2015年8月16日日曜日

有名人の聖書観 Part Ⅶ


                 有名人の聖書観 Part Ⅶ


【アウグスティヌス】
旧約聖書の中に新約聖書は、隠されている。新約聖書の中に旧約聖書は開かれてい
る。

Augustinus (354〜430)
中世ローマの哲学者、神学者。初期キリスト教会最大の教父。北アフリカのタガステ
に生まれた。若い頃は遊びにふけっていたが、イタリアのミラノでアンブロシウス僧
正の感化を受けて、熱心なキリスト教信者となった。
391年ヒッポの司祭、翌年司教となり、死ぬまでの34年間、キリスト教の発展に
努力した。主な書物には、「告白」「神の国」などがあり、中世の代表的な神学者
で、その思想はキリスト教会に大きな影響を与えた。




【グリーン】
聖書は、神が我々個々に宛ててお書きになった個人的書簡である。

Julien Green 1900〜 
フランスの小説家。アメリカ人の両親のもとでパリに生まれる。第1次世界大戦でフ
ランス軍に従軍したのち、渡米してバージニア大学にまなび、帰国後、作家活動には
いった。フランス語で書かれた小説には、罪、悪、暴力、狂気への執着がみてとれ
る。
1971年、フランス人以外でははじめてアカデミー・フランセーズ( フランス学士院)
会員にえらばれた。




【ゲーテ】
聖書は、読めば読むほどすばらしくなる。聖書は、理解が進んで、この自分と関わり
があるとわかるにつれ、美しくなる。

Johann Wolfgang von Goethe 1749〜1832 
ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間
精神との関わりへの革新的な観察眼があらわれており、その戯曲や小説には、人間の
もつ個性へのゆるぎない信念がうつしだされている。
そして、こうしたゲーテの作品は、評論や書簡もふくめて、同時代の作家たちや、彼
が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて大きな影響をあたえた。19世紀のイギ
リスの文芸批評家マシュー・アーノルドによれば、ゲーテは、「ドイツ文学界の大御
所」というだけでなく、「世界文学のもっとも多才な巨匠のひとり」であった。




【W・チェインバーズ】
政治的自由は、聖書を政治的に読んでいるにしか過ぎない。

元共産党員で TIME 編集長も務めた。




【P・ブルックス】
聖書は、望遠鏡のようなものである。望遠鏡を通して見れば、かなたの色々な世界が
見えてくる。だが、その望遠鏡を見れば、目にはいるのは、望遠鏡だけである。聖書
はかなたにあるものを見るために私たちがそれを通して眺めるためのものである。し
かし、殆どの人は、聖書を眺めるだけである。従って、彼らは死んだ文字だけを目に
することになるのである。

米人ブルックス、札幌農学校教師として着任し、本国から持参したスケートで初めて
滑る。




【トマス・ア・ケンピス】
汝が聖書全部を、またすべての哲学者のことばを暗じたとしても、神の愛と恵みがな
ければ、汝にどんな利益があるというのか。

Thomas a Kempis 1379?〜1471 
ドイツ生まれの修道者。実名はトマス・ヘメルケン。プロイセンのケンペンで生まれ
たのでア・ケンピスといわれる。オランダのデーフェンターでまなび、1407年に聖ア
グネス山のアウグスティヌス会の修道院に入会、13年に司祭となった。人生の大半を
この観想修道院の沈黙の中ですごし、書物の筆写、後輩修道者の指導、そして著作に
いそしんだ。
トマスは、「イミタティオ・クリスティ(キリストにならいて)」の著者とみなされて
いる。これは、現在までひろくよまれてきた信仰生活の手引書で、ラテン語で書かれ
た中世文学の傑作とされている。日本でも16世紀のキリシタン版以来、多くの翻訳本
がだされてきた。彼の著作はオランダを中心にひろまったキリストの精神性を強調す
る運動「新しい信心」を代表するものであった。ほかに説教集、聖人伝、若者のため
の信仰生活入門書などをあらわしている。




【マルチン・ルター】
聖書は、生きている。聖書は私に語りかけてくる。聖書には足があり、私を追いかけ
てくる。聖書には、手があり、私を掴まえる。

Martin Luther 1483〜1546 
ドイツの神学者、プロテスタントの宗教改革をおこした指導者。その影響力は宗教だ
けでなく、ひろく政治や経済・教育・言語にもおよび、近代ヨーロッパ史の重要人物
のひとりにかぞえられる。また旧約聖書をヘブライ語からドイツ語に翻訳して発行し
た。




【V・ユーゴ】
イギリスは二つの書物を持っている。その一つは聖書であり、残りはシェイクスピア
である。イギリスがシェイクスピアを作ったのだが、聖書が、そのイギリスを作った
のである。

Victor Hugo 1802〜85 
フランスの詩人・小説家・劇作家。その数多くの作品は、ロマン主義運動にとって偉
大な推進力になった。代表作は、「レ・ミゼラブル」で、主人公ジャン・バルジャン
の波乱に富んだ物語で、広く世界の人々に読まれている。




【ビクトリア女王】
「イギリスの地位は、聖書のおかげで築かれたのです。イエス・キリストを通して真
の神を知ることが、イギリスを偉大で幸福な国としたのです。」
《イギリスの女王》

有名人の聖書観 Part Ⅴ(キリストを高く評価する人々)


                  有名人の聖書観 PartⅤ

キリストを高く評価する人々

【ルソー】
「友人に取り囲まれて、平然と思索を続けていたソクラテスの死は、人間が望みうる
最も好ましいものに見える。
苦悶のうちに息絶え、ののしられ、侮辱され、全国民から非難されたイエスの死は、
人の恐れるこの上もない恐怖である。なるほど、ソクラテスは毒杯を仰ぐとき、彼のこ
とを考えて涙にむせぶ死刑執行人を祝福した。
しかしイエスは苦しい拷問の中にあって、無慈悲な拷問者のために祈った。しかし、も
しソクラテスの生と死が聖人のそれであるとしたら、イエスの生と死は神のそれであ
る。」

Jean-Jacques Rousseau 1712〜78 フランス啓蒙期の哲学者・社会学および政
治学者・音楽家・植物学者。きわめてすぐれた作家でもある。
1712年6月18日、スイスのジュネーブに生まれる。誕生の数日後に母親が死亡し
たため、おじとおばにそだてられた。13歳のとき、彫刻師に弟子入りするが、3年後
にはそこをにげだし、裕福で思いやりのあるバラン夫人の秘書にして友人となる。
バラン夫人はルソーの生涯と著作に深い影響をあたえた。42年パリにでて、音楽
教師、楽譜筆写生、政治家秘書などで生計をたてる。フランスの哲学者ディドロの
したしい友人となり、ディドロから「百科全書」の音楽の項目の執筆を依頼されてい
る。




【ナポレオン】
「イエスは確かに、単なる人間ではない。キリストと帝国の建設者たち、他の宗教の
神との類似点というものは存在しないのだ。その間には無限の隔たりがある。
キリストにあるすべてのものが私を驚嘆させる。彼と世の中の者との間には、比較し
うる言葉がない。彼は真にそのままで絶対者である。彼の思想や感情、彼の述べ
る真理、彼の説得力は、人間的構造によっても、事柄の持つ性質のいずれによっ
ても、説明できない。
………近づけば近づくほど、調べれば調べるほど、すべて私のはるか上にある。
………すべてが偉大であり、何物をも圧倒せずにはやまない気高さを持っている。
………彼の生涯と類似するもの、または同じ例を、人は彼をおいて他に見いだす
ことは絶対にできない。
………私はイエスに似たものを歴史の中にも、人間の中にも、どの時代にも——そ
れと比較し。またそれを説明しうる何物をも——提供できない。」

Napoleon I   1769〜1821 フランス皇帝。在位1804〜14、15年。
たぐいまれな能力によって皇帝の地位にまでのぼりつめ、一時的にヨーロッパの大
半を支配した。コルシカ島のアジャクシオで、シャルル・ボナパルトとレティツィアの
8人の子のうちの2番目として生まれた。本名はコルシカ語でナポレオーネ・ブオナ
パルテ。ボナパルト家はロンバルディアに起源をもつ古い家柄で代々アジャクシオ
の町の行政にかかわってきたが、父は貧しい判事だった。
ながらくジェノバの支配下にあったコルシカ島は、18世紀に独立をもとめてたたかい、
手をやいたジェノバは、この島をフランスに売却し、1768年からフランス領となった。
ボナパルト家はコルシカ独立戦争で指導的役割をはたしていたが、フランス支配に
協力する立場に転向し、その功績によって貴族の資格を認定された。ナポレオンが
国王の給費生としてフランス本土でまなぶことができたのは、この資格によるものだ
った。




【パスカル】
「イエス・キリストによる神、わたしたちはただ、イエス・キリストによってのみ神
を知る。この仲保者がなければ、神との一切の交わりは断たれる。イエス・キリスト
によって、わたしたちは神を知る。イエス・キリストなしに神を知り、神を証明しよ
うと意図した人たちはみな、力のない証拠しか持っていなかった。しかし、イエス・
キリストを証明するためには、わたしたちは、かたい、手で触れるほどの証拠である
預言を持っている。そして、これらの預言は成就され、実際に起こった事柄によって
真実であることが証明されたのであるから、それらの真理の確実さを示すものであ
り、したがって、イエス・キリストの神性の証拠となるものである。こうして、イエ
ス・キリストのうちに、イエス・キリストによって、わたしたちは神を知る。この点
を離れては、また聖書もなく、原罪もなく、約束され、来臨されたぜひとも必要な仲
保者なしには、わたしたちは絶対に神を証明することができない。正しい教え、正し
い倫理を教えることができない。しかし、イエス・キリストによって、イエス・キリ
ストにおいて、神を証明することができ、倫理と教えを教えることができる。それゆ
え、イエス・キリストこそ人にとってまことの神である。」(「パンセ」よりの引用)

Blaise Pascal 1623〜62 フランスの哲学者、科学者、宗教思想家、文学者。
オベーニュ地方のクレルモン・フェランで生まれ、1629年に家族とともにパリにうつっ
た。自然科学に通じた父から教育をうけ、はやくから天才的な数学の才能をあら
わし、16歳で「円錐(えんすい)曲線試論」を書いて、射影幾何学におけるパスカル
の定理を明らかにした。面倒な計算をしなければならない父の仕事をたすけるため
、42年には史上はじめての機械式計算機を製作した。




【フランツ・リスト】
(19世紀ハンガリーの作曲家)
「十字架につけられたもうたキリスト。十字架上における彼の人類に対する熱愛と崇
高な目的——それと同じ心で生活することが、わたしの真の願いである。」

Franz Liszt 1811〜86 ハンガリー生まれのピアニスト・作曲家。19世紀ロマン派
の主要作曲家で、ピアノのソロ・リサイタルという興行形態を創始した史上屈指の大
ピアニスト。
10月22日、ショプロン近郊のライディング村に生まれる。父にピアノの手ほどきをう
け、9歳でコンサート・デビュー。その後ウィーンでオーストリアのピアニスト、チェ
ルニーにピアノを、イタリア出身の作曲家サリエリに音楽理論をまなぶ。23年、両親と
ともにパリにうつり、イタリア出身のオペラ作曲家パエールとチェコ系フランス人の作
曲家・音楽理論家レイハに作曲を師事。24年、ソロ・リサイタルをひらいて成功をおさ
め、ピアニストとして名声を確立する。




【ジョン・スチュアート・ミル】
(1806-1873、イギリスの経済学者・哲学者)
「すべての道徳的行為において判断にまようような場合には、『これがナザレのイエ
スであったらどうせられたであろうか』と考えて、物事をおこなうならば、これにま
さるものはない。」

John Stuart Mill 1806〜73 イギリスの哲学者・経済学者。
19世紀イギリスの哲学、経済学だけではなく、政治学、論理学、倫理学などに多大
な思想的影響をあたえた。




【グラッドストーン】
(1809-1898、イギリスの宰相)
(「あなたの生涯で何が一番うれしかったか」との問いに答えて)「大学を主席で卒
業したときも、国会議員に当選した時も、首相になった時もうれしかったのですが、
最もうれしかったのは、青年時代、イエスを救い主と信じ、新生を経験し、信じてバ
プテスマを受けた時でした。」

William Ewart Gladstone 1809〜98 イギリスのビクトリア時代の代表的な政治家
の一人で、1867年に自由党党首となり、4度にわたり首相をつとめた。在任1868
〜74、80〜85、86、92〜94年。
リバプールの富裕な商人の家に生まれ、敬虔(けいけん)なキリスト教徒としてそだ
てられた。イートン校をへてオックスフォード大学クライスト・チャーチで学んだが
、宗教より政治の道をえらんだ。しかし、生涯を通じて強い信仰心をもちつづけた。




【フィリップ・シャッフ】
(19世紀アメリカの神学者)
「ナザレのイエスは金も武器もなかったが、アレクサンダー大王やマホメットやナポ
レオンよりも多く、幾百万という人々を征服した。科学も学問もなかったが、彼はあ
らゆる哲学者や学者を合わせた以上の光を投げかけた。雄弁という訓練を受けたこと
もなく、あとにもさきにも語られたことのないようないのちのことばを語り、雄弁家
や詩人の達することのできない効果を生んだ。一行も書き残しはしなかったが、古代
および現代の偉人の全部を合わせたもの以上に、多くの人たちの文筆を働かせ、より
多くの説教や演説、討議、芸術品、学術書や美しい賛美歌への主題を提供した。
飼い葉おけの中で生まれ、悪人として十字架につけられたが、彼はいま世界文明
の運命を支配している。そして地球の住民の三分の一を包含する霊的帝国を統治
している」




【八木重吉】
「波がひとつの川をながれてゆくように一念に基督を呼んで行こう。」




【八木重吉】
私はいろいろと経てきた後、死と生、の問題におびえました。また善と悪の問題に
迷いました。苦しい年月が経ちました。その間いろいろの人の言葉を聞き、いろいろ
の行いを見ましたが一つとして私を完全に満足させませんでした。しかるについに
一つの路にたどりつきました。一人の人に逢いました。
私はまずその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。人間業でない完全なる善
を感じました。その人の他人に対する態度、行い、言葉の内に非のうちどころがあり
ません。この人の人格は全く普通の人を超えています。
その人自らを空しうして他人のために働く態度、全くの虚心——それは完全なる善
であるとしか考えられません。そして何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂
の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分の長い間探していた者だ——と
信じました、この人の言うことを聞けば、この人間の世に生くる根本的な考えがわ
かると思いました。
そしてほんのわずかずつその人の言ったことをやってみると何のことはない、ぎっしり
こめていた霧が少しずつはれるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色が
良くなって来ました。いままでどうしても解けなかった難題が自ずと結び目がほぐれて
ゆきました。私はこれに勢いを得てますますその人はいい人だ、真に偉い人だ、間
違いのない人だと信ずるようになりました。
ここにおいて私の自分自らの心に対する問題、家庭に対する問題、広く人生に対す
る問題が、氷の溶けるように解けてゆくのを感じました。(しかし、もちろんまだまだ
本当には分かり切りません。しかし本当の光を認めたという確信は生じました。)
これは誰か、この人こそ私がこの人をよく知るまでは、大変な馬鹿者、つまらない奴、
いけ好かない奴、うそつきと思っていましたイエスという名前の大工のせがれです。
(中略)私は、イエスほども行いをなし、あれほどの言葉を言った者が嘘を言うはずは
ないと信じます。そしてこの点まで信じてきて私の長い間の苦しみは、ただ一つ、
すなわちいかに絶えず彼の前に自らを悔いんか——この一つの努力に集中されて
きました。
そしてそれから後もいろいろ信仰上、また、神についての迷いが生じますが、いつ
もつまりは『イエスほどの純潔な、崇高な無我愛に生きた、はかるべからざる智慧
の持ち主が、嘘を言うはずはない。もしあれが嘘ならこの世のほかのことすべては
もっと嘘に違いない。いわんやこの眇たる自分の、いい加減なこれまでの知識に育
てられてきた智慧など信ずることは出来ぬ。とにかく世に信ずべきものありとせば、
彼イエスの言葉と行いである。』
こう考えて再び努力精進の勇気を奮い起こします。私にとっては今まで読んだ何百
何千の書物よりも、このイエスという人の一言が重いのです。世界中の人が嘘だと
いっても私には嘘だと思えないのです。

重吉の詩は、その厳しい生涯と、さらに30年の生涯を支えたキリスト教信仰と深く関
係している

宇宙飛行士の観点

宇宙飛行士の観点


【ジーン・サーナン】(アポロ10号・17号 宇宙飛行士)
宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさにうたれる。こんな美しいものが、偶
然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然にぶつかった素粒子と
素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられ
ない。
地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによって
これほど美しいものが形成されるということはあり得ない。そんなことは論理的にあ
り得ないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる。



【ウォーリー・シラー】(アポロ7号 宇宙飛行士)
わたしはこの地球という惑星から3度離れたことのある人間として言うのだが、この
地球以外、われわれにはどこにも住む所がないんだ。それなのに、この地球上で
お互いに戦争し合っている。これは本当に悲しいことだ。



【ドン・アイズリ】(アポロ7号 宇宙飛行士)
地球にいる人間は、結局、地球の表面にへばりついているだけで、平面的にしか
ものが見えていない。平面的に見ている限り、平面的な相違点がやたらに目に付く。
地球上をあっちに行ったり、こっちに行ったりしてみれば、違う国はやはり違うもの
だという印象を持つだろう。風土が違うし、住んでいる人も違う。人種もちがう。
民族もちがう。文化もちがう。どこに行っても、何もかもちがう。生活様式から、食
べ物、食べ方までちがう。どこに行っても違いばかり目に付く。
しかし、その違いと見えるすべてものが、宇宙から見ると、全く目に入らない。マイ
ナーなちがいなんだよ。
宇宙からは、マイナーなものは見えず、本質が見える。表面的な違いはみんな消し飛
んで同じものに見える。相違は現象で、本質は同一性である。地表でちがうとこ
ろを見れば、なるほどちがうところはちがうと思うのに対して、宇宙からちがうとこ
ろを見ると、なるほどちがうところも同じだと思う。
人間も、地球上に住んでいる人間は、種族、民族は違うかもしれないが、同じホモ・
サピエンスという種に属するものではないかと感じる。対立、抗争というのは、すべ
て何らかの違いを前提としたもので、同じものの間には争いがないはずだ。同じだと
いう認識が足りないから争いが起こる。



【チャーリー・デューク】(アポロ16号 宇宙飛行士)
私は月をこの足で歩いてきた人間として、月を人間が歩いたことより、イエスがこの
地上を歩いたことの方が、人類にとってはるかに意味があることだということがよく
わかったのだ。


No.145(アポロ13号船長との出会い)

アポロ13号船長との出会い

NTTコミュニケーションズ(株)ソリューション事業部
担当部長 家田信吾

1.はじめに
みなさんは、人類で初めて月に降り立ったアポロ11号のニール・アームストロング船
長のお名前はよくご存じのことと思いますが、米国におきましては、月に向かう途中
で宇宙船の大事故に遭遇しながら、沈着冷静かつ強靭な忍耐力にささえられて奇蹟的
に生還したアポロ13号のジム・ラベル船長のほうがむしろ有名で、神さまから与えら
れた半生を「人々に夢と希望を与える」ためにささげている器として人々の尊敬を集
めております。
彼の苦難に満ちたフライトと奇蹟の生還の実話は、1995年に映画化され大ヒットしま
した。ご覧になった方もおられることと思います。ここでは、彼との奇蹟的な出会い
がきっかけになって、洗礼を受けることとなった私の体験談を中心に述べたいと思い
ます。

2.NTTへの就職
私は1982年に日本電信電話公社(現在のNTT)に就職し、無線技術者として社会人の
スタートをきることとなりました。1983年2月には国産ロケットH1にて初の実用通信
衛星「さくら2号」が打ち上げられることになり、幸運にも宇宙開発事業団の種子島
宇宙センターに派遣されました。
生まれて初めて見る本物のロケットや発射台、管制センターの機器類のすばらしさは
目もくらむようでした。そして、衛星の打ち上げは大成功をおさめ、私はこの後しば
らく、「さくら2号」の監視制御の仕事に携わることとなりました。

3.米国への赴任
それから11年後の1994年の春、会社からNTTアメリカの国際調達部長としてNTT調
達交渉を担当せよとの辞令が出ました。米国に赴任して、すぐに日米政府間でNTT
調達協定交渉が始まりました。NTT本社との連絡、日本政府やワシントンの日本大
使館との連絡、それから米国政府の動向調査、米国政府を裏で動かしている米国
の産業界の情報収集をはじめ、交渉の資料準備などに忙殺されましたが、9月には
両国政府の大臣折衝を経て無事に交渉がまとまりました。
このNTT調達協定交渉が一段落してからは、本来の自分の専門分野である衛星
通信、携帯電話やPCS(日本ではPHS)など、無線通信や移動体通信のリサーチや
米国ハイテク企業との共同プロジェクトに活動の重点を移しました。

4.アポロ13号の大事故を知る
そんな頃、偶然に見つけたビデオによって、日本ではほとんど知られていなかったア
ポロ13号の大事故のことを知りました。みなさんご存じのように、アポロ計画は、故
ケネディー大統領が「1960年代のうちに人類を月に送る」ことを公約して始められた
史上最大のプロジェクトで、1969年の8月にアポロ11号のニール・アームストロング
船長が人類で初めて月に降り立ち、成功を収めました。
アポロ13号は、それから8か月後の1970年4月11日米国東部時間の13時13分、フロ
リダ州のケネディー宇宙センターから打ち上げられました。乗組員は船長のジム・ラ
ベル42歳、月着陸船パイロットのフレッド・ヘイズ36歳、指令船パイロットのジャッ
ク・スワイガート38歳の3名で、彼らは全員クリスチャンでした。
アポロ計画は30年以上も前に行なわれたのですが、技術的にも規模的にも史上最
大のプロジェクトでした。みなさんはスペースシャトルのことをご存じだと思いま
す。
スペースシャトルは見かけはかっこいいですが、その性能はアポロ宇宙船の足元にも
及びません。アポロ宇宙船は、地球から38万kmも離れた月まで飛んで行ける人類史上
最も速い乗り物であるのに対し、スペースシャトルは地表からわずか300km程度の超
低空をのんびりかすめ飛んでいるに過ぎません。その距離の差は何と1300倍にもなり
ます。

5.宇宙飛行士たちの奇蹟の生還
話がそれましたが、アポロ13号は打ち上げからちょうど55時間後、地球から33万kmの
彼方まで達したとき、テキサス州ヒューストンの管制官リーバーガットの指示に従っ
て酸素タンクの攪拌用ファンのスイッチを入れたことが原因となって酸素タンクが爆
発事故を起こし、大半の酸素を失ってしまいます。アポロ宇宙船においては、この酸
素を乗組員の呼吸用に使用するとともに、燃料電池で水素と反応させることによって
水と電気を作り出しておりましたので、酸素の消失は宇宙船の全機能の停止を意味
し、3人の宇宙飛行士の死は確実という重大な事態となってしまいました。
このとき、管制官のリーバガットは、自分の指示が原因で事故を起こし、どんどん
減少していく酸素と電気のゲージを見て絶望し、「自分は不幸をもたらすヨナになっ
た気がしてならなかった。」と言っています。
ヨナというのは、旧約聖書のヨナ書に出てくる主人公で、自分が神さまの言いつけを
守らず不信仰であったために自分が乗った船を遭難させてしまったという物語です。
時がたつにつれて、事の重大さが次々に明らかになり、NASA(アメリカ航空宇宙局)
は、ついに3人の宇宙飛行士の家族に対し、当時のニクソン大統領による次のような
声明文を用意しました。
「ご遺族の方々に対し、私は妻とともに心よりお悔やみ申し上げます。残されたご家
族の方々にとっては、深い悲しみを伴う痛手でありましょう。しかし、犠牲となった
方々が、偉大なる挑戦とフロンティア精神に満ちた旅に立ち向かってくださったこと
により、人類の未来は永遠に豊かなものになるでしょう。」
しかし、3人の宇宙飛行士たちは決してあきらめませんでした。3人のうちで最も若
かったフレッド・ヘイズは、後の記者会見で次のように述べています。
「私はこの事故に遭遇したとき、コリント人への手紙第一10章13節の次のみことばを
思い出しました。
『あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたが
たを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに
耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』
私たちは、このみことばどおり、絶対に神さまに助けてもらえると信じ、そして神さ
まに祈りました。」と語っています。
なんと凄い信仰でしょうか。地球から33万kmの彼方で、もはや3人分の酸素は残され
ていないし、電気が切れれば誘導装置が止まるので、宇宙の彼方に飛んで行ってしま
うという絶体絶命の中で、このように冷静を保てる信仰とはいったい何だろう?
私は、なまじ宇宙開発に関与した経験があるために、「このような致命的な事故から
無事に帰還できることなんて不可能なのに、それをあきらめずに帰れると信じて祈る
とはいったいどういう神経なんだろう?」と不思議に思いました。
地上では、誘導装置を開発したマサチューセッツ工科大学、サターン5型ロケット本
体を開発したロックウェル社、月着陸船を開発したグラマン社、計器ユニットを開発
したIBM社などの2万人の人々が、3人の宇宙飛行士を救うために様々な実験、シミュ
レーションに協力しました。
さらに、欧米各国のキリスト教会は、彼らの無事の帰還を願って特別祈祷を行ないま
した。面白いことに、共産主義の国、旧ソビエト連邦の宇宙飛行士たちも、3人の宇
宙飛行士が無事に帰還するように神さまにお祈りしたそうです。
そして、不眠不休のシミュレーションの結果、月着陸船を救命ボートにすることにな
り、3人の宇宙飛行士は、ここの酸素と電気を使って地球の近くまで生き長らえ、最
後は電気を節約するために暖房を切って極寒になった指令船に乗って大気圏再突入を
果たし、事故が起こってから3日半の苦闘の末、本当に奇蹟の生還を果たし、彼らは
英雄として空母イオウジマに迎えられます。
私がこの話に感動し、このような「不可能を可能にしてしまう秘密」を知りたいと
思っていた矢先、この実話がユニバーサルスタジオによって映画化され、全米に大反
響を巻き起こしました。私は熱心にこの映画を見て、本もビデオも買いました。
しかし、「不可能を可能にしてしまう秘密」はどうしても解明できません。私は、ど
うしてもこの事件の主人公であるジム・ラベル船長に是非とも会って話を聞きたいと
思うようになりました。しかし、1997年の年明けに会社から帰国命令が出てしまった
ため、後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。日本に戻ってしまっては、もうラベル
船長に会うチャンスはなくなってしまう。しかし、運命から逃れることはできず、
1997年の4月に無念の帰国をしました。

6.神さまに計画されたジム・ラベル船長との出会い
ラベル船長のことを忘れかけていた1年4か月後の1998年の8月に米国の自動車業
界との会合のために突然デトロイトに出張することになりました。それまでに何度
も海外出張に出ていましたが、このときに限って、妻からもらったギデオン協会のバ
イリンガルの聖書を持って行きました。
行きの飛行機の中で、ヨハネの福音書、使徒行伝、ローマ人への手紙を読みました
が、私にとっては作り話にしかすぎず、キリストの死と復活や、使徒行伝の聖霊のみ
わざはどうしても信じられませんでした。
会議の第1日目に、参加者たちが気になる話をしているのを耳にしました。次の日の
昼食会に、あのアポロ13号のジム・ラベル船長が来賓として来られるとのことです。
嘘だろうと思って翌日のアジェンダを確認してみたら、やはりアポロ13号のジム・ラ
ベル船長が来賓として講演をすると書いてあります。私は大変驚きました。
日本を発つ前に入手したアジェンダには、そのようなことは一言も書いてありません
でした。おそらく直前に決まったものと思われます。私は、あれほど会いたかったラ
ベル船長が来るとは知らず、突然決まった出張に大慌てでやって来たのでした。
そして昼食会の当日、フォード社の技術担当副社長がスピーチを行なったあと、いよ
いよラベル船長が登場しました。アメリカ人ならばだれでも知っているヒーローの登
場です。割れんばかりの満場の拍手に私も興奮しました。
私は、一言も聞き漏らすまいと耳をこらしました。彼は、NASAの本物のフィルムを
使って、アポロ13号の打ち上げから苦難の帰還までを、穏やかではあるが力強い口調
で語りました。とても70歳とは思えない元気な口ぶりでした。彼はそのスピーチの中
で、次のことばを何度もくり返しました。

「みなさん、何事もあきらめてはいけません。神さまを信じ、夢と希望を持ちなさ
い。未来はみなさんの手のうちにあります。勇気を持ち続けなさい。祈りは必ず聞か
れます。希望を失ってはいけません。」

私には、今も彼のこのことばが耳に焼きついています。会場に居合わせた、ビッグス
リーと言われる米国自動車産業の幹部たち、そして自動車産業に関わる部品メーカや
通信事業者など米国の産業界を引っ張るリーダたちも、このスピーチから大きな感動
を得ていることがわかりました。
また、私はこの会場で、初めて強烈な聖霊さまの働きというかオーラのようなものを
感じ取りました。そして、彼がなぜ、あのような困難な事故から無事に帰還できたか
の秘密を瞬間的に悟らされました。そのとき、行きの飛行機の中で読んだヨハネの福
音書12章24節が思い浮かびました。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは
ただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

彼は、もし無事に月に降り立ち何事もなく地球に帰還していたら、たいして注目もさ
れなかったでしょう。しかし、いったん死の運命に直面し、大統領による殉死の声明
まで準備された後、彼らの自身の強い信仰によって奇蹟的に帰還し、そのことをあか
しすることによって多くの人々に夢と希望を与え続けているのでした。私は深い感動
を覚えました。そして、私自身のこの突然の出張もまた、神さまによって準備された
ものであることを知りました。
帰りの飛行機の中で、新約聖書の始めのマタイから順にマルコ、ルカと読んでいきま
した。すると、今まではさっぱりわからなかったみことばの意味がよくわかるように
なっていました。ラベル船長との衝撃的な出会いにより、自分自身が変えられてし
まったことを感じました。どの部分を読んでも、感動のあまり涙が止まりません。
デトロイトから成田まで、11時間のフライト中ほとんど聖書を読み続け、そして泣き
続けました。自分の40年間の人生で、これほど泣き続けた思い出はありませんでし
た。感動の喜びの涙でした。そして、成田に到着するまでには、洗礼を受ける決心が
ついていました。
日本に着いてから、おかしなことに気がつきました。
「俺は、どうしてこの聖書を持って出張に出たのか?」という疑問です。自分でもよ
くわかっていませんでした。
「飛行機の中では暇だろうし、会議は英語だから英語の勉強になるだろう。」と思っ
てバイリンガルの聖書を持って来た記憶はありましたが、なぜ今回に限って持って来
たのかがよくわかりません。
家に帰ってから妻に聞いてみたら、「この聖書は大学に入学したときに、ルカという
ドイツ人の聖書の先生にもらったんですが読まずにず〜と持っていました。あなたと
結婚したときに嫁入り道具の一つとして持って来たんですが、じゃまなので引越しの
たびに何度も捨てようと思ったんですが捨てられずにいました。あなたが出張に出か
けるとき、信仰に目覚めるようにと祈って手渡したんですよ。」と言いました。私は
神さまのあまりにも手の込んだ計画に恐れを抱きました。
私が妻と知り合ったのは、彼女が私の大学の隣にあったカトリック系の大学に入学し
たときです。ちょうどそのころ、神さまはルカという名前の大学の先生を使って妻に
この聖書を与え、私と知り合わせ、その6年後に結婚させ、ご丁寧にもさらにその13
年後、何と20年がかりで私にその聖書を出張に持って行かせて導くというみわざをさ
れたのでした。このような経緯により、先に決心していた妻とともに1998年の12月に
洗礼を受けました。

7.日本に必要な神さまの知恵と愛
今の日本は、バブル経済が破綻した後、大人も子どもも心が乱れ、国全体がおかしく
なっています。今の日本に必要なことは、「神さまの知恵」と「神さまの愛に満ちた
人間関係」ではないでしょうか。最後に、私が最も好きなみことばである箴言3章
13〜15節をご紹介してこのあかしを締めくくりたいと思います。

 「知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るもの
は、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝
石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。」



No.144(人生にたった1回しかない1日)

人生にたった1回しかない1日

「さよなら、さよなら、さよなら」で有名な、映画評論家の淀川長治さんは毎朝こん
な呪文を唱えるそうです。
「今日は15日。15日は1年に12回ある。今日は6月15日。1年に1回しかな
い。今日は1997年の6月15日。わたしの人生にたった1回しかない1日だか
ら、今日もニコニコしていよう。」
朝から機嫌が悪ければ1日中嫌な気持ちで過ごすことになるでしょう。
そんな気持ちは友達や家族にも伝染するばかりでなく、何をしても、うまくいくはず
のこともうまくいかなくなるでしょう。
1日をどのように始めるかはとても大事なことなのです。
アンドリュー・マーレーは朝早く起き聖書を読んで祈りました。そしてイエス様の愛
が心のなかにいっぱいになるまで立ち上がらなかったということです。
人生は1日1日の積み重ねです。そして、一生に1回しかない大切な今日をどのよう
に過ごすかは、朝一番のお祈り次第です。朝ごとに神様の前に静まって聖書を開き、
その日のために御言葉の糧をいただくことが大切です。
詩篇の作者は、「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」と歌い、
「あなたの約束にしたがって、わが歩みを確かにし、すべての不義に支配されないよ
うにしてください。」と祈りました。【詩篇119:105、133】
マルチン・ルターは祈りについてこう話しました。「多く祈った人は、多く学んだ人
である。」


アンドリュー・マーレー(1828-1917)
南アフリカのオランダ改革派教会の牧師。
南アフリカに牧師の子として生まれ、イギリスとオランダに学び、20歳のとき牧師に
任命される。帰国後牧師のいない数千の多国移住民の牧師として巡回する。1860年、
内陸のウースター教会にて奉仕している頃から霊的書物を書き始める。それからケー
プタウン教会、ウェリントン教会と歴任し、1906年、辞任してから残る生涯をケ
ズィック、ノースフィールド聖会やアメリカ、カナダ、イギリス、南アフリカなどの
伝道大会の説教者として活躍。


No.143(ひとつの変化 横山由和(音楽座))

ひとつの変化   横山由和(音楽座)

決して口には出さないが心の中でつぶやく呪文のような言葉がある。
それは短い言葉だが時や状況によって変化してきた。ふっとその言葉が音楽のよう
に鳴り響き自分を支配してしまい、歩き方やしゃべり方、顔つきまで変えてしま
う。
小学生の時、東京から大阪に転校した。言葉のギャップからか、性格からか、いろい
ろなことで悪目立ちしたようだ。
けんかやいざこざ、事件が起こるたびに、そこには必ず私がいた。
その頃、鳴り響いていた言葉は「平凡に、平凡に」だった。
とにかく目立たずに、波風おこさず、無事に一日を終えることがテーマだったのかも
しれない。
反抗期には「なめんなよ」という言葉が鳴り響いていた。
「やさしく やさしく」という時代があったり「Let it be」なんていう時代も
あった。どれもたわいもない言葉だが自分の生き方に結びついていた。
生き方というのは、私の場合、他者とどうかかわるかだ。
「なめんなよ」時代は、きっと嫌な奴だったろう。そういうときは、つきあう人間達
も似たもの同士が集まってくる。
勝手なことをしておいて、責任逃れのためにほっておいてくれと叫んでいた。
あたかもそれが自由だと勘違いして……。
「優しく」時代は、一見好ましい人に写ったことだろう。しかし、甘い言葉で他人に
取り入って、その実、自分に優しくしてもらいたかっただけの、ただの寂しがりやに
過ぎなかったのかもしれない。ましてや他人との分かり合えるなんてことは、幻想に
近い気がしていた。
しかし、共感することができる。それを教えてくれたのが演劇だった。
芝居は一人では作れない。いろいろな人々が集まってチームができて、見る人間がい
て初めて成り立つ。当たり前のことだが、このことに気がつくのにずいぶんと時間が
かかった。
演劇を始めた頃はとにかく目立って、驚かして、人よりうまくやればいいと思ってい
た。
他者よりも自分が抜きん出ていることの証明のために、芝居を利用した。
いつも「負けるもんか」が鳴り響いていた。
子供の頃から培われた競争のしくみを演劇に当てはめていただけだった。人よりもい
い点を取って、いい学校には行って、いい会社には行って、いい給料をもらって、い
い家に住んで……。
確かにこういう欲望は人を動かすかもしれない。
勝った負けたに一喜一憂し、次の競争に新たなファイトを燃やす。常識やら、責任と
いうことにあまりにも無縁すぎたのだ。しかし、Aさんはじっと我慢していた。
その間にも環境作りを徹底的に行っていた。ギブ・アンド・テイクのはずが、ギブ
・アンド・ギブばかりだった。
公演も行ったが、そこそこの成果しかあげられなかった。拍手をもらってもうれしく
なかった。
私の中で何かが終わった。
創り出す意欲が失せ、それを他人のせいにした。
井戸が涸れて、汲んでも汲んでも砂や石ころだらけだった。
しかしAさんは出会いを大切にする人で、そんな私を見捨てなかった。
むしろ裏切ったのは私の方だ。
私は退団した。
しかし辞めたおかげで、逆にいろいろなことが見えてきた。仲間がいるというこ
とはどれだけ素晴らしいことか、やろうと思えば何でもやれる場があることは、
どれほど尊いものか。
そんな可能性だらけの、かけがえのない時間の中に生きていること。
辞めてからすぐに、音楽座からの依頼があった。私は素直にやりたいと思った。
そして組織も大きく変わろうとしていた。
名称も劇団音楽座から、劇団を取った音楽座に変わりアクターズだけのチームにな
り、作品の企画制作をヒューマンデザインが行うことになった。
そんな体制になって出来上がったのが「シャボン玉とんだ宇宙まで飛んだ」だった。
これが今の音楽座のミュージカルの新しい出発点になった。
いかなるチームを作り上げるかがいつも課題だった。一度うまく行ったからといっ
て、そこに甘んじてとどまりはしなかった。パターンになることを恐れていたから
だ。自分たちの活性化のために、常に努力し変化させていった。平坦な道はなく、
いつも山あり谷ありだった。しかし、前へ前へと進んでいった。
「やれば出来る」
そんな言葉が、事務所にも稽古場にも気配として充満していた。
私は座付き作家兼演出家として、共に仕事が出来て幸せだったと思う。
本当に多くのことを学ばせて頂いた。

エゴに生きるよりも他者のために生きた方がよっぽど楽しい。
人に役立つ思いは必ず実現する。
何かを変えたかったら自分自身を変えること。
出会いを大切にし相手を受け入れること。
自然の中で生きている自分という天然資源を無駄に使わないこと。

どれもこれもシンプルで、当たり前のことかもしれないが、私にとっては意味深い。
音楽座の素晴らしいところは変化することに柔軟であり、かつ積極的だったところ
だ。
世の中の変化に対して敏感に反応し、今という時を大切にし芝居の中に反映させ
ようと試みた。
とても残念なことではあるが、その音楽座も解散する。
これもひとつの変化なのであろう。
私が演劇を始めてから、世の中も様々に変化してきた。とどまっているものは、何
ひとつない。
無常であることを無情ととるか楽しいこととしてとらえるかで未来が変わっていく。
文句やぐちもこぼしはするが、その前にやるべきことがある。文句やぐちの大半の原
因は自分にあるのだから。
恨みや憎しみからは何も生まれない。無益な争いを作り大切ななにかを壊すだけだ。
チームとは何だろう。
自分の生きていく、場のことなのかもしれない
それならば、私達は生まれたときからチームに属している。家族もチームだし、学校
も会社もチームだし、日本という国もチームであり、地球に住む生命体としてもチー
ムの一員なのだ。未来がどうなるか、先のことは誰にもわからない。
だた、自分がどうしたいかで変わっていく。
口に出さない呪文のような言葉が破壊やごまかしの言葉であってはならないと思う。
演劇という、素晴らしいものに巡り会ったチームの一員としても。



★横山 由和(よこやま よしかず) 脚本家・演出家
桐朋学園大学演劇科を卒業後、1977年に劇団音楽座を結成。『ヴェローナ物語』『森
林幻想曲』『組曲・楽園』『闇夜の祭り』『夢の降る町』等のミュージカルの脚本・
演出を手がける。
88年音楽座を退団。以降、音楽座解散まで、座付き作家兼演出家となる。主な作品に
『シャボン玉とんだ 宇宙(そら)までとんだ』『とってもゴースト』『アイ・ラブ
・坊ちゃん』『マドモアゼル・モーツァルト』『星の王子さま』等。また、83年より
98年までNHK『おかあさんといっしょ』の構成を担当。
96年4月の音楽座解散に伴い、Stepsエンターテイメントを結成。

主な受賞作品
1989年 文化庁芸術祭賞(受賞作品『とってもゴースト』)
1991年 第25回紀伊國屋演劇賞(『シャボン玉とんだ 宇宙まで飛んだ』、『とっても
ゴースト』の脚本・演出に対して)
1994年 第1回読売演劇大賞優秀作品賞(受賞作品『アイ・ラブ・坊ちゃん』)
1995年 第2回読売演劇大賞優秀作品賞(受賞作品『泣かないで』)

No.142(祈りの力)

祈りの力

ノーベル賞受賞者のアレキシス・カレル博士の論文 [「道は開ける」から]
「祈りは人間が発生させることのできる最も強力な形式のエネルギーである。それは
地球の引力と同じ現実的な力である。医師としての私は、多数の人々があらゆる他の
療法が失敗に帰してから祈りという厳粛な努力によって、疾病や憂欝から救われた例
を目撃している。
祈りはラジウムのように、輝かしい自己発生エネルギー源である。祈りによって人類
は、彼ら自身をあらゆるエネルギーの無限源へ呼びかけることによって、彼らの有限
エネルギーを増大することを求める。我々が祈る時、我々は宇宙を回転させる無尽蔵
の原動力と我々を結びつける。我々は、この力の一部が我々の必要に配分されるよう
にと祈る。
かく求めることだけで、我々の人間的欠陥は満たされ、我々は強められ、癒されて立
ち上がるのである。我々が熱烈な祈りで神に訴える特、我々は精神も肉体もより良き
ものに変化せしめる。わずか一瞬の祈りでも、必ず何らかの良き結果を祈った人々に
もたらすものである」

アレキシス・カレル(Alexis Carrel)
フランスに生まれる。ノーベル生理学、医学賞受賞。
医学の発展に不滅の足跡を残す。人間の本性と未来を考察した『人間 - この未知な
るもの』は出版数年にして18カ国語に翻訳され、今なお多大な影響を与えている。

インドの最大級の指導者マハトマ・ガンジーは「祈りがなかったら、私はとっくに気
が狂っていただろう」と語っている。ボクシングのジャック・デンプシーは試合を控
えてのトレーニング中も毎日祈り、また試合中も毎回試合聞始のゴングが鳴る前に祈
った。そしてモントゴメリー元帥も、ネルソン提督も、ワシントン将軍も祈った。

セシル・B・デミル
「神の思いを心に注ぎ入れてもらおう。そうすれば、より幸せになる。世界最大の力
は祈りの力であると、私は知った。それに疑いの余地はない。自分の経験から言って
いるのだ。」
《アメリカの映画監督。代表作は「十戒」。》

No.141(コーヒーカップの上の祈り-キング牧師)

コーヒーカップの上の祈り−キング牧師

1950年代前半にアメリカ南部のミシシッピー州のマニーという町でひどい事件が
起きました。北部のシカゴから来た黒人少年エメット・ティル少年が、白人女性に
声をかけたために白人の男性によって殺害されたのです。
裁判が行われましたがティル少年を殺した白人の男性に対しては無罪が言い渡さ
れました。アメリカ全土に衝撃が走りました。
アメリカにはこのようなどうしようもない差別があったのです。このような暴力的
な差別が平気で行われるアメリカで非暴力という武器で差別に闘いを挑んだのが
マーティン・ルーサー・キング牧師です。
白人女性に声をかけただけで殺されるような差別の中で、差別と闘わなければな
らない勇気というのは、私たちには想像し難いものです。
彼はいつも命の危険と隣り合わせでした。毎日のように続く脅迫電話。
そしてあるときには、家に爆弾が投げ込まれたことさえありました。
家族に対しての身の危険がいつもありました。しかし、キング牧師は差別に対して
勇敢に戦ったのです。
しかしそんな彼も、どうしようもなく臆病になってしまうときがありました。

脅迫は続きました。ほとんど毎日白人たちが私をばらそうという計画を立てていると
いう話しを、それとなく聞いたといって私に警告してくれました。
ほとんど毎晩私は明日の不安を胸にいだいて床についたのです。
そして夜が明けると、私は妻のコレッタとかわいいヨキを眺めながら一人思ったので
す。
「いつか彼らは私から引き離されるかも知れないし、私が彼らから引き離されるかも
知れない。」これまでコレッタに私のこうした思いをうち明けたことは一度もありま
せんでした。
1月も末近いある晩、私は一日中忙しく働いて夜遅く床につきました。コレッタは
すでに眠りについていました。私がうとうとしかかったとき突然電話のベルが鳴り
ました。電話口からは怒気を含んだ声が聞こえてきたのです。
「聞け黒ん坊 ! ! お気の毒なことだが来週おまえがモントゴメリーにやってくるま
でに、俺たちは欲しいものをことごとくおまえから奪い取ってしまうだろうぜ ! !」
電話は切れたのですが、眠ることは出来ませんでした。
私の心の底の一切の恐怖が一度に表面に飛び出したように思われました。
私はすでに飽和点に達していたのです。
私はベットから飛び起きて床の上を歩き始めましたが、ついに台所へ出かけて
コーヒー・ポットを温めました。私は一切を断念しようとしました。
前に置いたコーヒーカップには触れないで、私は卑怯者のように見られないで、
なんとかうまく運動から抜け出す方法がないかあれこれと考え始めたのです。
勇気がすっかりくじけ去り疲労困憊したこうした状態の中で、この問題の解決を
神様にお任せしようと決心したのです。
両手で頭を抱え込み台所のテーブルの上に身を伏せて声高く祈りを捧げたのです。
この日の深夜、私が神様に語った言葉は今もありありと私の記憶の中に残っていま
す。

「私は、ここで私が正しいと信ずることのために闘っています。しかし、今私は恐れ
ているのです。人々は私の指導を求めています。そしてもし、私が力も勇気もなく彼
らの前に立つならば、彼らも勇気を失うでしょう。
私の力は今まさに尽きようとしています。今私の中には何も残っていません。
私は1人では到底立ち向かうことのできぬところに来てしまいました。」

この瞬間、私は神の御前にあることを感じました。こうした経験は今だかつて決し
てなかったことでした。あたかも、
「正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍らにいます
であろう」
という内なる声で静かな約束を聞くことができたように思われました。
それと同時に恐怖は消え始めました。
不安は消え去りたとえ何ものであってもこれに立ち向かう覚悟を決める事が出来
たのです。


No.140(映画監督 黒沢明)

映画監督   黒沢明

最後まで第一線で活躍
「自分が本当に好きなものを見つけてください。見つかったら、その大切なもののた
めに努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはず。きっとそれは、君
たちの心のこもった立派な仕事になるでしょう」

黒沢明監督の遺作となった「まあだだよ」の中で、主人公の老先生が弟子たちに残し
たメッセージです。
1998年9月6日、享年88歳の永遠の眠りについた黒沢明監督の遺作は、弟子た
ちが敬愛する老先生の姿に自分を投影し、私たちに貴重なメッセージを残していって
くれたのでしょう。
スティーブン・スピルバーク、ジョージ・ルーカス、フランシス・コッポラなど、世
界中の名監督に衝撃を与えた「世界のクロサワ」。
より迫力のある雨のシーンを撮るために、墨汁の雨を降らせ、古ぼけた小屋のイメー
ジを出すため、新品の木材を煤(すす)けさせ、ひとつひとつに木目を描かせたり
と、黒沢のだきょうを許さない完全主義と創作欲は、死の間際まで衰えることはあり
ませんでした。高齢の上に怪我を重ねての療養生活の中でも「今はいいモニターがあ
るから、車椅子でも演出できる」と、新しい台本を書き続けていました。最後まで監
督として、第一線で活躍し続けたのです。
「なぜそうまでして映画を作るのか」という問いかけに、彼はこう答えています。
「映画は観客に“生きる力”を与え、人生を鼓舞するものでなければならない。観た
人に一生影響を与えるような映画を作りたい」。
そこから、
「姿三四郎」「羅生門」「生きる」「七人の侍」「赤ひげ」などの傑作が、生まれて
いくのです。

光る才気が見いだされる
黒沢明は、明治40年(1910)、東京の大森に生まれています。
父は退役軍人で体育の教官をしており、武人気質の家庭の姉3人、兄3人の7人兄弟
の末っ子として育ちました。家父長絶対な厳格な父でありながら、頭の古人いではな
かったようで、家族で映画を見に行くようなハイカラな面もありました。
末っ子でおっとりしていたせいもあってか、小学校3年くらいまでの黒沢は、うすぼ
んやりとしていた子供で、よくいじめられていたといいます。そんな黒沢の才能を伸
ばしてくれる先生に出会えたのは、幸運でした。図画の立川先生が、黒沢が力いっぱ
い書いて級友からゲラゲラ笑われる作品を、とてもいいと褒めてくれたのです。それ
をきっかけに、いつのまにか頭の霧がはっきり晴れたように、聡明で利発な子供に
なっていました。
黒沢は絵を描く度にうまくなり、自信がつくと他の学科の成績も伸びて、級長を務め
るまでになりました。「姿三四郎」や「赤ひげ」に出てくる、若者がよき指導者に
よって成長していくモチーフは、こうした体験が下地になっています。中学校を卒業
する頃になって、将来職業として何をするかが問題になりました。
18歳の若さで権威ある二科展に二度入賞し、画家を志して美術学校を受験しました
が、学科で落第。折しも左翼学生運動が猛然と沸き起こり、“アカ”でなければまと
もな青年ではないといわれるような時代となっていました。この無名の青年画家もプ
ロレタリア美術同盟に参加し、数年間地下活動に心身をすり減らしました。
しかし、自分の信念ではなく時代の正義感に熱病のように押し流されたことを悟り、
運動から離れていきます。
画家としてのカットや挿し絵をほそぼそと描いているうちに、PCL(後の東宝)とい
う映画会社の助監督の募集に軽い気持ちで応募してみたところ、大変な競争率の中か
ら、彼の光る才気が見いだされて採用されたのです。

生きた現実のテーマに迫る
映画というものは、いい加減にも作れるし、ていねいにも作れる。ていねいに仕事を
すればそれだけ人の心に残る作品が作れる。
父親の絶対的家父長制の強い家庭に育ったせいか、黒沢は自分の本当に好きなものを
みつけると、その大切なもののために粉骨砕身、絶対に妥協を許さない人でした。撮
影以外では子供のように純真で優しい人が、撮影に入ると震え上がるほど厳しい仕事
の鬼でした。精魂の限りを尽くして作品を生み、終わった後には、魂の抜け殻のよう
に疲弊しきった体を病院で休めることがしばしばだったといいます。
黒沢のカラー映画しか知らない世代には、モノクロの黒沢の映画を見ることをお勧め
したい。そこには語るには尽きない感動があります。脂の乗り切った時代の作品は、
常に社会の生きた現実からテーマを切り取って迫ってきます。「生きる」は官僚腐敗
の指摘、「酔いどれ天使」はやくざ世界の否定、「生きものの記録」は死の灰への抗
議でした。
ロシアの文豪、トルストイやドストエフスキーが愛読書だった彼は、醜悪な現実の中
にあっても常に理想の火を燃やし続けている男たちに、誠実な生き方と勇気ある戦
い、そして愛を、自らの分身として、託し続けているのです。



No.139(神とともにあったチャンピオン ジャック・デンプシー)

神とともにあったチャンピオン ジャック・デンプシー

恥ずかしかった貧乏
ジャック・デンプシー(1895〜1983)は、1919年から1926年までボクシング
のヘビー級世界チャンピオンを保持した。

デンプシーがプロ・ボクサーになったのは、貧乏がどうにもはずかしかったからでし
た。父親はのんきな性分でヴァイオリンを弾くのが好きで、いつもあちこち歩き回っ
ては何か金儲けのチャンスが転がり込みはしないか、と待っているような男でした。
ある時、ジャック・デンプシーの母親は、ジャックをつれてデンバー行きの列車に
乗ったのでした。子どもはただでのせてくれるだろうと思っていたところ、ジャック
はその時、もう8歳だったため、車掌は半額払わなければ子どもは降ろす、と言って
聞かなかったわけです。
母親は「私はこの通り病気の身体だし、お金は持っておりません」といって頼むので
すが、車掌は「乗車賃をださなければ乗せるわけにはいかん」といって承知しませ
ん。途方に暮れて母親はさめざめと泣き出しました。
すると通路の向こう側の席にいたカウボーイがジャックを呼び寄せ、小声でささやい
たのでした。「坊や、いざとなったらおれが払ってやる。心配するなとママに言え」
その時、「お金がないと実に恥ずかしい目に遭うものだ」、とデンプシーは思ったの
でした。「そこでぼくは固く決心したのです。大人になったらけっして汽車から降り
ろなんて言わせないぞ、絶対に恥をかくことはしないぞ。母親に人前で泣かれたのが
実に恥ずかしかったのです。ぼくはその時その場で決心しました。強いボクサーに
なって金を儲けよう。いつかあのカウボーイのような金持ちになろう」と。

必ず神に祈りを捧げて
デンプシーがボクシングを習いだしたのは12歳の時。使い古した鶏舎に手をいれた
だけのジム、床にはマットレスの古物を敷く。パンチング・バックは砂とおが屑を詰
めて自分でこしらえたものを使っていた。そしていつも松脂(ロージン)入りのガム
を噛んで顎(あご)の筋肉を鍛えていました。
その後、ジェス・ウリラードをノック・アウトしてヘビー級世界チャンピオンになっ
たのが、1919年7月4日のことでした。
しかし、ジャック・デンプシーが一生の中で、もっとも苦しい絶望の時はジェス・ウ
リラードを破ってヘビー級タイトルを取った直後のことでした。
そう、ジャック・デンプシーは「 目標に向かって頑張っている時のほうが成功した
時より楽しい 」という事実を知るようになるのです。
チャンピオンになったとたん、デンプシーの生活は変わってしまった。
あっ、という間にまったく予想もしていなかった世界に入り込んでしまったのです。
デンプシーは新聞記者やカメラマンに追い回され、セールスマン、サインをもとめる
人々、金を貸してくれとたのむ古い友人までもが集まってくるようになったでした。
新聞社や雑誌社からは原稿依頼が舞い込み、舞台への出演依頼や講演の依頼、
宣伝に名前を貸してくれというものや慈善事業への募金を後援してというものまで
ありました。
ハリウッドからは映画出演のはなしもあり、英米二カ国の上流社会からも招待され
る。招待されて出かけると歓迎の辞がデンプシーにはちんぷんかんぷんでわからな
い。いろいろ質問されてもまともに答えられない。
ジャック・デンプシーは語っています「 なにしろ、ぼくは子どもの頃から勉強が
さっぱり面白くないので、ろくな教育も受けませんでした。だからそんな教育のある
連中のいうことがてんでわからなかったのです。」
年中人につけ回され、いらない重荷をいつも背負い込んで疲れきっていたのかもしれ
ません。
こんなエピソードまであります。イギリスの王妃メアリーから名誉にもバッキンガム
宮殿へ出頭せよと下命があったのですが、デンプシーは病気のため参上できませんと
返事をしています。およそバッキンガム宮殿へよばれて断ったのはデンプシーぐらい
のものでしょう。もっとも身体の調子も事実よくなかったようなのですが。
デンプシーは1926年、ジーン・タニーに破れてタイトルを失い、その後もう一度
タニーに挑戦して破れ1928年に引退しています。
試合に備えてトレーニングをしている時、デンプシーは1日に5、6回は必ず神に祈
りを捧げていました。試合開始のベルがなる直前にも必ず祈りを捧げるのを忘れませ
んでした。祈りを捧げると自信がつき、勇気が湧いて試合に望めたのでした。

「 ぼくは寝る前と食事の前に、一度もお祈りを欠かしたことがありません 」と、デ
ンプシーは言っています。

「 祈りが叶ったことが何千回もありますし、祈りを捧げて何もご利益のなかったこ
とは生まれてから一度もありません。」

No.138(国民を感動させたカナダの青年の“まごころ”)

国民を感動させたカナダの青年の“まごころ”

●ガン研究費を集めるため“片足マラソン”に
昭和56年6月29日の読売新聞(夕刊)に、「片足マラソン青年ガンに死す」との
いう記事が載りました。
この青年は、カナダ民間人の最高栄誉である“カナダ勲章”に輝き、記念切手にも登
場するテリー・フォックス君。
ブリティッシュ・コロンビア州に住んでいた彼は、18歳のときに右足が肉腫におか
され、切断しました。しばらくは車イス生活をしていましたが、片足でニューヨーク
マラソンに出場した人の話に感動して、車イスから立ち上がりました。そしてガン撲
滅のための研究費を集めるため、片足でマラソン行脚を始めたのです。
大西洋から太平洋までカナダを東西に横断しようという“希望のマラソン”は、4月
12日から始まりました。彼はニューファンドランド州セントジョーンズの海岸で右
足につけた義肢を海水にひたすスタートの儀式を行ないましたが、そのころはまだ彼
に注目する人は少なかったようです。しかし、全行程の1割に満たないオンタリオ湖
に到着するまで3か月かかったものの、それまでに彼の悲願を知らない国民はほとん
どいなくなりました。
左足1本でスキップするため、左足は極度に疲労しました。右足の義肢もずれて、そ
の顔は苦痛に満ちていたといわれます。それでも9月1日、彼はオンタリオ州・スペ
リオル湖のサンダーベイに到着しました。4か月半かかって5300キロを走破した
のです。が、そのころには足のガンが肺にまで転移し、ついに悲願達成は断念せざる
を得ませんでした。
しかし、集まったガン研究費は、彼の期待をはるかに上回っていました。百万ドルを
集めるのが最初の目標でしたが、これはあっという間に突破。目標を国民1人当たり
1ドル(計2400万ドル)に引き上げましたが、これも軽々と達成しました。

●人類の福祉のために流した血の汗
この快挙に国民は絶賛を惜しみませんでした。郵政当局も、「死後10年経過しない
と、その人物の記念切手は発行しない」という慣例を度外視して、彼の記念切手発行
に踏み切りました。
彼が自身のガンのために永眠したのは、そうした矢先の昭和56年6月28日朝のこ
とです。彼の死を知ったトルードー・カナダ首相は、「彼ほどカナダ国民を勇気づ
け、期待をもたせてくれた若者はいない」と弔意を表明し、連邦政府のすべての官庁
ビルで半旗を掲げるよう異例の措置を命じた、と伝えられています。
ところで、ガンにおかされたとき、右足を切断されたとき、車イス生活をしていると
き、片足のマラソン選手を知ったとき、自ら走っているとき──その時々の彼の気持
ちはどんなだったでしょう。私たちには測り知れないものがあります。
ただいえることは、彼が、自分が味わっている苦しみ、悲しみをほかの人には味わわ
せたくないと考えたに違いないということです。彼はまさに人類の福祉のために血の
汗を流したのです。その悲壮な姿がカナダ全国民を動かしたのです。
1人の人間の真実の心──まごころは、偉大な力をもっています。


No.137(失敗を恐れずに)

失敗を恐れずに

静岡県の聖隷福祉事業団の創設者・長谷川保氏は、日本で最初のホスピスをつくった
人である。彼はまた、寝たきり老人を世話する、日本で最初の特別養護老人ホームを
つくった人でもあった。
当時はまだ、そうした特別養護老人ホームに関する法律は全く整備されていなかっ
た。しかし「法律の先を進め」が口癖だった彼は、法律に先んじて人々の必要とする
事業に乗り出していった。
彼の前に道はなかったのである。彼のうしろに道がつくられていった。
長谷川氏は、「エデンの園」という有料老人ホームもつくった。彼はあるとき専務理
事に言った。
「私の残りの人生は、あと10年くらいだと思う。その間に全国にエデンの園をあと
100か所つくりたい。そうすると、1年に10か所つくっていかなきゃならん。
1か所に10人から15人の看護士、ヘルパーがいる。
とすると、100人ずつ養成する学校を造らにゃならん」
専務理事は、
「はい、わかりました」
と言って、その実現のために努力した。しかし100か所つくるとは言ったものの
、結果的に実現できたのは11か所であった。
長谷川氏が召天する少し前のこと、専務理事がそれを言うと、長谷川氏は高笑いして
言った。
「1割できれば、大成功だぞ。人々は、いつも失敗せんようにと言って、びくびくし
ながら仕事をするから、確かに失敗はせんかもしれんが、どれだけの仕事を残せる
か。100か所つくるといって、11か所できれば大したものだ。結果として、そ
れだけのものが残せたじゃないか」
どうだろう。私たちは失敗を恐れるばかりに、小さくまとまり過ぎていないか。


No.136(世界を変えよ)

世界を変えよ

今朝、とても心暖まる話がラジオから流れていた。それは、1913年、フランス南部の
プロバンス地方で「ウォーキング・ツアー」に出かけた20歳くらいの若者の話だっ
た。
「ウォーキング・ツアー」とは、バックパックと寝袋を携帯して、人の少ない森など
をハイキングすることである。おもに裏道や山道を通り、簡素なキャンプ場、ユース
ホステル、農家などに泊めてもらう。
当時のプロバンス地方はひどい田舎で、農作物の育たない荒れ地だった。森林伐採
や、集約農業のやりすぎで、ほとんど木のない不毛の地と化したからだ。
肥えた農地にするには、土地を保護する役目をする樹木もなければならない。樹木は
土壌の水分を保ち、直射日光をさえぎって、地面が乾燥してしまうのを防ぐ。また土
地の侵食、土砂の流出も防いている。木々のない地域では、雨で土壌が流されてしま
い、それによって洪水が起こり、1930年代の大恐慌中に「黄塵地帯」と呼ばれたアメ
リカ南西部のように、不毛の地となってしまう所もある。
このフランス南部のプロバンス地方は土地がすっかりやせてしまい、ほとんど木のな
い状態であった。そして土を保っておく木がないために、土壌は雨に流されていた。
その地域全体が渇ききった不毛の地と化しており、農業も殆どすたれ、野生動物さえ
姿を消してしまっていた。動物にも住むために安全な場所、安心できる緊みなどが必
要だが、木がなければ、雑草や低木も育たず、生きていくために必要な食べ物もな
かったからだ。水も必要だが、その地域には木がなく、土地は水分を保つことができ
ないので、ほんの僅かな流れしかなかった。
というわけで、若者が旅していたこの土地は非常にやせていて、農業もほとんど行な
われていない荒れた不毛の地だった。村は活気がなく、すたれ、荒れ果てていた。大
部分の村人は村を捨て、他の土地へと引っ越していた。
ある夜、この若者は羊飼いの小屋に泊めてもらった。その羊飼いは白髪まじりで50代
半ばだったが、なかなか壮健だった。小屋は小さいながらも、きれいに片づいてい
て、簡素な家具が置いてあった。親切な羊飼いは、若者を暖かくもてなし、若者は何
日かそこに泊まらせてもらった。夜になると、羊飼いは、ランプの光をたよりに何時
間もかけて、本の実をより分けていたので、若者は好奇心をそそられた。カシ、ハシ
バミ、クリなどの実を、テーブルの上で非常に慎重かつ真剣に選り分け、質の良くな
いものは捨てていった。ついにその夜の仕事が終わると、羊飼いは選んだ木の実を
ナップサックに入れたのだった。
次の日、羊の群れを連れて外に出た羊飼いは、行く先々で 昨夜の木の実を植えてい
くのだった。羊が草を食べている間、羊飼いは杖を取り、羊の様子に気をくばりなが
ら、その辺りをまっすぐ歩いていった。何歩か歩いては、杖で地面をぐっと押して、
深さ数センチの穴をあけた。それから木の実をその穴に落として足で土をかぶせるの
だ。羊飼いはまた何歩か歩くと、乾いた地に杖で六をあけ、木の実を落とした。こう
して羊飼いは日中ずっと、羊に草を食べさせながら、プロパンス地方を何キロも歩き
回った。毎日違う場所に行き、殆ど木がない場所に、カシ、ハシバミ、クリなどの実

植えていったのだった。不思議に思った若者は羊飼に尋ねた。
「一体何をしているんですか?」
「木を植えているんだよ。」
そこで、若者は思わずこう言った。「でも、どうしてですか? この実が育って木に
なり、あなたがそこから利益を得るのは、まだ遠い先の話ですよ! 木が大きくなる
まで、生きていないかもしれないし!」
「その通り。だが、いつか木は大きくなって誰かの役に立ち、この地域が前のような
美しい所になる助けになるだろう。わしはそれを見ることができんかもしれんが、わ
しの子供達が見ることだろう。」
若者は、実際にその成果を見たり、利益を得たりすることはないかもしれないのに、
これからの世代のために住み良い土地を作ろうとする、その長期的な展望と無私の姿
に感動したのだった! 羊飼いは、木が育って土地を守ることを願いながら、将来の
ために木の実を植えていたのだ。
20年経ち、その若者は40代になった。再びプロパンス地方に行った彼は、そこで
の光景に思わず目を見張った!  谷間全体が、様々な種類の木が繁る美しい森で覆
われていたのだった! もちろんまだ若木で、6、7メートルしかなかったが、木に
は違いなかった。
その谷全体に生命がみなぎっていた! 青々とした草、潅木、そして動物達もいた。
土地は潤い、農夫達も畑で働いていた。20年前の不毛で荒れ果てた状態と比べれ
ば、地域全体が生き返ったかのようだった。
「あの羊飼いはどうなったんだろう。」と、彼は思った。驚いたことに、羊飼いはま
だ生きていた! 20歳の若者にとって、50代の人はとても年老いて見え、もう先
は長くないように思えるものだが、その羊飼いは75歳くらいで、かくしゃくとして
いた。相変わらず、あの小さな小屋で、毎晩、木の実をより分けていたのだった。そ
してこの40代の訪問者は、最近フランス政府の視察団がパリからこの新しい森を見
に来たことを耳にした。彼らにとって、ここはまるで奇跡の森であった。そして視察
団は、この谷間と地方全体が美しい若木や草に覆われたのは、この一人の羊飼いが、
何年にも渡って、来る日も来る日も羊を見ながら、休むことなく、カシ、ハシバミ、
クリなどの実を植えていた結果だということを知ったのだ! 彼らは非常に感銘を受
け、その羊飼いに深く感謝したので、たった一人でこの地域全体に緑をもたらした功
績を称えて、羊飼いに特別年金を与える事をフランス下院議会で決定したのだった!
一人の人のひたむきさによって、この地域全体がよみがえった。再び美しい場所と
なり、経済が復興し、野生動物や、農業、水、土壌も復活したのだ! 人口まで増え
た。何もかも、木が育ったおかげだった。
だから、世界の現状にがっかりすることがあっても、決してあきらめてはいけない!
大きな国々の政府や軍隊や戦争によって、歴史の流れや世界の状況が変わっている
のを見て、がっかりすることもあるだろう。「ああ、私などつまらぬ存在ではないか
? 何ができるというのか? お先真っ暗で、できる事など何もないみたいだ! 
たった一人で世界を良くするためにできることなんて何もない。だから努力しても、
何になるだろう? 
何をやっても無駄だ。」そして、世界がどうなろうと構うものかと、あきらめてしま
いたくなる!  時に、こんな世界は破滅して当然のように思われるからだ。
しかし、この素朴な羊飼いが何十年にも渡る努力によって証明したように、たった一
人でも世界を変えることができる!
世界全体を変えることはできないかもしれないが、自分がいる部分は変えることがで
きる。この一人の羊飼いは来る日も来る日も、何年も何年も、忠実で犠性的な働きを
したことで、南フランスの全地域を完全に変え、よみがえらせたのだった!
もし一つの人生を変えたなら、世界の一部を変えたことになる。これは、世界全休も
変わる望みがあることを証明している! 一つの人生を変えられるなら、もっと変え
る事ができ、多くの人生が変わり、地域全体がよみがえり、ついには世界を変える
ことができるという可能性を示しているのだ。それも、誰か一人の人が始める事で。
それはあなたかもしれない!

No.134(闘魂の人 黒沢酉蔵<北海タイムス社長>)

闘魂の人 黒沢酉蔵<北海タイムス社長>

黒沢酉蔵という名前をきいた人は、少ないかもしれない。たしかに、ポピュラーな名
前ではない。だが、北海道の黒沢といえば、どこかできいたことのある名前だと思い
だす人も多いのではないか。
それほどに、黒沢氏は、北海道の発展と歩みを一にしてきた人であり、北海道の開発
を語るうえに、欠かせぬ人である。しかも、現在、数え年81才の高令を以て、20
代、30代のような情熱を傾けて北海道開発審議会の委員長をつとめるかたわら、北
海タイムスの社長として、また、酪農大学の学長として、その先頭にたって活躍して
いるのである。
20才の時北海道にわたって牧夫となってから60年、文字通り、闘魂の人として、
人生を闘いぬき人生を勝ちぬき、そして、今もなお、闘いつづけている男、それが黒
沢酉蔵という男である。
黒沢氏は、明治18年、茨城県久慈郡の農家に生まれた。その年は、後年、彼が師事
した田中正造が、国会ではじめて、足尾銅山の鉱毒事件を訴えた年でもある。
15才のとき上京して、アルバイトをしながら中学に通ったが、田中正造が明治天皇
に直訴したことをきいて、やもたてもたまらず、正造を新橋の旅館にたずねた。彼が
17才の時である。
正造の話に深く感動した黒沢は、今後この事のために人生をささげようと決意し、そ
れからは、学業を捨てて、鉱毒の村を歩きまわるのである。そのため、とうとう逮捕
され、前橋監獄に未決拘留6ヵ月の生活を送ることになるのである。このとき、聖書
を読む機会に恵まれるとともに、「まず生活の安定が先だ、世の中への奉仕はそれか
らだ」と考えるようになる。黒沢氏の挫折であり、同時に、第二の人生をあゆみはじ
めることになるのである。
北海道にわたった黒沢氏は、当時、札幌を中心に有名だった宇都宮仙太郎の牧場をた
ずねた。
それというのも、この宇都宮氏は「酪農には三つの徳がある。第一には、役人に頭を
さげなくともよい。第二には、相手は牛だからウソをいわんでもよい。第三には、牛
乳をいくらでものめる」ということを説いており、それに深く共鳴したためである。
挫折したとはいえ、正造に対した姿勢は、その時も失われていなかったのである。
明治42年、はじめて、家屋敷牧地つきの貸家に乳牛一頭を借りうけて、独立の第一
歩をふみだした。それから5年、朝は3時に起きて、牛の乳をしぼり5時には、牛乳
の配達にとびだすという刻苦勉励の結果、乳牛20頭に18町歩の山林畑地を持つ身
の上になる。30才の時、結婚したが、結婚の日も、新婚第一夜、も朝3時におきる
ということはかわらなかった。氏の力闘ぶりがうかがえるというものである。
だが、黒沢氏の前途は平坦な道ばかりではなかった。それは、第一次大戦中、乳製品
は海外からの輸入が絶えてどんどん売れたが、戦争が終わると、外国品がどっとは
いってきた。そうなると、質も悪く、値段も高い国産品は競争にならない。煉乳会社
は買いしぶり、乳価は暴落した。農家はその被害をもろにうけたのである。黒沢氏も
その被害をうけた。しかも、本格的に乳牛をふやした時だから、たまったものではな
い。どこかに打開の道を求めねばならなかった。
こうした危機の中から北海道製酪組合が誕生したのである。即ち、煉乳会社が買って
くれない牛乳を組合が買取り、バターをつくる計画である。勿論、その組合をつくる
ために、黒沢氏は、足を棒のようにして、一人一人説得してまわらねばならなかった
のである。だが、製造したバターやチーズを売るのはもっと大変なことだった。東京
で、宣伝に配ったバターは石けんに間違えられる始末だったから。
が、とにもかくにも、黒沢氏の闘魂は北海道製酪組合を立派にみのらせ、戦後の雪印
乳業の基礎をきずいた。その間には、札幌駅頭で、暴力団の襲撃をうけるというよう
なこともあった。
北海道タイムスの社長となったのは、朝日・毎日・読売各紙が北海道にファクシミリ
攻勢をかけた時である。北海道新聞は勿論だが、創刊して日も浅い北海タイムスは、
その被害をもろにうけざるを得なかった。その時に、黒沢氏は北海タイムスの社長と
なったのである。ここにも、被害をうけてたつ、黒沢氏の共通の姿勢が発揮されたと
いってよい。それは、遠く、前橋監獄において、聖書を読み、そして洗礼を受けたキ
リスト者の精神であるといった方がよいかもしれない。
社長に就任してから数年、4階の社長室にエレベーターを便わずにトコトコのぼって
いく姿勢には、身体を鍛錬するということばかりでなしに、新聞経営というハデな経
営を地味なものにしていこうとする氏の配慮がうかがえるのである。
黒沢氏は生きているかぎり、その闘いをやめないであろう。

No.133(青い地球に神を見た)

青い地球に神を見た/1998年04月22日付

暗黒の天界。頭上より右に20度の方向に大きな丸のままの地球が浮かんでいた。透
明な青と暖かな白のまだら模様の球体が神秘な光を放つ。足元にはまっ黒なクレー
ターが地球の明かりに照らされて浮かんで見えた。
アポロ12号のアラン・ビーン飛行士はその時の地球の光を脳裏に焼き付けて30年近
くも生きてきた。
「やがて太陽が地上から13度の角度まで昇ってきてね。クレーターの影がくっきり
としてくるんだ」。大きな画布に濃い藍(あい)色の絵の具を何度もこすり付ける。
テキサス州ヒューストン郊外の静かな住宅街に画家ビーン氏のアトリエがある。小さ
い時から絵心はあったが、まさか絵かきになるとは思ってもいなかった。「地球に
帰って結局自分は未来に何が残せるか」。そう考えたら絵があった。もう120点は
描いた。
「月面の風景をそのまま伝えることが仕事」と考えた。だから光と影に徹底的にこだ
わる。「月面には12人立った。でもこんなこと自分しかできない」と思う。
月面の衝撃的な残像は、アポロ宇宙飛行士たちの人生や世界観を大きく変えた。

▽宇宙との一体感
宇宙船は秒速十㌔で月から遠ざかっていた。窓から暗黒と沈黙が支配する宇宙に浮か
ぶ宝石のような地球が見えた。
アポロPC号で月に降り立ったエドガー・ミッチェル飛行士の世界観に決定的な影響を
与えた瞬間だ。
この時「宇宙との一体感。体も精神も宇宙に広がっていくという恍惚(こうこつ)感
に突然襲われた」と言う。
コンピューター誤作動など何回もトラブルを乗り越え、33時間の月面作業をやり終
えて満たされた気分だった。「宇宙、月、地球、そして今ここにある自分の存在は偶
然ではあり得ない」という思いに打たれた、という。
地球に帰還してから宗教、哲学書を読みあさった。ソクラテス、デカルト。チベット
仏教の本も。インドにもでかけた。ダライ・ラマ十四世にもニューヨークで会った。
結局「伝統的な宗教や哲学では自分の神秘な体験は説明できない」とサンフランシス
コに自分の思索哲学の研究所までつくってしまう。
自宅は約27年前に月に旅立ったフロリダ州のケネディ宇宙センターにつながるウエ
ストパームビーチにある。現在67歳。ここで日々思索を深める。
「生命と死、存在と無という古来の賢者たちが秘境で悟った概念が、暗黒の宇宙では
実感として理解できた」と言う。
「宇宙空間での一瞬一瞬を創造的に感じた」という神秘体験は次第に「宇宙万物を支
配する何か、神とも呼べる存在」への確信へと発展した。
「宇宙は知的だった。科学で説明できない。神のような何かが動かしているとしか考
えられないんだよ」
ノースカロライナ州ローリー郊外の高級ホテル。2月10日、50代を中心に約50
0人のカップルが集まっていた。
米国でよく見られるキリスト教系団体の集まりだが、この日の説教者は「アポロ16号
で月に行った元宇宙飛行士のチャーリー・デューク夫妻」。今ではイエス・キリスト
への信心を説く伝道師だ。
帰還当時のニクソン大統領主催の大パーティー。群衆に囲まれた凱旋(がいせん)パ
レード。人生の絶頂期だった。「宇宙にはもう挑戦することはない」と宇宙飛行士を
辞め、テキサス州サンアントニオに戻ってビールの販売業を始めた。
抜群の知名度で大成功。やがて襲う虚無感。この時「英雄」の夫との心の距離から深
い孤独感に悩んでいた妻ドッティさんの精神状態は極度に悪化し、自殺を図ろうとし
た。
「地球に帰った後の人生で頂点からならくを見た。その時イエスの力にすがることを
友人から教わった」。科学の力で月に行き、技術者として否定していたはずのイエス
をいつしか受け入れていた。
会場で説教が続く。「月面で手を上げたら地球が隠れた。帰還後、人類愛を説いてい
たのに妻を愛していなかった。私にはイエスが必要だった」
静まり返る会場。こんなメッセージにさっきまでロビーで誇らしげに近況を語ってい
た男たちが目に涙をためる。デューク氏の人生の変遷に何を重ねて共感するのか。
丸い地球を月で見て地上でならくを見たアポロ宇宙飛行士が、人の心を癒(いや)
す。

▽人間に内在する力
白髪のこの穏やかな伝導師は今では宇宙は神が創造した、と信じている。キリストは
神の子だと。「宇宙はビッグバンで始まったかもしれないが神の意思があった」
伝道師のデューク氏も思索を深めるミッチエル氏も世紀末の今、ともに「神」を語
る。
宇宙で神秘体験をしたミッチェル氏の神は、イエスではなく万物を動かす自然の支配
者のような存在だ。「人類は宇宙の一部。人類は宇宙とともに進化する」。その宇宙
観、神の概念は人類の未来に悲観しない。
宇宙に浮かぶ地球。その上の現実。飢え、憎しみ、対立。この知的な元宇宙飛行士は
この時代をどう見ているのか。
「アポロの時代はだれもが挑戦していた。自信や熱狂があった。現代の時の流れはあ
まりに速く自己洞察ができない。人間は不思議な力を持っているのに、一人ひとりの
内在的な力を失いつつある」
彼はウエストパームビーチの海岸を毎日のように歩く。青の水平線がなだらかな弧を
描く。宇宙につながる空間にゆったりとした時が流れる。
「この世紀に人類は地球生物から宇宙生物に進化した。人類が挑んで達成した偉業の
高さと絶望の深さで比類のない世紀だった」と振り返る。
長年連れ添った妻と離別して久しい。だが宇宙を旅した現代の哲学者に孤独の影はな
い。
「宇宙ができて百数十億年。人類が文明をつくり出してから5000年前後。人類が
月に進出してまだ30年足らずだよ」

有名人の聖書観 Part Ⅳ(神を信じた科学者たち)


          有名人の聖書観 Part Ⅳ
         
           神を信じた科学者たち    


【ガリレオ・ガリレイ】
「より高いものを見上げる人は、よりすぐれた人です。そして、哲学(今日の科学に
相当)の本来の対象である自然という壮大な書物を調べることは、まさに、高いもの
を見上げる方法なのです。
 この書物で読むことはすべて、全能の造り主の御業であって、それは、この上なく
素晴らしいことですが、中でも造り主の見事な御業をもっとも明らかに示すものに
は、最大の価値があります。
 人間の理解が及ぶ自然物すべての中で、宇宙の造りこそは第一である、と私は思い
ます。というのは、すべてを含むその大きさにおいて他のすべてのものに優っている
ように、それは他のすべてのものの規範として、高貴さにおいても他のすべてのもの
に優っているに相違ないからです。」(「天文対話」の冒頭からの引用)

「『聖書』も自然の現象も、ひとしく神の言葉に由来しています。前者は聖霊の命令
として、後者は神の命令を忠実にとり行うものとして。」(クリスティーナ大公妃へ
の手紙からの引用)




【ヨハネス・ケプラー】
「私はこれを発表しようと思います、自然という書物の中において認められることを
望みたもう神の栄光のために。………私は神学者になるつもりでした。私の心は長い
間落ち着きませんでした。しかし今こそ、天文学においても、神に栄光を帰すること
ができたのです」(恩師のメスリントン教授への手紙からの抜粋)

Johannes Kepler 1571〜1630 ドイツの天文学者。惑星の運動に関する3つの法則を
確立し、それらを立証した。これらの法則は現在、ケプラーの法則として知られてい
る。




【フランシス・ベイコン】
「わずかな、あるいは、浅はかな知識は、人間の精神を無神論に傾かせるが、その道
にもっと進めば、精神は再び宗教に立ち帰るのであって、このことは確実な真理であ
り、経験から得られる結論である。」

「これらのことは、私自身にはよらないということを知るがゆえに、仕事の初めに当
たって、私はいとも謙遜にまた熱烈に、父なる神、子なる神、聖霊なる神に祈るので
す。人類の悲しみを覚え、また、短く悪しき我らが日々を過ごすこの人生の行程を覚
えて、神が、人類一家に、私の手を通して新しい恵みを賜わらんことを。」
(「ノヴム・オルガヌム」の序文からの引用)

イギリスで16・17世紀に政治家、哲学者、文学者として活躍した。エリザベス女
王およびジェイムズ一世の治世で、ベイコンは政治家としてその二人に仕えた。国内
的には、シェイクスピアが現れて演劇が盛んになり、国外的にはスペインの無敵艦隊
を打ち破って海外に進出する基礎ができるなど、英国ルネッサンスと呼ばれる内外と
もにイギリスが発展した時代の人である。



【ウィリアム・ハーヴェイ】
「自然は一巻の書物であり、神がその著者である。」

William Harvey 1578〜1657 イギリスの医師。血液の循環と、心臓がその推進には
たす役割を発見し、ガレノスの理論に異議をとなえ、近代生理学の基礎をきずいた。




【ウィリアム・ハーシェル】
「人類のあらゆる発見は、聖書に納められている真理をいよいよ強く証拠だてる目的
でなされるに過ぎないように思われる」

William Herschel 1738〜1822 ドイツ生まれのイギリスの天文学者。天文学に多大
な業績をのこした。




【コトン・マーサー】
「神の創造のわざである『自然の書』を学ぶことは、神の言である『聖書』を理解す
る上できわめて有益である。」(「キリスト教自然学者」からの抜粋)

「科学に対する彼(コトン・マーサー)の関心を助長させたものはキリスト教であっ
た。また、社会的福祉に対する彼の配慮を鼓舞したのもキリスト教——ことに敬虔派
の影響を受けたカルヴィニズム——であった。この二つ、すなわち科学とキリスト教
的人道主義とが、彼のきわめて優れた業績の主要な動機であった。この両者は、互い
に強めあって、医学の領域ではひときわ優れた成果を示したのであった。」(アメリ
カの医学史研究家のビール及びシュライオク博士の言葉からの引用)





【ベンジャミン・フランクリン】
「私は長老教会の会員として敬虔な教えを受けて育った。………神の存在、神が世界
を創造し、摂理にしたがってこれを治めたもうこと、神の最も嘉したもう奉仕は人に
善をなすことであること、霊魂の不滅、すべての罪と悪行は、現世あるいは来世にお
いて、必ず罰せられ、または報いられること等については、私は決して疑ったことは
ない。」(「自叙伝」からの引用)

Benjamin Franklin 1706〜90 アメリカの政治家・文筆家・外交官・哲学者・科学
者。アメリカ独立革命と連邦共和国建国に多大な貢献をした、アメリカ史上もっとも
重要な政治家のひとり。




【ジム・アーウィン】
(アポロ15号宇宙飛行士)
「私は……他の宗教を……批判しようとは思わない。しかし、イエス・キリストは神
の子だったのだ。イエスは神そのものなのだ。神がこの地上に人間の姿をとって降り
てきた。これは人類史上最大のできごとだ。その教えが、仏陀の教えやモハメッドの
教えより力強く、より多くの真理を含んでいるのは当然のことではないかね。」

「聖書は神のことばだ。私はそのすべてを信じる。正直にいえば、細かい点では幾つ
かの疑問がある。しかし、その疑問は自分の理解がいきとどかないための疑問だと
思っている。しかし、根本的なところはすべて信じている。イエスが神の子であり、
処女から生まれ、罪なき人生を送り、全人類の罪を背負って十字架にかけられ、その
三日後に復活し、昇天したというようなことはすべて真実だと思っている。」

「……宇宙空間から地球の姿を見たとき、この地球が宇宙において全く特別の存在で
あることがどう否定しようもなくわかった。地球と、地球以外の宇宙のすべてとは、
全くの別物なのだ。その否定しがたい事実が目の前に突きつけられる。
 そのとき、これは神の直接の創造物以外ではありえないと思った。天文学が進歩
し、宇宙の遠いかなたの情報が沢山入るようになって、より一層たしかにわかってき
たことは、この広い宇宙のどこにも地球以外には生命がないということだ。我々はこ
の広い宇宙の中で全く孤独なのだ。
 この地球にだけ神の手が働き、我々が創造されて生きているのだということには疑
問の余地がない。これほど見事な、美しい、完璧なものを神以外に作ることはできな
い。結局、科学は宗教に対立するものではない。科学は神の手がいかに働いているか
を、少しずつ見つけ出していく過程なのだ。
 だから、科学が、一見、宗教の教えと矛盾しているような場面でも、科学がより高
次の段階にいたれば、その矛盾は解消するものだと思う。科学はプロセスなのだ。だ
から、科学の側でも、宗教の側でも、お互いに敵視するのは誤りだ。」




【ウィリアム・D・フィリップス】
(1997年ノーベル物理学賞受賞者)
 米「Religion Today」通信によると、このほどノーベル物理学賞を受賞した米国の
ウィリアム・D・フィリップス氏(48)は熱心なクリスチャン。
 授賞が発表された10月15日の記者会見で「神は我々に、住み、そして探求するため
の信じられないほど魅力的な世界を与えられた」と語った。
 フィリップス氏は、メリーランド州ガイサーズバーグのフェアハーベン合同メソジ
スト教会で聖歌隊を組織し、賛美している。同氏はまた日曜学校で教え、聖書研究を
導き、子供たちが礼拝説教を理解できるように設けられた「子供の時間」を指導して
いる。
 土曜日になると、高齢の教会員で視覚が不自由になった人の外出を手伝い、買い物
や夕食に同伴するという。研究所を訪れる仲間の科学者を教会に連れて来ることもよ
くある。
 クリスチャンとしての生活は研究生活以上のものだ、とフィリップス氏はインタ
ビューで言っている。キリストが人々を招いておられる「豊かな生活」とは、人々が
多彩な関心をもって活動することであり、それは「さまざまな方法で我々の霊と魂を
祝福する」のだ、と言う。働きの中で、キリストの教えは「人々を尊敬し、利用した
り業績を横取りしようとはしない」ことを意味している。
 フィリップス氏は、キリストについて仲間の科学者と話をするが議論はしない。そ
れは神の存在を確信させるのに効果的でないと信じているからだ。
 「私は宇宙で神の御手を見るが、他の人たちは同じものを観測していても見てはい
ない。」
 信仰と聖書とをとてもまじめに受け止めている科学者が多数いることを理解してほ
しい、と語る同氏の姿勢は、学者の前にクリスチャンであることを示している。
(1997年11月2日 リバイバル新聞の記事より引用)





有名人の聖書観 Part Ⅲ

           
            有名人の聖書観 PartⅢ



【アブラハム・リンカーン】
「聖書こそ、神の律法と神の歴史を含む神の書であると自らを主張している唯一の書
である。聖書はそれ自身の権威を裏付ける無数の証拠を持っている。」




【ダニエル・ウェブスター】
「私の思想や文体に推賞されるものが何かあるとすれば、それは早くから聖書を愛す
ることを私に教えてくれた両親のおかげである。」

Daniel Webster 1782〜1852 アメリカの政治家。雄弁家で知られ、19世紀前半の
ニューイングランドを代表する政治家。ウィリアム・ハリソン、タイラー、フィルモ
アの各大統領のもとで国務長官をつとめた。




【トマス・カーライル】
「聖書は、人類の魂から発せられた言葉による最も真実な発言である。それを通し
て、あたかも神の開いた窓のように、全人類は永遠の静寂をうかがうことができ、は
るかな、久しく忘れている故郷をのぞき見ることができる。」

Thomas Carlyle 1795〜1881 イギリスの思想家・歴史家で、影響力の大きい社会批
評家だった。




【ゲーテ】
「人類の知的文化が進歩しようと、自然科学が進んでその広さと深さとを加えよう
と、人類の心がその望むままに広くなろうと、福音書から輝き出るキリストの高さと
道徳的修練を越えて行くことはないであろう。」

Johann Wolfgang von Goethe 1749〜1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学
者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼が
あらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がうつし
だされている。




【ハインリヒ・ハイネ】
「なんという本だろう。この世界のように広大であり、創造の深淵に根ざし、天の紺
碧の奥義の背後にまでそびえたっている。日の出と日の入り、約束と成就、生と死、
人間の全ドラマは、ことごとくこの書の中に収められている。」

Heinrich Heine 1797〜1856 ドイツの詩人。その抒情詩は哀調をおび、ときに機知
にとんだ風刺もこめられていて、ひろく愛唱された。





【サムエル・ジョンソン】
「青年よ、ここに生前いくらか世に知られた者の最後のことばに耳をかたむけてもら
いたい。そしてそれはただ、きまって聖書を読めということである。」

Samuel Johnson 1709〜84 イギリスの作家・辞典編集者。確かな眼識をもつ、18世
紀イギリス文壇の大御所であり、力強く調和のとれた散文体で有名である。
後世の研究でうかびあがってくるジョンソン像は、「困難に遭遇してもくじけず、し
いたげられたまずしい人々に同情し、不屈の精神で真実を探究した、卓越したヒュー
マニスト」である。




【ヘンリー・ヴァン・ダイク】
「東洋に生まれ、オリエントの形と象徴とを身に帯びて、聖書は全世界の道を物慣れ
た足取りで歩き、国から国へと渡り行き、どこにおいても自分の国を見出す。それ
は、これまでに何百か国語もの言葉で人々の心に語りかけて来た。子供たちはそこに
書かれた物語に驚きと喜びをもって耳を傾け、賢者はそれを人生のたとえとして熟考
する。邪悪な者、高慢な者はその警告に恐れおののく。しかし傷ついた者、悔い改め
る者にとっては母の声である。それはわれわれの最も尊い夢を織り成し、愛、友情、
同情、献身、思い出、希望などは、その貴重な言葉の美しい衣を着ている。この宝を
自分のものとして持っている者は、決して貧しくも孤独でもない。辺りが暗くなり、
震えおののく巡礼が死の陰の谷に近づく時も、彼はそこに入ること
を恐れない。彼は聖書の杖を手にして、友だちに言う、『さようなら、また会いま
しょう。』そしてその杖に支えられて、闇を抜けて光に至る人として、その寂しい道
に向かう。」






【カール・ヒルティ】
「この書こそ、読むべきでなく、まさに食らうべきもの。
 ただ読む者は、耳に入りしことをあまりに早く忘れ去る。
 されど神のみ言葉、おのが血肉となる人は、
 それによりて力を得、神と一体となる。
 そこに誌されし史上の事どもをそらんじても、
 ただうわべのことのみ、むしろ心にふかく銘じなければならぬ。
 文字は事をなしえず、形象は命を奪うのみ。
 精神にしてかつ生命なるものこそ、霊の本性を備う。
 それは骨髄を貫き通して、生ける実在を生む。
 それは言葉なしにも語り、病める者を癒す。
 それによりて預言者の眼光と理知と明るさの精神は生まれ、
 清き器をとおして、他人にも清らかに流れ入る。」
 (カール・ヒルティ著、岩波文庫「幸福論第三部」P323からの引用)

カール・ヒルティは、思想的著述家と実務家という、普通は相反する分野において成
功を遂げた人物である。その著書『幸福論』には、教訓と示唆が数多く含まれてい
る。 人間は怠惰な生き物であるという前提に立ち、幸福な人生の秘訣は、すべて生
活習慣と心の持ちようにあるという。





【八木重吉】
「わたしはひとりでも聖書を読む人が多ければよいと思います。わたしはだんだん自
分の感想、考えを人に語ることを恐れるようになってゆきます。静かな心になってみ
ると自分には良い考えが何もないことがはっきりと分かってくるからです。それでわ
たしは、人と論ずることがありません。ただ聖書に、わたしよりずっと良いことが書
いてあるから見て下さいとだけいって黙ってしまいます。
 わたしは一生の自分の行いがすべていけないことであっても、聖書を人にすすめた
ことは、いいことであったと信じて死ぬことができると思います。といって、わたし
は、聖書の隅から隅まで説明できるというわけではありません。十年も毎日聖書のこ
とを思い、ほとんど読まぬ日とてないのですが、毎日毎日新しい疑いにまよっていま
す。ただわたしには、これほど好きな本が外には無い。そして、少しずつでも、分
かってゆく事が多くなるのが、どんなに楽しみでしょう。」

「この聖書のことばを
 うちがわからみいりたいものだ
 ひとつひとつのことばを
 わたしのからだの手や足や
 鼻や耳やその眼のようにかんじたいものだ
 ことばのうちがわへはいりこみたい」

「どこを 
 断ち切っても
 うつくしくあればいいなあ」 



早世の詩人。英語教師を職として、肺患を病み30才で夭逝。敬虔なクリスチャンと
して終始す。

1898(明治31)年2月9日、東京府南多摩郡堺村相原大戸(現在の東京都町田市相原大
戸)に生まれる。
1917(大正6)年、東京高等師範学校に進む。在学中、聖書を耽読し、かつ内村鑑三
の著書に感化されキリスト教に受洗する。
1922(大正10)年、卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。24歳で、17歳の島田
とみと結婚。この頃から、詩作と信仰に打ち込みだす。
1925(大正14)年、親戚の作家であった加藤武雄の世話により、第一詩集『秋の瞳』
が新潮社より刊行される。以降、佐藤惣之助主宰の『詩の家』の同人となり、草野心平を
中心とする『銅鑼』や『日本詩人』『生活者』等、詩誌に作品を寄せる。
1926年、結核と診断され、以後、約1年間絶対安静の闘病生活を続ける。病の床で第
二詩集『貧しき信徒』を編纂。
1927(昭和2)年10月26日、『貧しき信徒』の刊行を見ぬまま死去。郷里堺村の八木
家墓地に葬られる。『貧しき信徒』は翌年、処女詩集と同じく加藤武雄の尽力によって、
野菊社より出版された。







有名人の聖書観 Part Ⅱ


         有名人の聖書観 PartⅡ


【アブラハム・リンカーン】
「聖書はこれまでに神がくださった最上のギフトであると、私は信じている。世界の
救い主から発する一切の良きものは、この書を通して我々に伝達される」。

 一九世紀アメリカの大統領。奴隷を解放し、民主主義の基礎を確立した。彼は幼い
頃から、母に聖書を読み聞かされて育った。




【ウインストン・チャーチル】
「私たちは確信をもって、聖書という『ゆるがない岩』の上に憩うのである」。

Winston Leonard Spencer Churchill 1874〜1965 イギリス首相。在任1940〜45、
51〜55年。第2次世界大戦時の首相として大きな指導力を発揮し、イギリス人に勇気
を与え、ヒトラーとの戦いを勝利に導いた。
すぐれた歴史家・文筆家でもあり、「世界の危機」(4巻。1923〜29)、「わが半生」
(1930)、「マールバラ公」(4巻。1933〜38)、「第2次世界大戦」(6巻。1948〜53)、
「英語国民の歴史」(4巻。1956〜58)などの著作がある。1953年にはエリザベス2世よ
りガーター勲章をうけ、ノーベル文学賞を受賞している。


 

【G・E・レッシング】
 「宗教は、聖書が説いたがゆえに真理なのではなく、真理なるがゆえに聖書が説い
たのである」。

Gotthold Ephraim Lessing 1729〜81 ドイツの劇作家、批評家、啓蒙思想家。
 レッシングは偉大な真理探究者として知られ、その戯曲や評論は、ドイツ文学の新
しい規範をうちたてるのに貢献し、後世の作家たちに大きな影響をあたえた。




【ベンジャミン・フランクリン】
  「青年よ、あなたへの私の忠告は、聖書を知れ、そして聖書をかたく信ぜよ、とい
うことである」。

Benjamin Franklin 1706〜90 アメリカの政治家・文筆家・外交官・哲学者・科学
者。アメリカ独立革命と連邦共和国建国に多大な貢献をした、アメリカ史上もっとも
重要な政治家のひとり。
フランクリンのアメリカへの顕著な功績のひとつは外交にある。彼は常識と知恵、機
知、勤勉、目標に対する堅実さ、大きな包容力などでアメリカ人を代表する。
図書館、大学の設立などの推進、郵便事業の改善、その他多くの公共事業をなした。
避雷針の発明者。




【インマヌエル・カント】
 「人間のための書物としての聖書の存在は、人類がかつて経験した中で最大の恵み
である。その価値を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる」。

 Immanuel Kant 1724〜1804 ドイツ啓蒙期、一八紀ドイツの大哲学者。人間は、理
性に基づいて正しい行為をする者である、と説いた。




【アイザック・ニュートン】
  「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存す
る」。

Isaac Newton 1642〜1727 イギリスの数学者・物理学者・天文学者。科学のさまざ
まな分野に卓越した業績をのこした偉大な科学者。その発明、発見と理論は科学に画
期的な進歩をもたらした。数学の分野では微積分法をドイツの数学者ライプニッツと
は別に発見し、物理学の分野では光と色の光学の諸問題を解決し、運動の3法則をう
ちたて、万有引力の法則をみちびきだした。
ニュートンは数学、光学、力学のほか、錬金術、神秘学、神学にも深い興味をもって
いたことがわかっている。これらの問題について、彼のノートや著作の膨大なページ
がさかれている。




【ウイリアム・ハーシェル】
 「人間の発見はすべて、ただ、聖書に含まれる真理を確証するために役立つもので
あると思われる」。

  一八〜一九世紀イギリスの大天文学者。天王星の発見者。そのほか多くの天文学的
発見をなし、恒星天文学の祖と言われる。




【W.F.オルブライト】
 「聖書の記述中、問題となっている大きな点は全部歴史的であることが、証明され
ている」。

不世出の天才と言われた二〇世紀の考古学者。幾つもの古代語を自由にあやつった。




【ジョージ・ワシントン】
 「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」。

George Washington 1732〜99 アメリカ合衆国初代大統領。在任1789〜97年。独立革
命では大陸軍総司令官をつとめる。アメリカ建国の父といわれ、国旗、合衆国憲法、
7月4日の独立記念日とならぶ合衆国統合の象徴である。




【ジョン・ラスキン】
    「私が著作したことに何か功績があるとすれば、それはひとえに私が幼かった
時、母が日ごとに聖書のある箇所を読み聞かせ、暗唱させてくれたおかげである」。

 John Ruskin 1819〜1900 イギリスの作家・美術評論家・社会思想家。ビクトリア
朝の知識人たちのセンスをリードする中心的な存在だった。建築とその社会的・歴史
的な意味を詳細に説明した記念碑的な作品「建築の七灯」と、その続編「ベネチアの
石」で知られている。
慈善事業にも関心を持ち、莫大な私財を投じた。




【アルフレッド・テニスン】
   「聖書を読むこと、それが教育である」。

  一九世紀イギリスの有名な詩人。「イノック・アーデン」などの代表作がある。




【チャールズ・ディケンズ】
  「新約聖書は、この世界でいまだかつてなかった、また今後もあろうとは思えぬ最
善最良の書である」。


  Charles John Huffam Dickens 1812〜70 イギリスの小説家で、文学史上とくに人
気の高い作家のひとり。その膨大な作品の中で、ユーモア、ペーソス、皮肉のきいた
巧みな語り口によって、するどい観察にもとづく辛辣(しんらつ)な社会批判をやって
のけた。
クリスマス・キャロル」「オリバー・ツイスト」などの代表作がある。




【ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ】
   「人類の知的文化が進歩し、自然科学が進んでその広さ深さを加え、またいかに
人類の心が望むままに広くなろうと、福音書から輝き出るキリストの高潔さと、道徳
的修練を越えていくことはないであろう」。

  Johann Wolfgang von Goethe 1749〜1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学
者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼が
あらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がうつし
だされている。そして、こうしたゲーテの作品は、評論や書簡もふくめて、同時代の
作家たちや、彼が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて大きな影響をあたえ
た。19世紀のイギリスの文芸批評家マシュー・アーノルドによれば、ゲーテは、「ド
イツ文学界の大御所」というだけでなく、「世界文学のもっとも多才な巨匠のひと
り」であった。




【山室軍平】
「聖書は世界無二、宇宙第一の書物である」。

 明治時代、「救世軍」日本支部司令官として伝道に従事し、婦人ホームの建設、免
囚保護事業、労作館の創設、廃娼運動などの社会事業の面でも多くの業績を残し
た。




【トマス・ハックスリー】
 「聖書は貧しい者、しいたげられた者の大憲章である。人類は聖書を捨て得る立場
にはない」。

  一九世紀イギリスの生物学者、進化論者。進化論を推進した人物のひとりだが、聖
書についてこう述べた。



       

No.011(エジソン)

古今東西偉人の学び方 エジソン

 1931年10月21日、アメリカ全土の電灯が1分間だけすべて消えた。3日前に亡
くなった”世界の発明王”に敬意を表したのだ。
 エジソンは、近所でも有名ないたずらっ子。度重なるエジソンのいたずらのせい
で、彼が7歳のときに、一家は引っ越しをしている。また、転校先でも、教師へのあ
まりの質問攻めに、小さな学校ではエジソンに対応しきれなくなり、8歳でやめさせ
られている。
 しかし、小学校を”放校”になってからが、エジソンの真骨頂だった。
 母親・ナンシーの個人教授で、10歳にしてエジソンは、『ローマ帝国衰亡史』(ギ
ボン作)、『シェークスピア作品集』、『英国史』(ヒューム作)などを読んでい
る。こうして、膨大な読書量に裏打ちされて、のちに、世界に比類なき発明を成し遂
げた。12歳から列車の売り子を始めても、中継駅のデトロイトで5〜6時間フリーに
なった時間を利用して、毎日のように市立図書館へ通った。ついには、理科系の本
も、文学も哲学書も、すべて読破してしまった。
 いつも膨大な量の本を読んでから発明に取りかかるため、研究所の中に図書館も
作ったほどである。
「私は図書館を読んだ」という名言も、こうした経験からくる自信の表れであろう。



No.007(ロシアの伝承)

今 おまえが生まれ
みんながおまえを見て笑い
おまえは 泣いている

おまえが逝く時には
おまえが笑い
みんなが泣くような
そういう人間に おなりなさい

(ロシアの伝承)


No.003(あしあと- 多くの人々を感動させた詩)

「あしあと」という題のマーガレット・F・パワースの詩を紹介します。   

                   

 ある夜、わたしは夢を見た。                        

わたしは、主とともに、渚を歩いていた。                  

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。              

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。           

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。           

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、              

わたしは、砂の上にあしあとに目を留めた。                 

そこには一つのあしあとしかなかった。                   

私の人生で一番つらく、悲しい時だった。                  

このことがいつも私の心を乱していたので、                 

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。                 

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、               

あなたは、すべての道において、私とともに歩み、              

私と語り合って下さると約束されました。                  

それなのに、私の人生の一番つらい時、                   

一人のあしあとしかなかったのです。                    

一番あなたを必要とした時に、                       

あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、                   

私には解りません。」                           

主は、ささやかれた。                           

「私の大切な子よ。                            

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりしない。       

ましてや、苦しみや試みの時に。                      

あしあとが一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」     






『あしあと』多くの人々を感動させた詩の背後にある物語
 幾百万もの人々を感動させたこの詩は、長い間、作者不明とされていました。
ところが、思いがけないところから作者が判明。カナダに住むマーガレット・パワー
ズさんは、夫と娘が水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練の時、
 「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と、夫に対して看護婦さ
んが読ん
でくれた詩を聞いて驚きました。それは彼女が若い頃に作った「フットプリ ント(あ
しあと)」という詩でした。

本は、太平洋放送協会という出版社から出ているそうです。

 マーガレット・F・パワーズ著 松代恵美訳 
 B6判/169ページ 定価 1,000円
太平洋放送協会 電話   03-3295-4921

有名人の聖書観 Part Ⅵ

                           

                          有名人の聖書観 Part Ⅵ




【トルストイ】(ロシアの文豪)
「信仰は生の力である」(私の懺悔)

Lev Nikolaevich Tolstoi 1828〜1910 ロシアの小説家。リアリズム小説の大作家で
あり、学識豊かな社会思想家・モラリストでもあった。
自分の信条と莫大な財産との間の矛盾や、財産を放棄しようとする彼に反対する妻と
の絶え間ない口論でトルストイの苦しみはつのっていった。そして、ついにある晩、
家出をする。すでに82歳の老齢に達していた彼は、3日後に病気になり、1910年11月
20日、ひなびた田舎の駅で生涯をとじた。
「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などの傑作がある。




【プランク】(量子論の創始者)
「理知ある至高の創造者の存在を仮定せずに、宇宙の成り立ちを説明する事は不可
能である。」

Max Karl Ernst Ludwig Planck 1858〜1947 ドイツの理論物理学者。現代科学の最
大の成果のひとつである量子論の創始者。
キールに生まれ、ミュンヘン大学とベルリン大学にまなぶ。1885年キール大学物理学
教授に任命され、89年から1928年までベルリン大学物理学教授をつとめた。
彼の業績に対しては多くの栄誉があたえられ、1918年にはノーベル物理学賞が授与さ
れた。30年には、当時のドイツの指導的な科学者のあつまりだったカイザー・ウィル
ヘルム科学振興協会会長にえらばれた。しかし、33年に権力を掌握したナチス体制を
公然と批判したことから、協会を追放されることになった。会長に復帰したのは第2
次世界大戦後であった。47年、ドイツのゲッティンゲンで死去した。




【ケルビン】(熱力学)
「科学は徹底的に研究すればするほど、無神論というものを取り除いてしまうと、私
は信じている。」

ケルビン卿 Lord Kelvin 1824〜1907 イギリスの数学者、物理学者。時代の先駆的
な物理学者であり偉大な教師であった。ケルビンは、熱力学の分野で、イギリスの物
理学者ジュールがおこなった熱エネルギーと機械エネルギーとの相互関係の研究を発
展させ、1852年に、ジュール=トムソン効果として知られるようになる現象の共同研
究をおこなった。48年に絶対温度目盛を提案し、その単位は彼の名からケルビンとつ
けられた。現在の絶対温度の単位(-273.16ーCを0度とする)の記号Kはケルビンにちな
む。




【アイザック・ニュートン】(不世出の天才と言わた近代科学の中心人物)
「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意
図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。・・・至上
の神は、永遠、無窮、まったく完全な方であられる」

Isaac Newton 1642〜1727 イギリスの数学者・物理学者・天文学者。科学のさまざ
まな分野に卓越した業績をのこした偉大な科学者。その発明、発見と理論は科学に画
期的な進歩をもたらした。ニュートンは数学、光学、力学のほか、錬金術、神秘学、
神学にも深い興味をもっていたことがわかっている。これらの問題について、彼の
ノートや著作の膨大なページがさかれている。




【アウグスティヌス】
『人は神に造られたものであるから、神に帰るまでは決して心に平安がない』

Augusutinus 354〜430 中世ローマの哲学者、神学者。初期キリスト教会最大の教
父。北アフリカのタガステに生まれた。父パトリキウスは異教徒だった(のちにキリ
スト教に改宗)が、母モニカは敬虔なキリスト教徒で、アウグスティヌスの改宗のた
めに心をくだき、カトリック教会に列聖されている。
主な書物には「告白」、「神の国」などがあり、中世の代表的な神学者で、その思想
はキリスト教会に大きな影響を与えた。




【 トインビー】(歴史学者)
人類の歴史を導き、予言しているもの。それが聖書である。

Arnold Joseph Toynbee 1889〜1975 イギリスの歴史家。
よく「歴史はくりかえす」と言われるが、歴史学ではそれは否定されている。歴史上
同じ事が起こったことはないからだ。しかし長い人類の歴史には「似た事件」が起こ
ることがある。そこで言われ始めたのは「歴史のパターンはくりかえされる」であ
る。歴史に法則性を求めて、その法則を活かして人類の歴史を予測しようという意図
をもって、従来の歴史学の「常識」に挑戦した学者の一人がトインビーだ。
アーノルド・トインビーは「20世紀最大の歴史家」とも評されたイギリスの文明史
家である。トインビー家は代々学者一家で、伯父に「産業革命」という言葉を生み出
した同名の経済学者を輩出している家柄だった。
トインビーは1889年にロンドンで誕生する。専門は古代ギリシア史。1930年
からトインビーを文明史家として決定付けた『歴史の研究』の執筆が始まる。これが
最終的に英語版で12巻(日本語版で25巻)となるライフ・ワークの始まりだっ
た。




【マルティン・ルター】
聖書のみことばは古いことばではない。また、新しいことばでもない。
聖書は永遠なのだ。

Martin Luther 1483〜1546 ドイツの神学者、プロテスタントの宗教改革をおこした
指導者。その影響力は宗教だけでなく、ひろく政治や経済・教育・言語にもおよび、
近代ヨーロッパ史の重要人物のひとりにかぞえられる。また旧約聖書をヘブライ語か
らドイツ語に翻訳して発行した。




【ロバート E.リ-】
私がいくら困難にあっても、聖書はいつも光と力を与えた。

Robert Edward Lee 1807〜70 南北戦争における南部連合軍の勇猛果敢な将軍。
南北戦争では北軍に敗北はしたが、リーの、敵の動きを予想し、弱点をみぬいた戦略
・戦術は時代を先どりしており、現在も世界中の兵学校で戦略と戦術のモデルとして
学習されている。




【パトリック・ヘンリー】
聖書は今まで印刷されたすべての本を合わせたものと同一の価値がある。

※ パトリック・ヘンリ-の「遺書」より
私は全財産を家族に分け与えた。しかし、どうしても与えたい
ものがもう一つ残っている。それはイエス・キリストを信じる信仰である。
たとい彼らにびた一文も与えなくても、彼らが信仰を持っているなら、
彼らは既に富める者なのだ。だが、もし、信仰がないとするなら、
世界のすべてを与えても、彼らはまったく貧しい。

Patrick Henry 1736〜99 アメリカ独立革命の指導者で雄弁家として知られる。バー
ジニア植民地ハノーバー郡に生まれ、ほとんど独学でまなび、1760年に弁護士を開
業。ワシントン大統領から政府高官への就任を何度か要請されたが、いずれもこと
わって弁護士として活動した。

有名人の聖書観 Part Ⅰ


                      有名人の聖書観  Part㈵


                             学者(人文・社会系)


【三笠宮 崇仁殿下】
私は戦時中に敵を知ろうと、キリスト教を調べ聖書にぶつかった。
初めは文明を誇る白人がなぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史
的事実と知ったとき、聖書から離れられなくなった。

(大正天皇第四皇子、今上陛下の叔父上)
※ 三笠宮殿下は、古代オリエントを専門とする歴史学者として有名です。
この言葉は殿下がなぜ歴史を学ぶようになったかについて述べたときのものです。



【南原 繁】
どれほど神仏に祈っても、しょせんは自分の無事幸福か、せいぜい家内安全を
願うことに止まった私の心が、いまや、(聖書の語る)自分の罪を知り、それから
のあがないとゆるし、神の御旨へと向けられるようになった。……私は、家庭にお
いて日曜日ごとに家族らに聖書の研究や話をした……

なんばらしげる 1889〜1974 政治哲学者。香川県に生まれる。1914年(大正3)に東
京帝国大学法科を卒業。内務省にはいり、日本最初の「労働組合法」草案の作成にか
かわる。ヨーロッパ留学をへて、25年に教授に昇進し、主として政治学史を担当し
た。学生時代から内村鑑三によって影響をうけた無教会キリスト教の立場と、ドイツ
観念論哲学の立場を基盤とした独創的な政治哲学を展開した。

※ これは、南原氏が自分の母親の思い出を語ったときのものです。
原文は半ば文語で書かれていましたので、現代文に改めました。


【矢内原 忠雄】
聖書は学者の書であり、無学者の書であり、万人によって万人に学ばれるべく、
万人によって解されるところの人類の書なのである。
われわれが謙虚になって聖書をひもといて見れば、それ(知識)は最も基本的な
形において聖書に示されておる。これを今日の社会情勢と、人間の知識の進歩
と、世界の複雑性に照らし合わせて応用すればよいだけです。根本は聖書に示さ
れている通りであります。

やないはらただお  1893〜1961 (経済学者、東京大学総長)
大正・昭和期の経済学者・キリスト教主義教育家。愛媛県に生まれ、第一高等学校時
代に新渡戸稲造校長や内村鑑三の影響をうけ、生涯のキリスト教信仰をえる。東京帝
国大学(現東京大学)を卒業して、1920年(大正9)同大助教授、23年教授になる。専門
の植民地政策論の研究のために台湾・満州(中国東北部)などを現地調査して現地の
抑圧された状況を明らかにし、キリスト教的な正義の立場から日本の植民政策を批
判した。




【隅谷 三喜男】 
旧約聖書も新約聖書も、神が歴史の中で働いてきたことを告白している書物で
す。

(経済学者、東京大学名誉教授、東京女子大学学長)
※ 隅谷氏は、成田空港問題について、地元住民と行政、有識者による円卓会議
を開催し、問題の解決と和解に尽力されたことで知られています。




                              学者(自然科学系)


【大喜多 敏一】
湯川秀樹博士が「私はどこから来てどこに行くのか知りたい。」と言われました
が、聖書にはその回答があるのです。        

(元北海道大学工学部教授、国立公害研究所大気環境部長)



【菅野 猛】
聖書はすべて神のことばである。

(元東京大学工学部長)




【アイザック・ニュートン】
いかなる世界の歴史におけるよりも聖書の中には、よりたしかな真理がある。




【アンブローズ・フレミング】
四つの福音書にあるこれらの出来事(復活とその他の奇跡)の記録を研究して
みなさい。そうすれば、あなたは確証済みの科学的事実や科学の原理の中に
は、何一つ、奇跡を信じることを妨げるものはない、ということがわかるであろう。

(日本の高校生を悩ませる「右手の法則」「左手の法則」で有名な英国の物理学者)




【アーサー・ホリー・コンプトン】
秩序正しく広がっている宇宙は、『初めに神が天と地とを創造した』(聖書の冒頭
のことば)という、もっとも荘厳なことばの真実さを証明する。

Arthur Holly Compton  1892〜1962(ノーベル賞受賞者)
アメリカの物理学者。オハイオ州ウースターに生まれ、ウースター・カレッジとプ
リンストン大学でまなんだ。
45〜53年ワシントン大学総長をつとめ、54年以降は同大学自然哲学教授をつとめた。
コンプトン効果の発見と宇宙線の研究によって、27年、イギリスの物理学者チャール
ズ・ウィルソンとともにノーベル物理学賞を受賞した。



【ボリス.P.ドツェンコ】
自己中心的で皮相な知識は無神論に至り、客観的で深みのある真の研究は神
への信仰に至ると言えましょう。この世に与えて下さったことばの書である聖書に
注意を向けて下さった神に感謝します。

(元ソ連科学アカデミーの戦略核ミサイル開発者、元キエフ物理学研究所原子力研究
部長、カナダに亡命)




【トーマス・エジソン】
光、暖かさ、健康、力はすでにもう存在しているのですから、スイッチを入れさえ
すればよいのです。電線そのものは別に何でもありません。絶縁された二、三本
の銅線にすぎないのです。しかし、その線の中をプラスとマイナス二つの電流が
流れると、すべてが変わってきます。暗黒は失せ、冷気はなくなり、仕事もたやす
くできるようになります。聖書は単なる本にすぎませんが、神の御霊によって霊感
されている聖書の各ページを、神の義と愛とが、プラス・マイナス二つの電流のよ
うに流れ、キリストの十字架で合流しています。聖書だけが、私たちに救い主を示
してくれます。そのことによって聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができ
る力の泉となるのです。あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分
の生活に倦み疲れてはいませんか。また、不安や心配にあきあきしてはいません
か。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい。

Thomas Alva Edison  1847〜1931 アメリカの発明家。電球、発電システム、録音
装置、映写機などを発明または改良して、現代社会の形成に大きな影響をおよぼし
た。
晩年は主として、以前の発明を改良したり、完成させたりする仕事をつづけ、生涯で
1300もの発明をし特許をとった。そのために不眠不休の研究生活をおくったが、ほと
んどの発明が、それまでの科学的な知識をつかっているという意味で、エジソンは科
学者というよりも技術者だったといえる。

                                         



                           文学者・哲学者・教育者

【ゲーテ】
私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら 私は聖書
を選ぶ。

Johann Wolfgang von Goethe  1749〜1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学
者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼
があらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がう
つしだされている。



【テニスン】
聖書を読むこと。そのことが教育である。

一九世紀イギリスの有名な詩人。「イノック・アーデン」などの代表作がある。



【イマヌエル・カント】
聖書の存在は、人類がかつて経験したうちで最も大きい恵みである。その価値
を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる。

Immanuel Kant  1724〜1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシア
のカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活
ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形
而上学正教授となる。
81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。
つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲
学を完成した。



【ウイリアム・クラーク】
今、自分は一生をふりかえってみると、何も誇るようなものはないが、ただ日本
の札幌において数カ月の間、日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、すこし
満足と喜びを感じる。

William Smith Clark  1826〜86(「少年よ大志を抱け」の言葉で知られる)
明治期のお雇い外国人で、札幌農学校の事実上の創始者。アメリカのマサチュー
セッツ州の医師の家に生まれる。北海道における指導者をそだてる高等農業教育機
関の設置を計画した開拓使の招きに応じ、1876年(明治9)7月に来日。
当時、マサチューセッツ農科大学の学長をつとめており教育者としての名声も高く、
日本には1年間の休暇を利用してやってきた。



                                          

                                     軍  人


【淵田 美津雄】
私は熱心に聖書を読みました。私の人生観はキリストによって完全に変えられまし
た。

(旧帝国海軍のパイロットで真珠湾攻撃の総指揮官として有名、戦後にクリスチャン
となる)

 
                                          


                                   政 治 家


【マハトマ・ガンジー】
私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。

Mohandas Karamchand Gandhi  1869〜1948 インド独立運動の最大の指導者。非
暴力による抵抗の思想は人々に大きな影響をあたえ、マハートマ(偉大な魂)と称され
る。インド西部グジャラート地方の小さな藩王国だったポールバンダルの宰相の家に
生まれ、ヒンドゥー教徒だった。



【ジョージ・ワシントン】
神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である。 

George Washington 1732〜99 アメリカ合衆国初代大統領。在任1789〜97年。独立
革命では大陸軍総司令官をつとめる。アメリカ建国の父といわれ、国旗、合衆国憲法、
7月4日の独立記念日とならぶ合衆国統合の象徴である。



【アブラハム・リンカーン】
聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいも
のはすべて聖書にある。
聖書はそれ自身の権威を裏づける無数の証拠を持っている。

Abraham Lincoln  1809〜65 アメリカ合衆国第16代大統領。在任1861〜65年。
南北戦争という危機と苦難の時代を大統領として生き、もっとも偉大な大統領と評価
されている。
彼の慈愛にみちた誠実な人柄、心をうつ演説の才能、奴隷解放の実現、悲劇的な最期
は、神話化されたリンカン像をつくりだしてきた。国内における人種平等の可能性に
ついては楽観的ではなく、その人種観も偏見をまぬがれていたわけではなかったが、
すべての人間が自由であるべきと信じ、奴隷制を道徳的悪と認識していた。
ことなった立場の人々や対立する集団との調和をはかり、ときには妥協しながら現実
的な策を慎重にさぐる政治家だった。




【セオドア・ルーズベルト】
聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。

Theodore Roosevelt 1858〜1919 アメリカ合衆国第26代大統領。在任1901〜09年。
革新主義の内政と、巧みな外交を展開し、人気の高い大統領のひとりとなった。




【W.E.グラッドストン】
私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖書を
奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限に
引き離している。

William Ewart Gladstone  1809〜98 (英国首相)
イギリスのビクトリア時代の代表的な政治家の一人で、1867年に自由党党首となり、
4度にわたり首相をつとめた。在任1868〜74、80〜85、86、92〜94年。




【ナポレオン】
聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ
生き物である。

ナポレオン1世 Napoleon I  1769〜1821 フランス皇帝。在位1804〜14、15年。た
ぐいまれな能力によって皇帝の地位にまでのぼりつめ、一時的にヨーロッパの大半を
支配した。コルシカ島のアジャクシオで、シャルル・ボナパルトとレティツィアの8
人の子のうちの2番目として生まれた。本名はコルシカ語でナポレオーネ・ブオナパ
ルテ。ボナパルト家はロンバルディアに起源をもつ古い家柄で代々アジャクシオの町
の行政にかかわってきたが、父は貧しい判事だった。



                                          

                                   そ の 他


【ヘレン・ケラー】
私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文
字 はありません。
聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。

Helen Adams Keller  1880〜1968 アメリカの女流著述家・社会事業家。身体の三重
のハンディキャップを克服して、障害をもつ人々を鼓舞激励した。





【サルトル】
私は自分が偶然の産物、宇宙のほこりだとは思わない。むしろだれかに期待さ
れ備えら予示された存在、つまり創造者である神だけがここに置くことができた存
在だと思う。

Jean Paul Sartre  1905〜80 (終生、妥協を知らない無神論者であった)
フランスの哲学者・戯曲家・小説家・政治ジャーナリストで、実存主義を主導した代
表的人物。




【アーノルド・トインビー】
宇宙を形造っているすべての事物の背後に、この宇宙に意味と価値を与えてい
る何か究極的な精神的存在といったものが存在している。
私は、ただ人間性の精神的な側面で、私が直接経験したことから、その存在を
感じとっている。たいていの時代、たいていの場所で、たいていの人が、同じ感得
を得てきた。

Arnold Joseph Toynbee 1889〜1975 イギリスの歴史家。政治的国家の継承としてで
はなく、文明の継承として歴史をとらえる歴史観によって知られる。オックスフォー
ド大学のベーリオル・カレッジにまなび、1911〜15年、母校の研究員兼チューターと
なる。ついで19〜24年にロンドン大学でギリシア・ビザンティン史の教授として教壇
にたったが、第1次世界大戦後のギリシア・トルコ戦争に際して、ギリシア人による
トルコ人虐殺事件の通信記事を発表したため非難をあび、大学をしりぞいた。




【小尾 信弥】
ほんとうにおもしろいんですね。実に不思議で、やはり自然というものは神様が
造ったんじやないかと、ときどき思わされてしまうんですよ。・・・自然界というの
は実に不思議で究極的には神が見えるような気がします。

(東大教授・宇宙物理)



【トーマス・エジソン】
哲学的思考力を持っている人なら、認めざるをえない事実は受け入れるはずで
ある。森羅万象が表現している状態から察しても、宇宙は実に全能者の意志の偉
大なる成就である。もし至上の権能者の存在を否定するというなら、自分の知識
をないがしろにするにも等しい。科学と信仰とは同一の源から出ているのであり、
決して互いに矛盾したり衝突したりすることはあり得ない。



【神田 啓治】
科学が急速に進歩し、特に物理学と生物学の進歩は、神の領域を侵害する恐
れがある、と言う人がいる。しかし、本当に科学者として研究の第一線に立ってい
る者はそんなことは言わない。研究すればするほど、人間の力の無力さと神の絶
対性の間のギャップの大きさを改めて知らされるからである。

私事で恐縮であるが、・・・論文を400編以上書き、いくつかの賞をもらってい
ると、一応科学者の仲間に入れられる。世界中で講義やら講演の申込みが数多く
舞い込んでくるし、現に毎年五回くらいは海外へ出かけることになる。かくかくしか
じかの業績があり、世界的に有名な科学者として紹介され、集まった人々はあり
がたく話を聞いてくれる。しかし、私はこれまで何をしてきたというのか、そして私
に一体何ができるのか。聖書を通じて教えられた神と比較すると、神に追いつくど
ころか、神に近づくことすら、とてつもなく難しいことのように思える。

(京大教授・核物質管理学)




【毛沢東】
もうしばらくして、上帝(北京語で「神」のこと)に会う備えをしなければならな
い。

(中華人民共和国の建国者、死の少し前にエドガー・スノーのインタビューに答え
て)




【ジョージ・ギャラップ】
私は統計学的に神を証明することができるといえます。たとえば、人間の体につ
いて考えてみてください。一人の体のすべての機能が造られるためには、どのくら
いの偶然が重ならなくてはならないのでしょうか。これを計算すると、統計的に見
て奇怪なほどの偶然が必要となります。

George Horace Gallup  1901〜84 アメリカの世論分析家・統計家。アイオワ州ジェ
ファソンに生まれる。アイオワ大学卒。ドレーク大学ジャーナリズム学科主任
(1929〜31)、ノースウェスタン大学ジャーナリズム・広告担当教授(1931〜32)、コロ
ンビア大学ピュリツァー・スクール・オブ・ジャーナリズム教授(1935〜37)を歴任。
1935年にアメリカ世論研究所を創立して理事長となり、翌年にはイギリス世論研究所
も創立した。




【アレクサンドル・ユーゾフ】(旧ソビエト陸軍将校・思想教育を担当)
霊的領域はファンタジーだと強く確信していた私は、ソ連軍将校として無神論を
教えるようになりました。

けれども、全く予想外でしたが、事態が変わり始めたのは、この講義の任務と関
連していたのです。私は講師としての責任を真剣に受け止め、この主題につい
て、できるだけ広く本を読もうと決心しました。そして読めば読むほど、結局、神は
いるのではないかと、考えるようになったのです。

特に三冊の本が、それまで固かった私の考えをゆさぶりました。二冊はポーラ
ンド人の著者の本で、一方は『巡回伝道者の年代記』と言い、他方はただ『聖書
物語』と書かれていました。両方とも、非常に客観的に書かれていて、私は気に入
りましたが、神の存在と、神自身により霊感を受けた文献としての聖書の真実性
について、賛否両論を提示していて困りました。

三冊めの本は、前の二冊以上に私の先入観を混乱させました。聖書の新約聖
書の部分だったのです。無神論のよい材料を探していて見つけたものです。とこ
ろが読めば読むほど、固く保ってきた反宗教的信念に、ますます大きな疑問が出
てきたのです。事実、聖書が真実ではないかとさえ思うようになりました。

今はもう、神が現実の方であって、私に神を信じ信頼するように願っていること
を、完全に確信しています。かつて疑ったように、今は完全に、無条件に、神を強
く信じています。・・・新たなクリスチャンの友人たちが言うように、これらとその
他の「神の恵みの不思議」を、ますます認め、楽しむようになりました。このよう
な恵みは、神の助けを求めるすべての人に与えられます。しかし、すばらしい新生
面の知識と経験が開かれていくうちに、新たな問題も必然的に人生を悩ますことに
なつたのです。・・・KGBとの”話し合い”に呼ばれたときに驚きはありません
でした。・・・時間が経つうちに、尋問はますます厳しくなりました。
[注 その後、彼は旧政権下で迫害を受ける立場に立たされた]

このような迫害の問題や、家と家族から離れている苦痛が続いていても、もう二
度と神を疑ったり、無視することはありませんでした。神は、最も困難な状況の下
でも、かつてないほどの平安と幸せを与えてくださった方だからです。今個人的に
神を知った私としては、いつでも、どんな形でも、神を完全に信頼することは、最も
論理的なことだと言えます。どれほど高くつくように見えても、あなたも神を信頼す
るように強くお勧めします。神を知り、その愛の暖かさを知ることは、神を信じた時
に受けるどんな迫害をもつぐなって余りあるほどです。

No.132(聖書を読むきっかけ - ある人の告白)

聖書を読むきっかけ(ある人の告白)

高校生のとき、現代国語の授業の中で、矢内原忠雄という戦前・戦後を通じて活躍し
た経済学者、聖書研究者のことを知りました。矢内原は、新渡戸稲造が国際連盟事務
局次長に転出した後を受けて東京帝国大学の助教授、教授となりましたが、信仰のゆ
えに戦争への協力を拒んで帝大を追われ、以後終戦まで伝道者として活躍しました。
その活動も軍部・警察によって著しく圧迫されました。戦後、5度懇請されて大学に
復職、以後、経済学部教授として現在の国際経済論の講座を開き、教養学部長、
経済学部長、総長として、東大の再建に尽力しました。
わたしは、戦時中の彼の生き方、特に軍部や政府に逆らってまで自らの信念を貫く強
さ、しかも、歯を食いしばって強がるのではなく、歓びながら所信を貫く彼の「不思
議な強さ」に強く惹かれ、彼が一生涯、そのあゆみの基盤とした聖書に興味を持つよ
うになりました。
彼の同僚であり、社会主義者・無神論者であった大内兵衛は、矢内原を始めとする聖
書読者について、次のように述べています。
『東大につとめるようになってから、私はたびたびいろいろの事件を起こしたり、
また関係したりした。(註1)
そしてそのたびごとに、多くの同僚のうち何人かがマゼものの入っていない本当の人
間であるかについて、分別を試みなくてはならぬ立場におかれた。済々たる多士のう
ち、最上級の品質として私がよく出したものに、法学部に田中耕太郎、南原繁、高木
八尺があり、経済学部に矢内原忠雄、江原万里があった。
この人々はいずれも私より年少であったけれども、そのバック・ボーンが私自身の何
倍も強かった。
私は彼等の骨を私の支柱としつつ、その強さがどこから来るのかをいぶかった。多年
の分析と分別によって、彼らのヴァイタリチーまたはヴィタミンは、彼らが若かった
ときに、内村という男(註2)が彼らに注ぎこんだものであることを、私は遂に発見
した。
わたしが心を惹かれたのも、聖書を読む人間の、この不思議な「骨」でした。』



註1 社会主義経済学者であった大内は、戦前戦中の思想弾圧により、何度か大
学追放や検挙などの難を受けた。
註2 明治・大正期を代表するキリスト者・内村鑑三のこと

No.131(怒り)

怒り

私は、友人に向かって

怒りの言葉をぶつけた

その言葉はナイフのように彼の心に突き刺さり

その傷はなかなか、いやされなかった

考えなしに口にしてしまったあの言葉

2人とも忘れることができればと思うが

それはまだ余韻を残しており、

その記憶はなお心に残る


ある作家は、次のような体験を語っています。「子供の頃私はひどく短気で、そのた
めしばしば怒りが昂じて残酷なことを言ったり、良くないとわかっている事をしたり
しました。
ある日、私が遊ぴ友達に対して怒りを爆発させてしまい、泣いているその友達を家に
送って帰ってくると父は言いました。
「おまえが怒って思いやりのないことを言うたびに、門の柱に釘を打ち込むことにし
よう。だがおまえが、忍耐強くいて親切で優しい言葉を言う度に一本釘を抜いてやろ
う」と。
数カ月がたちました。その入り口を通るたびに釘の数がどんどん増えているのが見
え、どうしてもその理由を思い出さずにはいられません!そこで私はついに、その釘
が抜かれるようにするのはチャレンジになるから、最善を尽くしてやってみようと決
めたのでした!
とうとう待ちに持った日がやってきました! 最後の一本の釘を父が抜いてくれた
時、私はそこらへんを飛び回りながら誇らしげに言いました。
「お父さん、やった!!釘が全部なくなったよ!」 父が穴だらけになった柱をじっ
と見つめている様子が今も目に浮かびます。
父は思慮深くこう言ったのです。
「ああ、確かに釘は全部なくなった。だが、痕は残っている!!」

No.130(西郷隆盛 - 敬天愛人の思想)

西郷隆盛の祈り

「道は天の道であり、地の道である。人の分はそれに従うことである。
したがって、天を敬うことをもって人生の目的とすべし。
天は我をも人をも等しき愛をもって愛する。
したがっておのれ自身を愛する愛をもって、他人を愛すべし。
人ではなくして、天を友とせよ。
しかして天を友としつつ最善を尽くすべし。
決して他人を責むるなかれ。
ただ、自分が及ばぬ身である事を顧みるべし。」

新渡戸稲造 著:「武士道」:飯島正久訳:築地書房より



西郷隆盛 1827〜77 
明治維新の指導的政治家。木戸孝允・大久保利通とともに維新の三傑とよばれる。薩
摩藩の下級藩士、西郷吉兵衛の長男として生まれる。開明的藩主の島津斉彬にみ
いだされて側近として活躍したが、1858年(安政5)の斉彬の死、および安政の大獄
で失脚、奄美大島で幽囚生活をおくる。
1862年(文久2)復権したのちは、島津久光と折り合わず再度の流罪にもあったが、64
年(元治元)の禁門の変から長州征伐、やがて王政復古から戊辰戦争という事態を巧み
に主導し、明治維新を成功にみちびいた。
維新後は帰郷して藩政改革を指導したが、1871年(明治4)に諸条件をのませて新政府
の参議にむかえられると、岩倉使節団外遊中の留守政府をあずかり、地租改正・徴兵
制・学制ほか革新的政策をすすめた。
しかし1873年、征韓論問題で下野。その行動に多くの薩摩藩出身者がしたがい、彼が
遊居する鹿児島県下は私学校生徒を中心に独立王国のようになり、やがて不平士
族の盟主とあおがれるようになった。彼らの熱情にもひきずられ、77年に西南戦争を
おこしたが敗退し、鹿児島の城山で自殺した。

No.129(初めての電球 - トーマス・エジソン)

初めての電球  

真に他の人を許した人、その人は電球を発明した、あのトーマス・エジソンです。何
百回にも渡って実験を重ねるという苦労の末、ついに電球が完成しました。やっと、
歴史上初の電球が出来上がったのです。
エジソンの心は喜びと誇りでいっぱいでした。この瞬間を何年間も夢見てきたのです
から。
「ジミー、これを二階に持って行っておくれ。」 
エジソンはそう言って、若い助手のジミー・プライスにその電球を手渡しました。
ところが、次の瞬間、何かが割れる音がしました。エジソンが振り向くと、彼の大切
な電球が床の上で粉々になっているではありませんか。ジミーが手を滑らせて電球を
落としてしまったのです!
エジソンは何も言いませんでしたが、その心中は察することができます。しかし、エ
ジソンは黙って作業台に戻ると、もう一度電球の製作に取り掛かりました。二個目の
電球が出来上がるのには何日もかかりました。しかしとうとう完成し、その電球は
製作者の前の作業台の上に置かれました。
そしてエジソンは、最初の電球を壊した助手を許したというしるしに、とても寛大な
ことをしました。
にっこりほほ笑むと、エジソンはその新しい電球をジミーに手渡して、こう言ったの
です。
「ジミー、今度は慎重に!」 
エジソンはジミーにもう一度チャンスを与えたのでした。ジミーは、今度はもう電球
を壊したりはしませんでした。
こうして、今日の世界に、何億もの電球が存在するようになったのです。


【トーマス・エジソン】
光、暖かさ、健康、力はすでにもう存在しているのですから、スイッチを入れさえす
ればよいのです。電線そのものは別に何でもありません。絶縁された二、三本の銅線
にすぎないのです。
しかし、その線の中をプラスとマイナス二つの電流が流れると、すべてが変わってき
ます。暗黒は失せ、冷気はなくなり、仕事もたやすくできるようになります。
聖書は単なる本にすぎませんが、神の御霊によって霊感されている聖書の各ページ
を、神の義と愛とが、プラス・マイナス二つの電流のように流れ、キリストの十字架
で合流しています。聖書だけが、私たちに救い主を示してくれます。そのことによっ
て聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができる力の泉となるのです。
あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分の生活に倦み疲れてはいませ
んか。また、不安や心配にあきあきしてはいませんか。
スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい。

Thomas Alva Edison  1847〜1931 アメリカの発明家。電球、発電システム、録音
装置、映写機などを発明または改良して、現代社会の形成に大きな影響をおよぼし
た。
晩年は主として、以前の発明を改良したり、完成させたりする仕事をつづけ、生涯で
1300もの発明をし特許をとった。そのために不眠不休の研究生活をおくったが、ほと
んどの発明が、それまでの科学的な知識をつかっているという意味で、エジソンは科
学者というよりも技術者だったといえる。



No.128(あなたの中には大きな力が眠っている - ロジャー・バニスター)

あなたの中には大きな力が眠っている

産業行動研究所の小野浩三氏が伝える、ロジャー・バニスターというイギリスの中距
離ランナーの話をご紹介します。(『精神開発の技法』ダイヤモンド社刊)
バニスターは、陸上競技の一マイル競争で初めて4分を切ったランナーですが、彼が
その記録を達成するまでの話です。
1923年、天才ランナーと言われたフィンランドのヌルミ選手が、一マイルを4分
10秒で走り、それまで37年間誰にも破られずにいた記録を2秒更新しました。
当時としては本当に驚異的な記録でした。
もうこれ以上の記録は人間には出せないだろうと専門家は断言し、新聞もそう書き
立て、やがてそれが「世界の常識」になりました。

昨年、世紀の変り目ということでライフ誌が「ミレニアムを作った重要人物100
人」というリストを公表しました。
1位はトーマス・エジソン、2位はクリストファー・コロンブス、3位はマルチン・
ルターと誰でも知っている名前が並んでいます。
日本からは葛飾北斎が 86位にランクされています。
この中に陸上競技選手でただ一人選ばれたのが、92位のロジャー・バニスターで、
ネルソン・マンデラ と トルストイの間にその名を見つけることができます。
一般の人には無名とも思われるロジャー・バニスターが重要人物100人に選ばれた
ことの本質は何だったのでしょうか?
ヘルシンキ・オリンピック代表で、オックスフォード大学医学部を卒業したばかりの
ロジャー・バニスターは1954年5月6日に2人のチーム・メイトをペースメー
カーにして1マイルを3分59秒4で駆け抜け、31年間誰も破ることの出来なか
った記録を突破しました。
ライフ誌は次のように書いています。
「極めて遠い将来まで多分永遠に、ヒトは1マイルを4分以内で走ることはできな
いだろうと考えられていた。それは途方もない壁だった。(中略)なぜ、人々がその
ような実際には存在しない壁があるがごとく暗示をかけられていたのかはわからな
い。しかし、バニスターがそれを達成した時、夢は勢いをえ人間の潜在能力は突
如無限のものとなった。バニスターは我々に人間の可能性という概念を疑わせ、定
義させなおしたのだった。」
当時の世界記録はヌルミ選手が1923年に出した4分10秒3。そしてこの記録が
樹立されて以来、「ヌルミの記録はいつかは破られるかも知れないが、4分を切るこ
とは医学的に考えられない」といわれていました。
事実それから31年間、ヌルミの記録を破る選手は現れなかったのです。
31年間ヌルミにまさるランナーがいなかったのでしょうか。
そうではないと現在では考えられています。
なぜならバニスターは世界記録を樹立しましたが、その記録は当該年度のなんと第2
4位に終わってしまったのです。
つまり、同じ年に23人のランナーがバニスターの記録を破ったからです。一体それ
までの31年間は何だったのでしょうか。31年もの間記録が破られなかったので
す。1954年に突如24人の名ランナーが現れたのでしょうか。いやそうであるは
ずがありません。
バニスターは「不可能を可能にした」のですが、それはバニスターにとってというよ
りも人類にとってであったのです。このことは陸上競技界やスポーツ界だけでなく
さまざま分野に影響を与えました。

バニスターはこう考えました。多くの人たちは困難な問題に挑戦するにあたって、
最初からぜったい無理だと決めてかかっている。これでは実際に記録を破る力が
あっても、力を出し切れないまま失敗してしまう。バニスターは「世界の常識」に
疑問を抱くとともに、猛烈な練習を重ねた結果ついに世界新記録を樹立しました。


●実力を発揮するには
バニスターは、あなたの記録は科学的練習の成果かとたずねられるたびに「いい
え、私の記録は私の精神の所産です」と答えたそうです。彼は否定的な意識を
持っていては、困難は乗り切れないことを誰よりも知っていたのです。
さらに興味深いことは、バニスターがこの記録を出してからは、一マイル4分を切る
選手が続々と現われたことです。30年間だれもできなかったことが急にできるは
ずはありませんから、4分を切る力はすでに多くの選手に備わっていたのです。
ただその中にあって「きっとやれる」ことをもっとも強く信じたのがバニスターだっ
たと言えます。
このように本番のときに持っている実力が出せないで終わる、こんな残念なこと
はありません。上がってしまったり緊張しすぎてしまって、練習のときには何でも
なかったことにつまずくというのもよくあることです。考えすぎたり、「うまくいく
だろうか、失敗したらどうしょう」といった不安が、いつもの自然な調子を乱してし
まうのでしょう。
小野氏は前掲の本の中で、
「否定的意識はマイナスの方向に人間行動を制御する。……すなわち、それによっ
て、本来出るべき力(潜在力)が出なくなるような状況が生じてしまう。否定的意
識が脳中枢に抑制を生じさせ、そのため力の発揮が困難になる。これが内制止(イン
ターナル・インヒビション)と呼ばれる現象である」と指摘しています。無謀な自信
家では困りますが、いわば「落ち着いた、静かな自分への信頼:自信」は、実力発揮
のためには欠かせないようです。

●使わずじまいの可能性
バニスター選手の場合は世界記録というたいへん大きな話でしたが、問題の本質は
だれにとっても同じです。
アメリカの哲学者であり、心理学者でもあったウィリアム・ジェームズによると、
「人間はみんな本気で生きているように思っていても、たいていの人は自分の潜
在能力の25パーセントぐらいしか使っていない」
つまり、残りの75パーセントは一生使わずじまいだということです。この数字の細
かい正確さはともかく、一般に私たちは、自分の中に使われないで眠ったままに
なっている力がたくさんあることに、まだまだ気づいていないのは確かなようです。
そうした力を生かすことの大切さは、別に仕事に限った話ではありません。今まで以
上に細やかな心づかいや思いやりの心で人に接することができれば、よりいっそう
円満で気持ちのよい人間関係が、もっとたくさん生まれてくるでしょう。

No.127(なんのために生きるか - 天野清三郎)

なんのために生きるか

松下村塾にはいろんな人がいました。吉田松陰の偉いところは、自分が死刑になると
だいたい予感していたので、獄中から一人ひとりの弟子の身の振り方を、それぞれ決
めてやったことです。
その中に、天野清三郎という勉強ぎらいで見込みがないと思われる弟子がいました。
松陰は高杉晋作に手紙を書いて、「高杉、お前が自分に代わって面倒を見てやれ」と
言いました。そこで高杉晋作は、松陰先生の遺言どおり天野清三郎を引き取って、腰
巾着みたいにして勤皇運動をして歩きました。
高杉は天才中の天才といわれるくらい頭のいい人でした。あの英仏連合艦隊が下関を
攻撃した講話条約のとき、長州藩の代表になっていったのが二十五歳です。そのとき
イギリス人の肝っ玉を冷やすようなことをいって、堂々と談判してきたのですから大
したものです。一方天野は鈍才中の鈍才でしょう。とてもじゃないが高杉さんのまね
はできん、わしは政治運動には向かん、ということが身にしみてわかったわけです。
それでも自分の人生のデザインをせねばならん。いつまでも高杉さんの腰巾着をやっ
ておってはだめだ、と気がついて、何になろうかと考えたところが耳の中に松陰先生
の言葉が残っていた。
それは、ペリーが黒船を連れて浦賀へ来たときに、松陰はちょうど江戸にいたので、
夜中じゅう浦賀まで駆けて行ってそれを見てきた。そのことがあってから弟子たち
に、「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。あれを造らなければ日本は植民地
にされてしまう」といったのです。
現にペリーは何千人もの陸戦隊をのせていたのですから、あのとき幕府が開港しな
かったら、まったく松陰先生のおっしゃるように、日本は植民地になっていたかもし
れないのです。天野の耳にその言葉が残っていましたから、「そうだ。おれは勉強嫌
いだけれど、手先の仕事は好きだ。だから舟大工になって黒船を造ろう」
そう考えたのです。けれどその当時、舟大工になるというのは、武士を捨てて職人に
なるという大変なことなのです。しかも、勤皇運動の仲間に加わってそれから抜け出
すということは、いろんな秘密を知っているから味方からも命をねらわれるのです。
そこで彼は、慶応三年に密航して上海に逃げました。そして上海からロンドンに渡
り、ロンドンの造船所で働きながら船造りを覚えました。ところがやってみると、大
変なことになった。船を造るには、基礎の数学だの物理だの力学だのといった学問を
徹底的にマスターしなければだめだ、ということがわかったのです。彼は勉強嫌いだ
から船造りになろうと思ったのです。ところが勉強しなければならない。
しかも、ついこの間まで漢学一本の勉強をやっていた男が、ロンドンという異郷の
地で、英語を使って数学や物理や力学を勉強するのです。もう血を吐く思いだったと
いっています。夜学校に入ったのですが、イギリス人は一年で卒業できるのに三年
たっても卒業させてもらえません。わからないからです。わかるはずがないでしょ
う。
数学のスの字も知らない人間が、いきなり造船学の基礎になる高等な数学を勉強する
のですから。しかも英語も不十分なのだから、本当に血を吐く思いだったに違いな
い。でもこれをやらなければ帰れないのです。
自分の生きる道がないからです。そこで今度はアメリカへ渡って、ボストンの造船所
で働きながら夜学へ通いました。すると今度は不思議によくわかったということで
す。英語も上達していたし、アメリカの学校の教え方が進んでいたのでしょう。
そうやって辛苦の末に造船学をマスターして、明治七年に横浜に上陸しました。そし
て東京へ訪ねていけば、かつての松下村塾の仲間が明治政府の高位高官にいるで
はありませんか。面会に行くと、
「天野、お前生きておったか、どうしておった」
「いや、船造りを覚えてきた」
「よしっ」
ということになって、天野清三郎は、明治政府が長崎に造った日本最初の長崎造船所
の所長になりました。
今日、世界一の百万トンドックがある三菱造船所の初代所長になったのです。
世界に冠たる日本の造船業界の、文字どおり草分けの第一人者になったわけです。後
に名を改めて渡辺蒿蔵といい、日本郵船の社長にもなりました。
松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いの天野清三郎が、どうしてロンドンやボスト
ン、血を吐く思いをしてまで勉強することができたのかその底力はどこから出たの
か。
それは、自分は何のために生きるかを真剣に考えた末、自分の持ち味の発揮と世の
ため人のために役立つことが結びついた、どうしても果たさなければならない夢を
持っていたからです。

No.125(ジョージ・ワシントン アメリカ初代大統領)

ジョージ・ワシントン  アメリカ初代大統領

 その日は、寒く、北風が吹きすさんでいました。本部を出たワシントンは外套をま
とい、襟を立て、肌を刺すような風から顔を覆うために帽子を深くかぶりました。全
身をすっかり覆っていたので、彼が軍隊の司令官だとは、誰も気がつかなかったこと
でしょう!
ワシントンが道を歩いて行くと、兵士達が要塞の防壁工事をしている所に差しかかり
ました。そこで立ち止まって、数人の兵士達が丸太で塀を作るのを見ていました。兵
士達は重い丸太を積みあげるために奮闘していました。そのかたわらで、上官づらを
した伍長が命令を与えています。「持ち上げろ! さあ、全員一緒に!」と大声で叫
ぶと、兵士達は一斉に力をふり絞って押しましたが、その丸太は重すぎて、山と積ま
れた丸太の一番上に届きそうに思えた時に、すべって転がり落ちてしまうのでした。
伍長はもう一度叫びました。「さあ持ち上げろ! どうしたんだ? 持ち上げろ、と
言っているだろう!」
兵士達はもう一度、懸命に持ちあげようとしましたが、もう少しで上に届きそうに
なったところで、丸太はすべり、またしても転がり落ちてしまったのでした。
「力をこめて持ちあげろ!」と伍長が叫びました。「さあ、全員一斉に上げるんだ
!」 また懸命にやってみました。そして、三度目に丸太が転がり落ちそうになった
時、ワシントンは大急ぎで駆け寄り、全身の力をふりしぼって丸太を押しました。
すると、丸太は胸壁の一番上にうまく転がり込んで収まったのです。汗びっしょりの
兵士達が、あえぎながらもしきりに礼を言い始めると、ワシントンは伍長の方を向い
て言いました。
「君の部下達がこの重い丸太を持ち上げるのを、なぜ手伝わないのか?」 ワシント
ンが尋ねると「何だと?」と伍長は言い返しました。「私は伍長だぞ。おまえにはわ
からんのか?」
「無論わかっている!」 そう答えると、ワシントンは、外套をパッと開き、その軍
服を見せたのでした。「私はただの司令官にすぎない! 今度、丸太が重くて君の部
下達に持ちあげられないようなら、私を呼んでくれたまえ!」

「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」。
(ジョージ・ワシントン)

George Washington アメリカ合衆国初代大統領 (1732年〜1799年)
建国の父として、国民から高い尊敬を得ている。
ワシントンはまだ正規軍として確立していなかった寄せ集めの兵からなる民兵組織を
再編し、訓練しなおしながらイギリス軍と戦った。困難な体験の中で、彼は新しい国
家がどうあるべきかを探っていた。  

「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい
権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていること
を、われわれは自明の真理であると信じる」  (独立宣言書の一節)

No.124(五千円札の肖像-新渡戸稲造)

新渡戸稲造
明治〜昭和初期の農業経済学者・教育家。
(1862〜1933年)

新渡戸稲造は、明治・大正期の教育家であり、国際連盟事務局次長としても活躍した
人物である。五千円札の肖像ともなっているので、その顔にはたいてい見覚えが
あるはずである。
(1984年(昭和59)に5000円紙幣の肖像図に採用された。)
新渡戸は、札幌農学校の学生時代に、クラーク博士の影響のもとで、クリスチャンに
なった。 クラーク博士の言葉「少年よ大志を抱け」(Boys, be ambitious)は有名だ
が、本当はこの言葉は「少年よキリストにあって大志を抱け」(Boys, be ambitious
in Christ)である。もとは「キリストにあって」がついていたのだが、それを抜かした言
葉が世間では有名になっているのである。
新渡戸も、その言葉に従い、キリストにあって大志を抱いた。それは「われ太平洋の
橋とならん」であった。彼は日米を結び、また世界を結ぶ架け橋となろうと努力したの
である。
若くしてアメリカに渡った彼は、そこでクウェーカー派(直接的体験を重視する派)
の信仰にふれ、熱心なクウェーカー派クリスチャンとなった。
また新渡戸は、アメリカ人女性メリー・エルキントンを妻として選んだ。今でこそ国
際結婚は多くなったが、当時は白色人種と黄色人種の結婚など、ほとんど考えられない
時代であった。
新渡戸はその後、日本に帰って札幌農学校教授、台湾総督府技師、京都大学教授、第
一高等学校校長、東京大学教授、東京女子大学長、を歴任した。
彼は日曜日には自宅を解放して、英語の聖書の講読、そのあと茶菓を出して座談を楽
しんだ。広い書斎兼客間が、聴講生であふれたという。
新渡戸はまた、妻の実家エルキントン家から送られてきた二千ドルの金を投じて、貧
しい子どものための夜学校をつくり、自分もそこで教えた。
新渡戸を世界的に有名にしたのは、英文で記した著書『武士道││日本人の魂』で
あった。この本は世界的に大きな反響を呼び、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、
ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語にも訳された。
アメリカの第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、『武士道』を読んで非常な感
銘を受け、数十冊もまとめて買って自分の子どもや友人にすすめ、さらに海軍兵学校や
陸軍士官学校の生徒たちにも読むように勧めた。
第一次世界大戦が終わった翌年の一九一九年、パリの講和会議で、戦争を防ぐための
機構として国際連盟を設置することが決議された。その事務局には、事務総長の
ほかに事務次長数名が選ばれたのだが、新渡戸はその事務次長に選出された。
当時の事務総長ドラモンド卿は、新渡戸についてこう言っている。
「彼はただ演説がうまいだけでなく、深い感動を与える。その点で彼に及ぶものは、
連盟事務局にだれもいない」。
新渡戸は、その国際連盟の職を七年間務めた。その後日本へ帰国したのだが、その頃
の日本はしだいに国際的に孤立し、隣国への侵略の道を歩み始めていた。
一九三一年には満州事変がおき、日本は国際連盟を脱退、戦争への道を歩んでいっ
た。新渡戸はそうした中で、引き裂かれた国の間に何とか橋をかけようと奔走した。
けれども、もはや彼の雄弁をもってしても、事態を好転させることはできなくなって
いた。新渡戸はこうして一九三三年に、七二年間の生涯を閉じた。
新渡戸は、札幌農学校時代のクラスメイト内村鑑三と同じく、「二つのJ」——JE
SUS(イエス)とJAPAN(日本)を愛した。人の生きる時代は様々である。しか
し、その時代において人生を最大限に生きた人——それが新渡戸稲造であった。

No.123(若者に大望を懐かせた教育者 クラーク博士)

若者に大望を懐かせた教育者 クラーク博士

ウィリアムS・クラークは1826年、米マサチューセッツ州に生まれた。ピューリ
タン信仰に立つアマースト大学に在籍中、キリスト教に劇的に回心。
卒業後はドイツに留学して植物学を修め、母校の農芸化学の教授になっている。南北
戦争では学生義勇軍の指揮をとり、大佐にまでなった。
「国家のためというより、呪われた奴隷制度をこの国から払拭したいという気持ちの
方が強かった」という。
その後、マサチューセッツ農科大学の創設に関わり、初代学長を務めた。札幌農学校
創立のための協力依頼を受けたのは、学長就任10年目の時のことである。
1876年(明治9年)6月下旬、横浜に到着。横浜で英語の聖書30冊を用意し
て、船で北海道に向かった。
船中、北海道開拓使の黒田清隆と激論になった。黒田から「学生達に最高の道徳を教
えてほしい」と頼まれ、「聖書を用いて行いたい」と答えたからである。
黒田はキリスト教禁制が解けてまだ間もないからだめだと言い、クラークは「聖書に
言及せずに道徳は教えられない」と譲らなかった。
論争は小樽に着くまで続いた。ほかの宣教師たちは、黒田はキリスト教に敵意を持っ
ているから不可能だと言ったが、結局、クラークが粘り勝ちした。
開校式の演説では、「ここで学ぶ学生は大望を喚起すると信じる。青年紳士諸君、健
康を保ち、食欲と性欲と利欲を制御し、知識と熟練を獲得せよ」と語り、学生たち
を感激させた。
また、「人間は規則で作られるものではない」として校則を廃し、「紳士たれ」でよ
しとした。持ってきた聖書を学生たちに配り、授業はその1章を読んでから始めたと
いう。指導は丁寧で、実際に即していた。
同時に謙遜で、その行動は意表を突いた。「この方は偉い先生だという先入観に支配
されて、導かるるままに従って行くばかりだった」と学生の一人は書き残している。
こうしてクラークの人格に圧倒された1期生は全員『イエスを信じる者の誓約』に署
名した。
その感化は直接教えを受けなかった内村鑑三ら2期生にまで及んだ。これらの学生た
ちは、その後、明治日本の各界で指導的役割を果たす人物になっている。
翌年4月、クラークは札幌を離れた。名残を惜しんだ学生たちは24キロ先の島松
まで見送った。
クラークは学生一人ひとりと握手して馬にまたがると、ひときわ声高く「青年よ、大
志を懐け」との名言を残して去っていった。クラークが札幌で教鞭を執ったのはわず
か8ヶ月であった。

No.122(トーマス・エジソンと新渡戸稲造)

トーマス・エジソンと新渡戸稲造

「これからの機械文明の時代を生きるには、心の進化が必要です。」

数々の発明を成したエジソンも、晩年は霊界と来世の研究に没頭した。「自分が何者
かによって生かされ、使命を与えられている。私の成した多くの発明は、全てその何
者かのほんの一部分に過ぎない」と感じるに至ったエジソン。
彼は、日本人の精神性の高さに深い興味(関心)を抱き、新渡戸稲造の著した「武士
道」を愛読した。
新渡戸稲造の母親は武士の妻として、稲造を厳しく育てた。「お前もお父様やおじい
様のような立派な人間になるのです。偉い人になるまでは帰ってきてはいけません」
と稲造をつき離し、一人勉学のために送り出した。

「母子が別れて暮らすことに年老いた私でさえ耐えられるのですから、若いお前が耐
えられないはずはありません」———厳しく突き放した母親の手紙を読む稲造。その
母親の期待に答えるべく必死で勉学に励む稲造の姿。彼は人類愛に燃え、洗礼を
受ける。そして、ジャンヌダルクに憧れ、自分の全身全霊を神と人類の為に捧げ尽く
すことを誓う。

No.121(昭和天皇とキリスト教)

昭和天皇とキリスト教(佐賀新聞より転載)

〈マ元帥天皇の改宗検討〉
連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥は日本占領時代、民主
改革とともにキリスト教の布教にも努め、昭和天皇の「キリスト教改宗」まで真剣に
検討していた事実が、当時の関係者の日記から確認された。共同通信が入手した、米
プリンストン大図書館収蔵のジェームズ・フォレスタル米海軍長官(当時。後に初代
国防長官)の日記に明記されていた。結果的には、キリスト教の布教は戦後の一時的
なブームで終わり、昭和天皇の改宗問題はこれまで秘話とされてきた。

昭和天皇は敗戦から約三カ月後の一九四五(昭和二十)年十一月、プロテスタント代
表団と懇談、カトリック神父も含め、有力なキリスト教指導者と何度か会見した。
キリスト教社会運動家、賀川豊彦の進講も受けた。戦後いち早く訪米して帰国した女
性キリスト教運動家、植村環が皇后に聖書を進呈し、皇居内で聖書を講義したことも
あった。
四六年七月十日、日本を視察したフォレスタル長官はマッカーサー元帥と約一時間に
わたって会談した。
元帥はその際「天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現
にはかなりの検討を要する」と言った、と長官は日記に記した。
元帥はまた天皇について「欧米で言えば、育ちが良くてお金持ちの若い社交クラブ会
員のような人で、軍部に操り人形として利用された」との感想を漏らしたという。
こうした経緯を経て、当時の関係者の間で「天皇はキリスト教徒になるのではない
か」とのうわさが流れた、とGHQ宗教課のウィリアム・ウッダード元調査官は回想
録に書いている。
天皇が改宗すれば、多数の日本国民の入信も見込めるため、キリスト教各派の代
表は天皇との接触を求めて活発に動いた。当時皇居の警護も担当していたエリオット

ソープGHQ民間情報局(CIS)局長の回想録には、ローマ法王庁の駐日大使が天
皇との会見をしつこく要求したいきさつが明らかにされている。
各派の対立を避けるため結局、マッカーサー元帥の判断で「天皇の改宗は行われない
ことで決着した」とソープ准将は書いている。
昭和天皇自身は四八年八月のオーストラリア紙「メルボルン・サン」との会見で「自
分自身の宗教(神道)を体していた方がよいと思う」と言明、改宗の意思を明確に否
定した。
昭和天皇が一時期キリスト教関係者との接触を深め、西洋文明への関心を示したの
は、皇室の存続にプラスになると考えたため、とも理解できる。占領軍当局やキリス
ト教関係者はそうした行動を改宗への〝兆候〟と受け取り、うわさが先行した可能性
がある。
(春名幹男共同通信編集委員)
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〈布教、大統領も承認〉
占領期にGHQが日本で進めた「キリスト教伝道」は、ハリー・トルーマン米大統領
の直接の承認を得て、米陸軍の占領地政策の一環として行われていたことが、同
大統領の関係文書から明らかになった。
米アマースト大のレイ・ムーア教授(日本史)がトルーマン図書館で発見した米政府
文書に明記されていた。
キリスト教布教は、敬けんなキリスト教徒だったダグラス・マッカーサー連合国軍最
高司令官が、個人として積極的に進めたことは知られていたが、実際には米政府の公
式の政策だったことがはっきりした。
当時のケネス・ロイヤル米陸軍長官は一九四九(昭和二十四)年四月二十七日付でト
ルーマン大統領あてにメモを送り、日本では神道が衰退して、米国にとって「宗教的
好機が到来した」と指摘、キリスト教的倫理、文化、政治的理念を「日本社会のすべ
ての階層に普及させる」よう訴えた。
これに対し、トルーマン大統領は「私は喜んでこれを受け入れる」とイニシャル署名
入りメモで答えた。
こうして、占領地政策担当のトレーシー・ボリーズ陸軍次官補が、カトリック、プロ
テスタント両団体の支援と助言を得て、計画を推進した。
これらの文書には、具体的な布教活動の内容や予算額などは記されていないが、
関係者によると、宣教師の派遣や聖書、賛美歌集の印刷、戦災で焼けた教会堂の
再建などが行われた。
日本に入国した宣教師の数は四五—五○年で三千人を突破。さらに、戦前・戦中に使
われていた聖書、賛美歌集が米国でリプリントされ、送られてきた。「賛美歌が君が
代と一緒に掲載されていたこともあった」と関係者は言う。しかし五二年に占領が終
了、キリスト教ブームは冷め、日本国民の間にキリスト教が拡大することはなかっ
た。

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=フォレスタル日記要旨=

フォレスタル米海軍長官(当時)の一九四六年七月十日付日記の関係部分要旨次
の通り。
■マッカーサー元帥は一時間の会話で次のように語った。
1、日本の産業が復興し始めることができるよう、賠償問題では支払額を日本側に明
確に通告すべきだ。
2、彼(マッカーサー元帥)は天皇について、欧米で言えば、育ちが良くてお金持ち
の若い社交クラブ会員のような人で、軍部に操り人形として利用された、と表現し
た。
■天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現にはかなりの
検討を要すると思う、と元帥は言った。

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ジェームズ・フォレスタル氏 一八九二—一九四九年。プリンストン大卒。ウォール
街の投資銀行ディロン・リード社に入り、社長を務めた。四○年、ルーズベルト大統
領に請われて海軍次官、次いで海軍長官に就任。四七年新設された国防総省の初
代長官。陸海空三軍間の調整などで苦労し、一年半後辞任。うつ病にかかり、四九
年自殺。
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〈マ元帥、宣教師1000人求める〉
アマースト大教授、レイ・ムーア氏
十九世紀の人間であるマッカーサー元帥は、民主主義はキリスト教の原理から起こっ
たと信じ、キリスト教を日本で布教するよう米国の教会に要請した。一九四五年十
月、彼はプロテスタント指導者に「千人の宣教師の派遣」を求めた。
彼は、ある宣教師あての手紙で「私が日本のキリスト教化を楽しみにしていることを
理解してくれるでしょう。その目的のためにあらゆる努力が行われている」と書い
た。また五○年には、「キリスト教会は過去五百年間日本で、今ほどの好機に恵まれ
たことはなかった。・・・日本はキリスト教なしに民主主義になり得ない」とも書い
た。
彼は、皇居内の情報源にも勇気づけられて(昭和)天皇自身がキリスト教に改宗する
だろうと確信した。事実、彼は福音伝道師ビリー・グラハム師に対して、天皇はキリ
スト教を日本の公式宗教にしてはどうかと申し出た、と語ったという。一部の学者
は、こうしたマッカーサーのキリスト教への熱意の証拠を取り上げず、ワシントンの
支持がなかった、と言う。
実際には、統合参謀本部は一九四五年、正式に布教への支援を承認し、一九四
九年、ケネス・ロイヤル陸軍長官とトルーマン大統領は「日本における宗教的好機」
を利用するというマッカーサー元帥の政策を支持した。その後マッカーサー元帥は、
自分は「米国の兵士であると同時に神の兵士だ」と述べた。

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レイ・ムーア氏 米アマースト大教授。1933年生まれ。国際基督教大で日本語を
学び、ミシガン大で博士号取得。64年以来アマースト大で日本史講座を担当。同志
社大、東大で客員教授などを務めた。著書に「内村鑑三」「天皇がバイブルを読んだ
日」など。


No.120(聖フランチェスコの祈り)

聖フランチェスコの祈り


主よ 私を平和の手先としてください

憎しみのあるところに、愛の種を蒔かせて下さい

無礼のあるところに 赦しを

疑いのあるところに 信仰を

失望のあるところに 希望を

暗黒のあるところに 光を

悲しみのあるところに よろこびを私に蒔かせて下さい

おお 主よ  願いを聞き届けてください

理解されるよりも 理解することを

慰められるよりも 慰めることを

愛されるよりも 愛することを求めることが出来ますように

私たちは 自分に死ぬ事によって自分を見い出し

自分に死ぬ事によって永遠のいのちをいただくのですから



Francesco (1181 or 82年〜1226年)
イタリア、アッシジの富裕な織物商人の長男として生まれ、戦争をきっかけに、キリ
ストと貧しい人たちへの愛に目覚めていく。
ウンブリア平原に咲く小さい花のように、また大空をさえずる雲雀のような自由を、
と唱えた聖フランチェスコにあやかって、1847年米国は、西海岸の都市をサン・
フランシスコと改名した。
同時代の日本では、法然・親鸞・道元らが活躍する時代でした。フランシスコ会の日
本での布教は1593年になります。
「ブラザーサン・シスタームーン」という聖フランチェスコを主題にした映画があり
ます。良かったらぜひ一度ご覧下さい!!素晴らしい映画ですよ。


No.119(斉藤宗次郎と宮沢賢治)

斉藤宗次郎と宮沢賢治

仏教徒を深く感心させた一人のキリスト教徒の話をしたいと思います。それは斉藤宗
次郎という人です。
1877年、斉藤宗次郎は岩手県花巻の禅宗の寺の三男として生まれました。彼は
15歳のとき、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となりました。
彼は小学校の先生となりました。一時、国粋主義に傾くのですが、やがてふとした
きっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。1900年、彼
は信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになりました。花巻の地で第一号のクリ
スチャンです。
斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは12月の朝6時、雪の降り積もった寒い朝、豊沢川に
おいてでした。珍しいことだと、橋の上には大勢の人が見物にやって来ました。
しかし、これはキリスト教がまだ「耶蘇教」「国賊」などと呼ばれて、人々から激し
い迫害を受けている時代のことです。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強
くなりました。親からは勘当され、以後、生家に一歩たりとも入ることを禁じられて
しまったのです。
町を歩いていると、「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。それ
でも彼は神を信じた喜びにあふれて、信仰を貫いていました。
しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、ついに彼は小学校の教師の職を辞めなけれ
ばならないはめになってしまいます。また迫害は彼だけにとどまらず、家族にまで及
んでいきました。
長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子どもと言われて腹を
蹴られ、腹膜炎を起こしてしまいます。何日か後、彼女はわずか九歳という若さで天
国に帰って行きました。
葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国の希望のなか平安に彼女を見送りましたが、
愛する子をこのようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の心情は、察するに余りあ
ります。
彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになります。朝3時に起き、汽車が着
くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという生活でした。重労働のな
か、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血しました。それでも毎朝3時に起き
て、夜9時まで働くという生活を続けました。その後の時間は聖書を読み、祈る時を
持ちました。不思議なことに、このような激しい生活が20年も続きましたが、体は
支えられました。
朝の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけまし
た。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走ります。彼は雨の日も、風の日
も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けました。自分の子どもを
蹴って死なせた子どもたちのために。
新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
やがて1926年、住み慣れたその故郷を離れ、彼が東京に移る日がやって来まし
た。花巻の地を離れるその日、″だれも見送りに来てくれないだろう〃と思って彼は
駅に着きました。
ところが、そこには町長をはじめ、町の有力者の人々、学校の教師、またたくさんの
生徒たちが見送りに来てくれているではありませんか。神社の神主もいました。仏教
の僧侶もいました。さらに他の一般の人たちも来て、町じゅうの人々が彼を見送りに
きてくれたのです。
斉藤宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのです。彼らは感謝
を表しに来ていました。身動きできないほど多くの人々が集まったのです。
そのなかの一人に、宮沢賢治がいました。
宮沢賢治は、有名な法華経信者です。その彼もそこに来てくれていました。そして斉
藤宗次郎が東京に着いてのち、彼に最初に手紙をくれたのは宮沢賢治でした。
宮沢賢治はその五年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくりまし
た。この詩は、最後は「そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられてい
ます。この詩のモデルになった人物が、斉藤宗次郎だったのです。


「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、欲はな
く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を
食べ、あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず、
野原の松の林の陰の小さな藁葺きの小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行っ
て看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな
人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらな
いからやめろと言い、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに
木偶(でく)の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず——そういう者に私はな
りたい」



No.118(内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」)

内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」

●代表的日本人
内村鑑三の著作の一つに『代表的日本人』という名著がある。西郷隆盛、上杉鷹山、
二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げたもので、日清戦争(1894年)のさ
なかに書かれたものである。原題を『Japan and japanese』(のちに改題されて
『Representative Man of Japan』)といい、それは英文で書かれている。
なぜ英文で書かれたのか。
内村はその執筆動機をこう語っている。
「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにして
も欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業のひとつとしてこの事を為し
得たことを感謝します。私の貴ぶ者は二つの“J”であります。その一つはJesus(イ
エス)であり、いま一つはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義
務の幾分かを書いたものであります」

いわば内村は、当時、好戦的な野蛮国と批判していた欧米列国の人々に対して、「日
本にはこんな素晴らしい偉大な人物がいるんだぞ、なにが野蛮国なものか」と、キリ
スト教徒の殉教者にも劣らぬ彼らを、日本人の“誇り”として書いたのである。
たとえば、その一人、二宮尊徳に対しては、
「彼がいかに“土地の衰廃と人気の汚悪”と戦ったか。彼には術策と政略は皆無で
あった。『至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く』として、この人には清教
徒の血が通っている所があった」と、尊徳の中に「慈悲」「勤勉」「正直」「忍耐」
といった美徳を見つけだし、敬虔なるプロテスタントの清教徒と対比して見せてい
る。

むろん、この本は単なる「偉人伝」ではない。西郷に対して「余輩は彼ほど人生の欲
望の少なき人を知らない」と、無私無欲を称えているように、身を挺して仁を貫く
「武士道的精神」をプロテスタントにも劣らぬ伝統的精神として活写し、不屈の意志
力で人生を誠実に生きた彼ら五人の精神の美徳を、みずからの生き方の指針として、
「かくあるべし」と願って書いたのである。それはまさしく内村の生き方そのもので
あったのである。

なぜなら、内村は一般的には「日本的キリスト教徒」として知られているが、じつは
彼こそサムライ的な矜持を保ち、生涯その生き方を貫き通した人はいなかったといっ
てよい。その証拠に、『代表的日本人』が出た翌年、内村は『余は如何にして基督教
徒となりし乎』(これも英文)を書くが、彼はこの中で自分のキリスト教への回心が
「武士道の台木に接ぎ木するものだった」と述べ、その根底の精神に一貫して武士道
的精神が流れていることを告白している。

キリスト教徒といえば、とかく多くの人が西洋かぶれしたバタ臭い人を想像しがちだ
が、内村は墓碑に、

「われは日本のため

 日本は世界のため、

 世界はキリストのため、

 すべては神のため」

と標したように、彼はすぐれた愛国者であり、もっとも日本人の美しき道徳律を持っ
て生きた国際人であり、神の忠実な下僕だったといえる。

●キリスト教徒としての萌芽
さて、その内村鑑三は、万延二年(1861)三月、つまりペリー来航から八年後、明治
維新から七年前、高崎藩松平家の家臣の子として生まれた。明治キリスト教徒として
同時代に活躍する植村正久、海老名弾正、小崎弘道からは三〜五年遅れ、良き友
あるいは論敵だった徳富蘇峰、山路愛山には二〜四年長じている。
父・宜之は謹厳実直な武士であると同時に儒学者でもあった。だが明治四年の廃藩置
県で職を解かれ、内村が札幌農学校へ入学したころには早くも隠居し、没落武士の身
となっっていた。
鑑三少年は、父の影響で最初は政治家を志し、一三歳で東京帝国大学の予科であ
る東京外国語学校へ進学した。が、先の家庭の事情から学資がつづかず、三年後、
授業料が無料で北海道開拓使の道が約束されている札幌農学校(北海道大学の
前身)へと転身する。

札幌農学校というと誰しも「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士を
思い出すが、クラークと内村との直接の関係はない。クラークが教鞭をとったのはわ
ずか八ヶ月のことで、直接の薫陶を受けたのは一期生のみである。同級生には五千円
札で知られる新渡戸稲造がいるが、内村らは二期生だった。
とはいえ、内村にとって札幌農学校での四年間は、彼の人生を決定する期間だったと
いってよい。内村はここで、クラークが残した「イエスを信じる者の契約」にサイン
し、初めて生涯の愛読書となる英文聖書に出会い、キリスト教の「神」を知った。

もちろん武士の子として育った内村は、簡単にキリスト教に入信したわけでない。そ
の経緯は『余は如何にして基督教徒になりし乎』に詳しいが、彼は「わが内なる精神
には武士道あり」と、当初はキリスト教を耶蘇教として認めていなかった。それどこ
ろか、友人たちがづつぎに入信するのをニガ虫をかみしめる思いでながめ、札幌神社
に参拝して「耶蘇教をわが国から追いだしたまえ」と祈りつづけるほどの青年であっ
たのだ。

ところが、いったん、キリスト教と武士道の精神が矛盾するものではなく、ともに自
己を鍛える崇高なる道徳律であることを理解すると、在学中に「信仰の独立」を唱
え、外国の援助や干渉を受けない独自のキリスト教を主唱したのだ。
明治一四年(1881)札幌農学校を首席で卒業した内村は、農学校の規定にしたが
い開拓使御用掛として勤め、のち農商務省に転ずるが、やがて明治一七年、その農
商務省も辞めて自費でアメリカへ留学した。ペンシルバニア州の州立精神薄弱児の
施設などで苦労して働き、その後クラークの母校でもあるアマスト大学に進学して
神学を修めた。そしてここでシーリー総長と出会い、決定的な「回心」を体験して福
音主義的信仰に導かれたのであった。

●後世への最大遺物
帰国後の内村は第一高等学校の講師の職にあった。だが明治二四年(1891)一月
、思わぬ試練に遭遇する。明治天皇の教育勅語奉載式で「敬礼」を躊躇したことで職
を解かれてしまうのだ。世に「不敬事件」として知られているが、内村は「国賊」
「不敬
漢」として、井上哲次郎ら国権論者を中心に、日本中のジャーナリズムから総攻撃さ
れた。もちろん内村にすればキリスト教徒の良心から出たものであったが、「忠君愛
国」に燃える世間はそれを許さなかった。

犯罪者のごとき烙印を押された内村には、身の置き場もなかったほどだった。友人を
訪ねてネグラを探す内村は、あるとき盛岡で宿をとった。「内村鑑三」の名では泊め
てくれないだろうと、「内村三蔵」という偽名をつかった。ところが、ちょうどその
年の五月、ロシア皇帝を大津で斬りつけた犯人が「津田三蔵」という名であったた
め、宿の主人はその人物と疑って内村を叩き出したという。

あるいはまたこんな話しも残っている。
日本中を転々とする内村は、京都に札幌農学校の先輩でクリスチャンでもあった大島
正健を訪ねた。腹が空いているだろうと大島がスキ焼きをご馳走すると、内村は鍋の
ものを全部平らげたのち、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と、一気に
鍋を持ち上げて飲み干したという。
内村によれば、不敬事件のあとの数年は、「飢餓線上をさまようごとく」であったと
記すが、だが、この間に処女作『基督教徒のなぐさめ』をはじめ、『日本人および日
本人』『余は如何にして基督教徒となりし乎』などの名著をあらわし、その精神は
「日本のため、世界のため、キリストのために」と、いっそう磨かれ、昂揚していく
のである。

なかでも感銘を受けるのは、こうした受難の時に、若きキリスト教徒たちのため
に夏期学校でおこなった「後世への最大の遺物」という講演である。
内村はいう。
「一人の人間として我々は何をこの世に遺せるか。金か、事業か、文学か……、だ
が、それらは誰もが残しうる最大の遺物とはいいがたい。誰もが遺せる最大の遺物、
それは勇ましく高尚なる生涯だと思うのです」

後にこの講演は一冊の本としてまとまり、内村の気概の精神を唱えるものとして、若
きキリスト教徒たちの「和製聖書」とまで呼ばれるが、この後、内村は先の著作のベ
ストセラーとともに、不死鳥のようによみがえったのである。

●日本の天職とは
いまや内村は、マスコミ界きっての売れっ子として国民的寵児となっていた。明治三
十年(1897)二月一四日、当時、日本一の発行部数を誇っていた黒岩涙香の『萬朝
報』に、内村が英文欄の主筆として迎えられると、同紙はその入社を一面トップで紹
介したほどだった。だが、やがて日露戦争が勃発し、社長の黒岩涙香が参戦論を展開
すると、内村は堺枯水、幸徳秋水らとともに「非戦論」を唱えて、同社を退社した。
明治三十六年十月九日のことだ。その日、萬朝報に掲載された「退社の辞」は、日露
戦争に反対する内村の心の叫びであった。

この間、内村は社会評論雑誌『東京独立雑誌』(明治三十一〜三十三年)、個人雑誌
『無教会』(同三十四〜三十五年)などを創刊しつづけるが、内村のライフワークと
なったのは、明治三十三年から死にいたる(昭和五年六十九歳で死去)まで出版され
た個人雑誌『聖書之研究』であった。これは全三百五十七号における一連の聖書講義
であり、内村はこれを「紙上の教会」とみなして、全国三千人の読者に三十年間送り
つづけたのである。それは「無教会主義」と呼ばれる内村の独自の布教活動であっ
た。

内村にすれば、キリスト教信仰は「キリストを信じる」という、ただそれだけのこと
で十分であり、洗礼を受けたり教会に通うことなどといった制度や作法は重要視しな
かったのである。
また日曜日ごとに行われた聖書講義は、東京市民の人気の的であり、会場となった場
所は常に満員であった。内村は聖書との関連で、人生を語り、世界をながめ、歴史を
解釈し、進んで人に信仰をすすめたり、信者をつくろうとはしなかった。
内村の真骨頂は、膨張する国家に対してその堕落ぶりを批判し、信仰と愛国心に裏打
ちされたナショナリズムを提唱したことだ。いわゆる「日本天職論」であるが、彼は
福沢諭吉の「脱亜論」とは違う、欧米と東洋の折衷を説き、次のような主旨を述べた
のである。

「日本のあるべき姿は東西世界の架け橋となることであり、軍事力や経済力とは別の
“信仰の国”として、平和国家を建設することである」と。

この言葉は今日の日本でも通用する一つの国家論といえるのではないか。ちなみに、
こうした内村から薫陶を受けた人々として有島武郎、志賀直哉、正宗白鳥、前田多
聞、南原繁、矢内原忠雄、高木八尺などがいる。