ちで十割以上の力を出すコツだと思っています。最後の直線は、流しているよう
に受け取られがちですが、リラックスした滑りは、そう見えるのです。
母とゆっくり話をする時間は、まだありません。でも、毎日、電話をくれます。「お
めでとう、お疲れさん」と言ってくる。
「きのうも聞いたよ」と口答えしながら、母の喜びが身にしみます。
十九日は父の命日でした。帯広に帰ってから仏壇にきちんと報告しようと思い、ま
だ、天国の父とは話をしていません。いろんな出会いに恵まれて、ここまで来まし
た。金メダルは人生の通過点。僕がひとつの「峠」を越えられたのは、テレビで応援
してくださった方も含めて、本当に皆さんのお陰です。
「我以外皆我が師」ありがとうございました。
清水宏保選手からの伝言
自分でも思いがけない感情なのですが、五輪が終わった今、胸の内側にあるのは、自
らに対する「ものたりなさ」です。
皆さんのお陰で、念願だった金メダルを五百メートルで取らせていただきました。千
メートルの銅メタル獲得できました。でも、目標を達成したとき、わき上がってきた
のは、「競技の頂点は、人としての頂点ではない」という当たり前の思いでした。
「競技者である前に、人間としてやるべきことをきちんと見つけていかなければ」と
いう気持ちです。いま、「意識の新陳代謝」が始まっているのを感じます。
表彰台に立たなければ、そんな気持ちになることはなかったかもしれません。土台を
作ってくれたのは、周囲で僕を支えてくれた方々です。
会社(三協精機)では、本業と関係ないスケート靴の改良のため、残業、休日出勤を
してくれました。エムウエーブの氷について、僕が生意気に文句ばかり言うのを、整
氷責任者は黙って聞いて、最高の氷にしてくれました。
練習をして、レースに出る。自分の役割はそれだけでした。ただ、皆さんの期待と自
分の弱さが重なって、五百メートルのレース直前の一週間は、悩み抜きました。「だ
れか、助けてくれ」。叫び出したい思いでした。
でも、ここで逃げ出しては、一生、逃げ続けなけれはならない。自分の中で「二人の
清水」が闘い、レース前夜、ふっと気持ちが軽くなった。遠足の前日の子供のよう
に、レースが楽しみになった。成功のイメージが自然にわいた。そうなれは、もう大
丈夫なんです。
レースでは、とにかく筋肉をしなやかに使うことだけを考えました。「力を入れる」
のではなく、「力を動かす」。
レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。指の力を抜くことが、八割の
気持ちで十割以上の力を出すコツだと思っています。最後の直線は、流しているよう
に受け取られがちですが、リラックスした滑りは、そう見えるのです。
母とゆっくり話をする時間は、まだありません。でも、毎日、電話をくれます。「お
めでとう、お疲れさん」と言ってくる。
「きのうも聞いたよ」と口答えしながら、母の喜びが身にしみます。
十九日は父の命日でした。帯広に帰ってから仏壇にきちんと報告しようと思い、ま
だ、天国の父とは話をしていません。いろんな出会いに恵まれて、ここまで来まし
た。金メダルは人生の通過点。僕がひとつの「峠」を越えられたのは、テレビで応援
してくださった方も含めて、本当に皆さんのお陰です。
「我以外皆我が師」ありがとうございました。
No.111(失われてしまった創業のこころ- 雪印乳業(株)創立者 黒澤 酉蔵)
失われてしまった創業のこころ
黒澤 酉蔵 雪印乳業(株)創立者 (1998年3月 掲載)
「健民は健土より、健土は愛土より」
「神を愛し、人を愛し、土を愛す」
わが国乳業界のトップメーカーであり、北海道に生まれた代表的な企業である雪印乳
業(株)は1950(昭和25)年に発足しました。その前身は1925(大正14)年に設立さ
れた北海道製酪販売組合(宇都宮仙太郎組合長)です。デンマークの協同組合にな
らったこの組合の創立に、その理念と情熱を注いだのが専務に就任した黒澤酉蔵
氏です。
黒澤氏は、1885(明治18)年、茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)に生まれまし
た。その生家は、黄門様で知られる水戸学発祥の地である西山荘の間近にありまし
た。
この西山荘で修学した人たちは "水戸っぽ" といわれ、闘志あふれた気骨の激しさ
を真骨頂としていました。そうした環境のなかで成長した黒澤少年は、青雲の志を抱
いて上京。書生をしながら英語学校に通い、やがては海軍兵学校への進学をめざして
いました。
ところが、1901(明治34)年、田中正造が足尾銅山の鉱毒を直訴するという事件が起
こりました。このとき、黒澤少年の全身に熱血が沸き立ち、衝動抑えがたい思いで田
中正造の宿へ訪ねて行ったのです。田中翁は見知らぬ少年を快く迎え入れ、事件
の真相や経緯を聞かせてくれました。代議士の栄職を投げ打って農民や漁師のた
めに身を捨てた田中正造の崇高な正義感と人間愛に接した黒澤少年は、みずから
も農民のために立ち上がり、災害地学生視察団に加わったのち学生鉱毒救済会を
組織し、鉱毒根絶の農民運動のために奔走し、またたくまに青年同志友愛会を結成
したのです。
しかし、そうした運動に治安当局の弾圧が激しくなり、ついに未決のまま投獄されて
しまいます。
そのとき、鉱毒地救済婦人会長から一冊の聖書が獄中に差し入れられました。しか
し、尊皇攘夷の伝統思想を持つ水戸っぽには興味の薄いものでしたが、出獄後、田中
翁に伴われて内村鑑三も師事したといわれる新井奥遂の門をたたき、キリスト教の
「愛」の教義を学んで、のちに入信する素地を身にします。
鉱毒運動の裁判で無罪となった黒澤氏は、心機一転、1905(明治38)年に北海道
に新天地を求め、札幌の宇都宮牧場に見習い牧夫として働きます。そして、4年後
には山鼻東屯田に牧場をもって自立、酪農業一筋の道をスタートするのです。日本メ
ソジスト札幌教会で洗礼を受けたのもこの年です。それは、宇都宮氏が熱心なクリ
スチャンであったことによりますが、その教会で良き友・佐藤善七氏(現・佐藤貢雪
印乳業相談役の父)を得て、北海道酪農の三巨星といわれるこの人たちによって製
酪販売組合を創立したのです。
このころから、デンマーク農法の研究を始め、北海道の半分の面積、土地は痩せ、天
然資源の少ないヨーロッパの小国が、実り豊かな、そして農民の生活水準も高い農業
国になったことを知ります。それを実現したのは地力培養農業であり、貧しい農民の
協同の力にあったのを痛感したのです。
水戸学の思想が骨子にあり、「国土の尊厳を破壊し蹂躙するは亡国の始めなり」とい
う田中正造の叫びによって磨かれた黒澤氏の「健土健民」という国土尊重主義は、や
がて北海道開拓構想の明確な理念となります。
こうした礎のもと、戦後、雪印乳業(株)がスタートし黒澤氏は相談役となり、自ら
は北海道の酪農振興に全力を尽くします。それと同時に「神を愛し、人を愛し、土を
愛す」という三愛主義を産業教育の建学精神とし、酪農学園大学、旧野幌機農高校・
旧三愛女子高校(ともに現とわの森三愛高校)を創立します。
不毛の地・根釧原野を酪農王国といわれるまでにしたパイロットファーム事業をはじ
め、北海道開発の焦点となった事業、施設、法律や制度のほとんどを手がけた黒澤氏
は、約一世紀に及ぶ生涯を北海道の土づくり、人づくりのために捧げました。
●牛乳中毒:
「雪印低脂肪乳」でおう吐や下痢 大阪市が回収指示 (2000.06.29 毎日新聞)
大阪市は6月29日、雪印乳業大阪工場(大阪市都島区都島南通、下野勝美工場
長)で製造された「雪印低脂肪乳」を飲んだ人が、おう吐や下痢、腹痛などの症状を
訴えており、製造・販売の自粛と製品約12万5000本の自主回収を指示したと発
表した。これまでのところ、食中毒の原因菌は発見されておらず、同市は異物混入の
可能性もあるとして大阪府警科学捜査研究所に鑑定を依頼した。被害は大阪府と
兵庫県、和歌山県の1府2県で計64人。同市は28日夜に商品回収の指示を出し
ながら、「原因が特定できない」などの理由で29日午後まで公表しておらず、被害
者はさらに増える可能性がある。症状はいずれも重くないという。
各府県の保健局によると、被害は大阪府35人▽兵庫県3人▽和歌山県26人。
●雪印乳業:
「会社の体質、問題あった」 社内調査結果発表 (2000.12.22 毎日新聞)
1万3420人の被害者を出した雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件で、同社の
西紘平社長は22日、東京都新宿区の東京本社で会見。事件発生直後の対応につい
て、前社長ら当時の幹部が消費者に注意をうながす社告掲載を決断せず被害を拡
大させたとする社内調査結果を発表し、「情報の伝達など当たり前のことを当たり前
にやれない会社の体質に問題があった」と陳謝した。
「効率性追求のため、品質管理を軽視した。いつしか、企業体質が変容してしまっ
た」。22日、集団食中毒に関する社内調査結果を記者会見して発表した雪印乳業
の幹部は、最後は声を震わせた。調査では、会社全体の安全性への低い認識が明
らかになり、西紘平社長らは陳謝を繰り返す一方、旧体制への決別を強調した。
発生後の対応の不手際が指摘されている石川哲郎・前社長ら当時の幹部が、刑事処
分を受けた場合の対応について、西社長は「内容にもよるが、当然、社内の処分は厳
正にしたい」と明言した。そして、「幼稚な意見で恥ずかしいが、実態を正しく伝
え、きちんと聞くという原点に戻らなければ雪印は改革できない」と、再建への決意
を語った。
黒澤 酉蔵 雪印乳業(株)創立者 (1998年3月 掲載)
「健民は健土より、健土は愛土より」
「神を愛し、人を愛し、土を愛す」
わが国乳業界のトップメーカーであり、北海道に生まれた代表的な企業である雪印乳
業(株)は1950(昭和25)年に発足しました。その前身は1925(大正14)年に設立さ
れた北海道製酪販売組合(宇都宮仙太郎組合長)です。デンマークの協同組合にな
らったこの組合の創立に、その理念と情熱を注いだのが専務に就任した黒澤酉蔵
氏です。
黒澤氏は、1885(明治18)年、茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)に生まれまし
た。その生家は、黄門様で知られる水戸学発祥の地である西山荘の間近にありまし
た。
この西山荘で修学した人たちは "水戸っぽ" といわれ、闘志あふれた気骨の激しさ
を真骨頂としていました。そうした環境のなかで成長した黒澤少年は、青雲の志を抱
いて上京。書生をしながら英語学校に通い、やがては海軍兵学校への進学をめざして
いました。
ところが、1901(明治34)年、田中正造が足尾銅山の鉱毒を直訴するという事件が起
こりました。このとき、黒澤少年の全身に熱血が沸き立ち、衝動抑えがたい思いで田
中正造の宿へ訪ねて行ったのです。田中翁は見知らぬ少年を快く迎え入れ、事件
の真相や経緯を聞かせてくれました。代議士の栄職を投げ打って農民や漁師のた
めに身を捨てた田中正造の崇高な正義感と人間愛に接した黒澤少年は、みずから
も農民のために立ち上がり、災害地学生視察団に加わったのち学生鉱毒救済会を
組織し、鉱毒根絶の農民運動のために奔走し、またたくまに青年同志友愛会を結成
したのです。
しかし、そうした運動に治安当局の弾圧が激しくなり、ついに未決のまま投獄されて
しまいます。
そのとき、鉱毒地救済婦人会長から一冊の聖書が獄中に差し入れられました。しか
し、尊皇攘夷の伝統思想を持つ水戸っぽには興味の薄いものでしたが、出獄後、田中
翁に伴われて内村鑑三も師事したといわれる新井奥遂の門をたたき、キリスト教の
「愛」の教義を学んで、のちに入信する素地を身にします。
鉱毒運動の裁判で無罪となった黒澤氏は、心機一転、1905(明治38)年に北海道
に新天地を求め、札幌の宇都宮牧場に見習い牧夫として働きます。そして、4年後
には山鼻東屯田に牧場をもって自立、酪農業一筋の道をスタートするのです。日本メ
ソジスト札幌教会で洗礼を受けたのもこの年です。それは、宇都宮氏が熱心なクリ
スチャンであったことによりますが、その教会で良き友・佐藤善七氏(現・佐藤貢雪
印乳業相談役の父)を得て、北海道酪農の三巨星といわれるこの人たちによって製
酪販売組合を創立したのです。
このころから、デンマーク農法の研究を始め、北海道の半分の面積、土地は痩せ、天
然資源の少ないヨーロッパの小国が、実り豊かな、そして農民の生活水準も高い農業
国になったことを知ります。それを実現したのは地力培養農業であり、貧しい農民の
協同の力にあったのを痛感したのです。
水戸学の思想が骨子にあり、「国土の尊厳を破壊し蹂躙するは亡国の始めなり」とい
う田中正造の叫びによって磨かれた黒澤氏の「健土健民」という国土尊重主義は、や
がて北海道開拓構想の明確な理念となります。
こうした礎のもと、戦後、雪印乳業(株)がスタートし黒澤氏は相談役となり、自ら
は北海道の酪農振興に全力を尽くします。それと同時に「神を愛し、人を愛し、土を
愛す」という三愛主義を産業教育の建学精神とし、酪農学園大学、旧野幌機農高校・
旧三愛女子高校(ともに現とわの森三愛高校)を創立します。
不毛の地・根釧原野を酪農王国といわれるまでにしたパイロットファーム事業をはじ
め、北海道開発の焦点となった事業、施設、法律や制度のほとんどを手がけた黒澤氏
は、約一世紀に及ぶ生涯を北海道の土づくり、人づくりのために捧げました。
●牛乳中毒:
「雪印低脂肪乳」でおう吐や下痢 大阪市が回収指示 (2000.06.29 毎日新聞)
大阪市は6月29日、雪印乳業大阪工場(大阪市都島区都島南通、下野勝美工場
長)で製造された「雪印低脂肪乳」を飲んだ人が、おう吐や下痢、腹痛などの症状を
訴えており、製造・販売の自粛と製品約12万5000本の自主回収を指示したと発
表した。これまでのところ、食中毒の原因菌は発見されておらず、同市は異物混入の
可能性もあるとして大阪府警科学捜査研究所に鑑定を依頼した。被害は大阪府と
兵庫県、和歌山県の1府2県で計64人。同市は28日夜に商品回収の指示を出し
ながら、「原因が特定できない」などの理由で29日午後まで公表しておらず、被害
者はさらに増える可能性がある。症状はいずれも重くないという。
各府県の保健局によると、被害は大阪府35人▽兵庫県3人▽和歌山県26人。
●雪印乳業:
「会社の体質、問題あった」 社内調査結果発表 (2000.12.22 毎日新聞)
1万3420人の被害者を出した雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件で、同社の
西紘平社長は22日、東京都新宿区の東京本社で会見。事件発生直後の対応につい
て、前社長ら当時の幹部が消費者に注意をうながす社告掲載を決断せず被害を拡
大させたとする社内調査結果を発表し、「情報の伝達など当たり前のことを当たり前
にやれない会社の体質に問題があった」と陳謝した。
「効率性追求のため、品質管理を軽視した。いつしか、企業体質が変容してしまっ
た」。22日、集団食中毒に関する社内調査結果を記者会見して発表した雪印乳業
の幹部は、最後は声を震わせた。調査では、会社全体の安全性への低い認識が明
らかになり、西紘平社長らは陳謝を繰り返す一方、旧体制への決別を強調した。
発生後の対応の不手際が指摘されている石川哲郎・前社長ら当時の幹部が、刑事処
分を受けた場合の対応について、西社長は「内容にもよるが、当然、社内の処分は厳
正にしたい」と明言した。そして、「幼稚な意見で恥ずかしいが、実態を正しく伝
え、きちんと聞くという原点に戻らなければ雪印は改革できない」と、再建への決意
を語った。
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