1.美しき土地・米沢
米沢の地を、「アジアのアルカデヤ(桃源郷)」と呼び、「美しさ、勤勉、安楽さに満ち
た魅惑的な地域」と形容したのは、明治初年に日本を旅したイギリスの女流探検家
イザベラ・バードであったが、その余韻は現在でも感じられる。
平地ではゆるやかな傾斜に沿って段差をつけた水田が広がり、山肌ではぶどうや
リンゴの栽培がなされている。土地の隅々まで丹精に手が入れられている。
土産物店をのぞいてみれば、米沢織り、米沢牛、リンゴ、ぶどう、さくらんぼ、鯉、ワ
イン、ジャム、彫り物、漆器、、、と、物産の豊かさには驚かされる。
鷹山公は常々、わが改革の成功は細井平洲先生の賜物であると言っていた。平
洲はそのほかにも紀州徳川家の松平頼淳、尾張藩の徳川宗睦、奥州白河藩主、
後の老中・松平定信などを心酔させ、さらにその著書「嚶鳴館遺草」は、我が国の
政治的理想を高く掲げて、明治維新の志士たちにも大きな影響を与えたのである。
2.辻講釈師から上杉家世子の賓師へ
江戸両国橋の近くで街頭に立って辻講釈をしている若い男がいた。歴史上の人
物や、孝子節婦の実話を述べ、さらに四書五経の真義を分かりやすく語って、学問
のない聴衆も聞き惚れている。細井平洲、30代の頃の事である。
学問とは今生きてる人々に役立つものでなければならないというのが、平洲の信
念であった。そのためには字の読めない人々にも「学問とはこんなにも面白いものか
」と興味を持たせるところから始めなければならない。辻講釈なら、聴衆はつまらな
ければければすぐに立ち去ってしまう。平洲は自らの学問を磨く真剣勝負の場とし
て辻講釈に臨んでいた。
次第に増えていく聴き手の中に、ある日一人の医者が混じっていた。米沢藩の藩医
・藁科松柏(わらしなしょうはく)であった。松柏はこの人こそ、米沢藩の世子・直丸
(治憲、後の鷹山)の学師たるべき人物だと見て、講釈を終えた平洲にすぐに弟子
入りをお願いした。平洲は「師匠などとんでもない、ただ学友としてなら喜んで」と
答えた。
松柏から話を聞いた米沢藩の江戸詰めの者たちは、翌日大挙して平洲の家を訪れ
、弟子入りをお願いした。やがて明和元(1764)年、藩主上杉重定からの直接の懇
請を受けて、平洲は14歳の直丸の賓師となった。そして江戸藩邸で平洲に弟子り
した者たちが、後の鷹山の改革の推進役として育っていく。
3.治者は民の父母でなければならない
明和4(1766)年、上杉治憲は17歳にして家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この
時上杉家の祖神春日神社に奉納した誓詞には、次の歌が添えられていた。
『受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』
「治者は民の父母でなければならない」とは、常々平洲が主張していたところであっ
た。平洲は言う。
「経済というのは、経世済民の略であります。経世というのは乱れた世を整えるという
ことです。済民というのは、苦しんでいる民を救うということであります。したがって
経済というのは単なる銭勘定ではなく、その背後に、民を愛する政治を行うという姿勢
がなければなりません。
治者は民の父母であるというのは、世の親のような気持ちになって政治を行ってほ
しいということであります。世の親は、子供が飢えていれば自分の食べる食事も差
し出します。また子が勉強したいのにもかかわらず資金が足りなければ、自分の生
活費を削ってでも子に学費を送ります。こういう愛が政治にも必要でしょう。」
「父母」という言葉には、平洲自身の体験がこもっている。平洲の両親は、尾張の国
(今の愛知県東海市)の農民であったが、彼の学問への志をかなえさせたいと、京
都や長崎にまで遊学に出してくれた、その愛情を平洲は深く胸に刻んでいたので
ある。そのように父母が子を思う愛情を抱いて、知者は経世済民の道を歩むべし、
と平洲は説いた。
4.町人や農民にも、女、子供にも
知者が徳と愛情を持って人民を治める、というのは、古代シナの聖賢の道でも言わ
れていたが、平洲が特に強調したのは、人を育てるということであった。人民とは為
政者に治められる愚民ではない。平洲は治者に父母としての愛情を求める一方、
人民の側にも子として学問の道にいそしみ、国家有用の人材となることを期待した。
そのために、平洲は学問の道に、身分制度や男女の差別などは認めなかった。辻
講釈で町人や女子供までを相手にするのは、こうした考えからであった。
鷹山は改革の大きな柱に「人作り」を据え、安永5(1776)年、「興譲館」という学校を
作った。9月に米沢入りした平洲は、興譲館での講義を求められて言った。
「私の講義は、武士だけでなく町人や農民にも聞かせたい。また、女、子供にも聞
かせたい。」
担当の役人は、農民、町人はともかく、女子供に先生の講義が分かるのだろうか、
と疑問に思った。しかしそれは杞憂だった。辻講釈で鍛えた平洲の話し方は平明だ
けではない。感情が入る。面白おかしい。聴いている方は、その度に笑ったり、涙
を流したりした。そして話を終わった後、聴衆の胸には一様に深い感動が残っていた。
5.熱心な者は誰を弟子にしても構わないはずです
領内の小松村に伝五郎という農民がいた。伝五郎は江戸にいた時に両国のほとり
で平洲の辻講釈を聞いて、深い感銘を受けた。平洲が米沢に来るとすぐに行って、
弟子入りを希望し、快く許された。
藩の武士たちは不満そうに言った。「先生は、藩の学校のためにこちらにおいでい
ただいたはずです。それをいきなり農民の弟子をとるとは何事ですか?」
学問に身分はありません。熱心な者は誰を弟子にしても構わないはずです。この
伝五郎君は、江戸時代から私の話を聞いてくれた学友です。
藩の武士は、恥ずかしさで顔を赤くして黙った。伝五郎は自分のことを「学友」と呼ん
でくれた平洲の温かく広い心に涙ぐんだ。
6.女房、嫁、娘、姑さんも呼んできなさい
町人や農民たちの向学心が強いのを見て、平洲は、城から離れた地方も回って、
話をした。友人にあてた手紙には、その情景を次のように描写している。
2月7日、8日、9日の3日間、小松村の本陣大竹という者の家で、昼と夜数百人
の農民たちに話をしました。いずれも落涙に咽び、老人たちはひとしお名残りを惜し
んでくれました。これから米沢に戻るというと、折しも降り出した雪の中に、村民七、
八百人が地の上に座って、ただ声を上げて泣きました。
この時には最初集まったのが男ばかりだったので、平洲は「男ばかり聞いてもだめだ。
女房、嫁、娘、姑さんも呼んできなさい」と言った。ひそかに期待していた女性たち
は、この言葉にどっと集まってきた。
平洲は後に他藩でも、同様の指導を行っている。たとえば、尾張藩では、わずか3
日間の巡村講話で十余万人もの聴衆を集め、講義テキスト古文孝経が飛ぶように
売れて、「尾張で売れるものは、古文孝経、水口屋、薬に小麦饅頭」という狂歌が
できたほどであった。この時代の農民、町人の向学心には頭が下がる思いがする。
7.新しい仕事にどんどん挑戦している
学問の面のみならず、生産活動の面でも、平洲の理想は、従来の身分制度を打
破し、人民が平等・自由に志を伸ばす所にあった。
鷹山の改革により、武士たちが荒れ地を開墾して新田を開いたり、橋の修復をし
たり、また武家の妻女たちも織物にいそしむなど、従来の武士階級のしきたりを離
れて、生産活動に従事するようになっていった。
これは平洲が著書「嚶鳴館遺草」で「藩士が用もないのに、お城にあがって雑談ば
かりしているのは、時間と能力の無駄で、かえって有能な人材を腐らせることになる
」と指摘した教えを、鷹山が実行したものである。
平洲は自分の教えが着実に実施に移され、藩の財政建て直しと人心一新に効果
を上げているのを見て、鷹山に向かって言った。
「これは明らかに、今まで世襲的に決められてきた士農工商の身分が、自発的に壊
されているということでございましょう。つまり、武士も自分の中に潜んでいる能力が
、農に向けば農に使い、山に向けば山で使いというように、それぞれ従来のしきた
りにこだわることなく、新しい仕事にどんどん挑戦しているということでございま
す。」
8.教育大国から明治の飛躍へ
平洲の思想と活動がいささかの寄与をなしたのであろう、江戸時代の日本は世界
でも群を抜いた教育大国となった。たとえば幕末頃の就学率は、江戸での70〜
86%に対して、同時期のイギリスの大工業都市では20〜25%に過ぎなかった。
このような高い教育水準は、産業の高度化に大きな威力を発揮する。日本は当時
の国際商品だった木綿、砂糖、生糸、茶の国内自給に成功し、弱肉強食の近代世
界システムから一線を画して、230年間におよぶ豊かで平和な時代を気づく事に
成功したのである。
「嚶鳴館遺草」は幕末の志士たちに大いに読まれた。明治日本建設に貢献した多
くの逸材を松下村塾で育てた吉田松陰は、「この書は経世済民の書であって、読
めば読むほどよい政治とはどのようなものであるかが分かる」といって、常に座右か
ら離さなかった。友人や弟子たちにも、「士たる者は、必ず読むべき書である」と勧
めた。
また一時期、沖永良部島に流されていた西郷隆盛が、この書に巡り会って感動し
、「敬天愛人」の思想を生んだ。そして「民を治める道は、この一巻で足りる」と言
って、この書を他人に勧めた。
維新後、明治政府はわずか数年の間に、四民平等、廃藩置県、学制発布と矢継
ぎ早に新制度を打ち出したが、これらが大きな混乱なく定着していったのも、平洲
の学問に代表されるような身分差別を乗り越える近代思想がすでに十分浸透して
いたからであろう。
明治日本の世界を驚かせた飛躍は、江戸時代に作られた確固たる跳躍台があっ
たからである。
9.人づくりを行う先生は、国家の名大工
農民町人から女子供にまで学問を説き、一方で武士階級にも生産活動への貢献を
求めるという平洲の思想は、神武天皇建国以来、人民を「おおみたから」として尊び
、「一つ屋根」のもとで仲良く暮らすことを理想とした皇室伝統を、「人づくり」
と「経世済民」の学をもって、近代社会の要請にあうよう発展させたものと言える。
肥後熊本藩藩主・細川重賢は藩校時習館を作り、平洲の親友秋山玉山を学長に
招いて「宝暦の改革」を進めた名君である。その重賢の言葉に次のようなものが
ある。
『人づくりを行う先生は、いわば国家の名大工さんだ。名大工さんは、人づくりを木づ
くりと考えることが必要だ。つまり、育てられる人間が何の木かと見抜いて、その人間
に見合った教育をしてほしい。
教育というのは、いわば学ぶ者の前に横たわっている川を渡る知恵と勇気と技術を
教えることだろう。川を渡れば素晴らしい人間の世の中がある。しかしそこへ行き着
くためには、やはり一人ひとりが苦労しなければならない。その苦労を助けてやる
のが教師だ。・・・学問は国政の基である。』
教育も国政も乱れゆく現代日本において、我が先人たちの「人づくり」にかけた志をも
う一度思い起こすべきであろう。
上杉治憲 (はるのり)号は鷹山(ようざん)。 1751〜1822 出羽国米沢藩主。
1760年(宝暦10)嫡子のなかった米沢藩主上杉重定の養子となり、元服に際して治
憲を名のり、67年(明和4)17歳で藩主に就任した。
藩主就任後、奉行職の竹俣当綱の助けをかりて、藩政改革に着手する。領内支配
のため副代官をもうけたり、漆・桑・楮の各100万本植立計画の実施、縮(ちぢみ)織
などの国産の奨励をおこなった。儒者細井平洲をまねき、1776年(安永5)には藩校
興譲館を創設している。
1785年(天明5)35歳で家督を治広にゆずったのちも、後見役となって、天明の飢饉
後の藩財政立て直しである寛政の改革を直接指導した。財政再建策によって鷹
山は、のちに江戸時代の名君のひとりとよばれるようになる。
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