百の理論よりも一の実践 矢沢永吉
★Story〜栄光への軌跡★
1997年8月16日、「ロックの王様」エルビス・プレスリーの命日に、記念行事が
イギリス、ロンドン市内のウェンブリー・スタジアムで行われました。8万人の観衆を
集めたこのイベントに、一人の日本人ロック歌手が登場したのです。
矢沢永吉、当時48歳。
「欧米のロックを日本に橋渡しした人間」としてヨーロッパに紹介されました。
最初は、「この日本人は誰だ」という目で見ていたイギリスのファンも、彼の歌を聞く
うちに次第に盛り上がりを見せました。最後は8万人の大観衆から万雷の拍手と声援が
起きた。
広島から単身上京してより二十九年、彼は誰も通ったことのない道を、一人で切り開
き、日本中にロックンロールを広めたその集大成と言ってもいいでしょう。
矢沢氏の存在をここまで押し上げたのは、激しいコンサート活動の実践以外にありませ
ん。
普通、歌手は自分の存在を知らせるために、テレビやマスコミなどのメディアをよく利
用します。
しかし、矢沢氏は、歌謡番組に出たりせず、自らの「足」で、全国を歌って回り、地道
に、かつ着実にファン層を拡大してゆきました。厳しい日程の中、毎回全力で歌いつづ
けて現在のステータスを築いて行ったのです。大都会も地方都市も関係ありませんでし
た。
「来てほしい」と言う町があれば、どこへでも飛んで行き、決して手抜きをしませんで
した。特に、圧巻だったのは二十七歳から三十歳にかけての四年間でした。
毎年150回、ステージに立って、シャウトしつづけていました。
この激しい活動が、多くのファンを生み出したのです。パワフルなステージに感銘を受
けた若者が、次々に「矢沢のコンサートへ行こうぜ」と友達によびかけ、人から人へ、
次々と彼の歌が広まり、会場に来る客が、一人、また一人と増加して、レコード売り上
げも、それに正比例して伸びていったのです。
1976年当初は千数百人程度だった会場が、1年間で1万人収容の日本武道館にな
り、1978年には、後楽園球場(現在の東京ドーム)に5万人の観衆を集めました。
そして、紫甚作の得意な曲、「時間よ止まれ」のメガヒットに加えこのコンサートの模
様を収めたレコードがヒットチャートで1位となり、長者番付でも芸能人のトップに躍
進、以後約20年間、つねにロック歌手の先陣を切っています。
50の大台を越えた今も、意欲は衰えず、相変わらずのハードスケジュールぶりを見せ
ているのです。
「身体が衰えてもテンションは変えない。老いたから落とすというのは嫌なんです。五
十でも六十でもカミソリみたいに切れて歌いたい」ともインタビューで語っています。
「自分が、まず、やりなよ、いろいろ能書きを垂れる前に」
「攻撃することが生きることだ。休むわけにはいかない、やらねばならぬことはたくさ
んある」
(矢沢永吉激論集『成りあがり』より)
彼は二十代最後に豪語しました。
そして今も「理論より実践」の精神で戦いつづけているのです。誰にも頼らず、人の何
倍もの努力で、汗を流して……。
0 件のコメント:
コメントを投稿