2015年8月15日土曜日

No.078(アメリカ行きのチケット)

アメリカ行きのチケット

ある青年が大学へ入りたいと思いました。
「リンカーンやブッカー・T・ワシントンのように、世界中の人たちに影響を与える人
間になりたい。そのためには大学で勉強しなくては」
青年はそう考えていました。彼の名は、レグソン・カイラといいました。
アフリカの貧しい部族に生まれたレグソンは、1セントのお金も持っていません。それ
でも彼は、アメリカの大学に行くために、カイロまで
約5000㌔ の道のりを歩いて、そこから船に乗ってアメリカに渡るしかないと、無
謀な計画を立ていました。
  彼に用意できたものは、5日分の食料と小さな斧、毛布、それに『聖書』 と 『ピル
グリムの巡業』 (どちらも全米で1.2位を誇るベストセラー
。『ピルグリムの巡業』 はキリスト教の歴史を描いた冒険小説風の読み物。) の2冊
だけでした。 たったこれだけのものを身につけて、レグソンは
自分の将来を賭けた旅に出ることにしたのです。
 それは1958年10月。 レグソンが16、17歳のころのことです。
 レグソンは自分の夢は必ず叶うと信じていました。それでも、何度となく、
「船賃はどうする? 1セントも持っていないのに。アメリカの大学はオレを受けいれ
てくれるのか? カイロまでだって歩いていけるのか?何百もの言葉の通じない部族を
通っていかなければならないのに」 と悩みました。
 また彼は、自分を育ててくれた両親が、自分の計画に反対するのではないかと心配し
ました。
 ところが、彼の育ての親は、彼を引き止めたりはしませんでした。それで、彼は決心
がつきました。
 「両親もオレが家を出ることを許してくれた」
  実を言うと、彼の両親は、アメリカという国がどこにあるか知らなかったのです。そ
れで、彼の願いを了解してくれたのです。こうして彼は、5日分の食料と2冊の本を
持って、生まれ故郷を出発しました。

  荒れ果てた広大なアフリカの大地を旅して5日が過ぎましたが、レグソンはまだ40
㌔ しか歩いていません。食料が底を突き、水もわずかになっていました。
  食料と水はわずかしか残っていないのに、彼はお金を持っていなかったので、途中で
食べ物を買うこともできませんでした。それでもレグソンは、まだ残りの約5000㌔
もの距離を歩かなくてはなりません。
  以前の彼だったらすぐに、「自分を生んでくれた母親が誰なのか分からない、そんな
オレに何ができる?」貧しい家庭もらわれたオレに何が出来る?
ニアサランドでは勉強など役に立たないんだ。」 と、この計画をあきらめていたで
しょう。
  そんな彼が勉強を始めたのは、あるとき、ひとりの宣教師が、貧しくて学校に通えな
い枯れた野本へ勉強を教えるため巡回に来てからのことでした。その宣教師はレグソン
に、リンカーンとブッカー・T・ワシントンの伝記を読むように進めてくれました。
 貧しい家庭に生まれながらアメリカ大統領になり、奴隷解放のために戦ったリンカー
ン。20世紀の初め、奴隷として生まれながら、後に、黒人教育者となり奴隷制度の廃
止運動を行ったブッカー・T・ワシントン。
  レグソンが、この時はじめて、「自分も、ふたりのような人間になりたい」という夢
を持ったのです。夢をかなえるには勉強しなくてはならない、そうさとったのです。
  食料がなくなったからと言い訳をして、故郷へ引き返すことは、貧困と無知の生活に
一生あまんじることを意味していました。「あきらめるくらいなら死んだ方がましだ。
ぜったいアメリカへ行くんだ」
  彼は何度も何度も自分に言い聞かせると、カイロを目指して歩きつづけました。旅の
途中、仕事をもらい、寝床を貸してもらう事もありましたが、野生の果物や草で胃袋を
満たして、野宿する夜がほとんどでした。敵対的な部族もいるので、新しい村に入る時
は神経を張り詰め、じゅうぶん用心しなければなりませんでした。
  レグソンは、肉体的にも精神的にも疲れ果て、日に日にやせ衰えていきました。前に
進もうと足を一歩出すのもおっくうで、足はもつれるばかり。
「最後に、何かを胃袋に入れたのはいつだったろう」そう思い出そうとしても、頭がふ
らついてまったく思い出せません。
「おれは、もう、ダメだ」
 ゆっくりと彼は、その場に倒れこみました。すると、運良く通りかかった男が、瀕死
のレグソンを見つけ、彼を肩に抱えて寝床のある場所へ運んでくれたのでした。
  男が与えてくれた薬草のお陰で、何とか命を取りとめましたが、レグソンの心はすっ
かり弱りきっていました。
  「やっぱりオレはバカだったんだ。こんな無謀な旅を続けて死んでしまうくらいな
ら、家に戻った方がずっとましだ。」
  やりきれなくなったレグソンが寝返りを打つと、薬草の入った容器の横に、肌身はな
さず持ち歩いていた、2冊の本が置いてあることに気づきました。
彼は痩せ衰えた手で、何とか本をつかみ、むさぼるように読みはじめたのです。

2冊の本に導かれて、レグソンは再び立ち上がり、歩き始めました。
1960年1月19日。故郷のニアサランドを出発してから15ヶ月で、レグソンはウ
ガンダの首都カンパラまで1600㌔ほどの距離を歩いていました。
  カンパラについた彼は、アルバイトをしながらそこに6ヶ月ほど滞在し、図書館へ
行ってありとあらゆる本を読みました。それが、彼にできる唯一の受験勉強でした。そ
して、その図書館で、レグソンはアメリカの大学の案内を見つけました。
  生まれ故郷のニアサランドのように壮大な山脈に囲まれ、澄み切った青空が広がる、
泉と緑の芝生に囲まれたすばらしいキャンパスのイラスト。
  「バージニア州ヴァーノン山のふもとの、スカジットバレー大学・・・・・」
  まるで、レグソンの夢が形になって、はっきりと目の前に現れたかのようでした。彼
は、スカジットバレー大学の学長に宛てて、自分の状況を説明し、奨学金を受けられる
かどうかをたずねる手紙を書きました。
  学長は、レグソンの手紙と行動に感動し、入学の許可はもちろんのこと、「大学側で
は、奨学金だけでなく寮や食事の費用を負担し、仕事を紹介する準備もある」と、返事
をくれたのです。
  しかし、彼には二つの問題が残っていました。一つは、パスポートとビザ。
  パスポートを発行してもらうためには、政府公認の出生証明書を提出しなければなり
ません。しかし、レグソンは実の母親が誰なのか知りませんでした。レグソンはふたた
びペンをとり、子どもの頃自分に勉強を教えてくれた宣教師に手紙を書きました。
  宣教師は政府に掛け合って、パスポートを発行するように要請してくれました。
  もう一つ問題があり、それは、レグソンがまだアメリカに渡るだけの船賃を稼いでい
なかったことです。
  しかし、彼はカンパラで稼いだ最後のお金で、新しいクツを買ってしまいました。
  「このクツを履いて、いつか必ずスカジットバレー大学の門をくぐろう。」
 彼はカンパラから、カイロへ向かって出発しました。長くつらい旅は、いつしかレグ
ソンに頑丈な肉体と、何ものにも屈しない強い精神を授けていました。
 その頃、遠く離れたスカジットバレー大学では、大学に入学するため、無一文でアフ
リカ大陸を歩きつづけているレグソンのウワサでもちきりになっていました。
  彼の行動に感銘を受けたスカジットバレー大学の学生と地域の市民たちが寄付をつの
り、ハルツームに到着したレグソンのもとに、アメリカまでの旅費、650ドルが送ら
れてきたのです。
  まだであった事のない人々の優しさと温かさに心を打たれ、レグソンはその場にひざ
まずいて感謝の言葉をささやきました。
 1960年12月。2年間のつらく苦しいたびの末に、ようやくレグソンはスカジッ
トバレー大学の門をたたきました。2冊の本を誇らしげに抱え、新しいクツを履き、
堂々と門をくぐったレグソンは、世界一幸福な学生でした。
  レグソンは現在、ケンブリッジ大学の著名な政治学の教授になっています。彼は、自
分のあこがれていたリンカーンやブッカー・T・ワシントンと同じように、自分の運命
を自分の力で切り開いたのです。
 「環境が人をつくるのではありません。その人の考えが自分の環境をつくっていくの
です。」

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