2015年8月16日日曜日

No.096(世界一への準備- 小出義雄)

世界一への準備

真夜中、突如ひらめいて寝床を出る。何の変哲も無い、いつもの出来事だが、最近は
随分と回数が増えた。
しかし苦痛でも何でもない。
すでに還暦を越え、引退時期をも決断している男にとって、一人で好きな陸上を思うこ
とは無上の楽しみなのだ。
スタンドの明かりをつけ、枕元に置かれたメモノートとペンを手に取る。
びっしりと細かく、今思いついたばかりの練習メニューを書き込む夜もあれば、一句詠
む晩もある。
しかしテーマは常にひとつである。
「どうしたら勝てるのか、どうしたら金メダルが獲れるのか、寝ても覚めても頭ん中は
そればっかり。ああやって走ろうか、いや、こっちがいいぞ。もしかしたらあの練習が
いいかもしれんな、そうだ、あんな練習はどうだろうかなあ……、一日中いつだってこ
うやって考えてますよ。おかしいんだよ、かけっこ以外のことは覚えらんないくせに
さ。イカレちまってるんだな、頭ん中が」
スポーツ界で名将と呼ばれる人物の中で、小出義雄(積水化学監督、61歳)ほど、細
かなメモをつけるコーチはいないはずだ。
豪放磊落(らいらく)、でたらめなマラソン理論、思いつき練習、ただの酔っ払い、か
けっこバカ。
どれも自身で自らを表現した言葉に過ぎないのであって、実像はこれとはまるで正反
対の人物ではないだろうか。
最後の「かけっこバカ」を除いて。
繊細で神経質、答えから逆算される徹底した理論、筋肉の疲労までも計算し尽くし
た練習、そしてたとえ一滴も飲んでいなくとも相手に異変を気づかれないためならば
、酔ったフリをすることだってお手の物である。
バルセロナで銀、アトランタで銅と、五輪では有森裕子(リクルートAC)と2度のメダ
ルを獲り、97年、マラソンのルーツでもあるアテネで行なわれた世界陸上では鈴木
博美(積水化学)とついに世界の頂点に立つ金メダルを手にした。
しかしシドニー五輪で日本最高記録保持者・高橋尚子と狙うのは、メダルであるとか
少しでも上位にといった漠然とした目標ではない。
直径6cm、厚さ3mm、純金比率92.5%、シドニー・オペラハウスがモチーフとして描か
れている、今世紀最後の五輪における金メダルただ一つである。
金メダルと何度も公言することにメダル至上主義を言う声もあるかもしれない。しかし
それは大きな間違いだ。メダルの色に「獲る側」がこだわることは、単に強烈なまでの
向上心を示しているに過ぎず、名声や富、商売など、もしかすると彼らにとって単なる
付属品以下の存在かもしれない。
シドニーのコースを初めて訪れた5月18日、メモは新たなページから始まった。
金戦略の3箇条──それは小出が無数に持っている勝負の引き出しのほんのわずに
過ぎないが──をめくると……。

一、情報収集こそ水一滴の漏れも許すべからず
一滴の水も漏らしてはならぬという緊張感は、実際にはすでに20年にも及ぶ女子長
離選手の指導で学んだ成功と、失敗の引き出しから生まれたものである。
その一つに、独特のコース感覚とでも呼ぶべき分析力がある。どこがその選手にと
って本当の勝負所なのか、それを判断する点において過去一度の失敗もない。
なぜか。
徹底した情報収集のなせる業である。
「地形を見て、太陽の方向を見て、足を使う。ほら、農家の育ちだからね、知らない所
へ行っても自然にそうやって走るとこを把握しちゃうんだね。説明のしようはないよ
ねえ」勝負所、あるいは危険なところ、注意すべきポイントを知る。どの選手にとって
も重要な作業だが、過去2回の五輪で合計すれば十数回、執念とさえ言えるほど
の下見を行なって有森の頭と筋肉にコースを叩き込んでいる。
5月18日、高橋とともにシドニー五輪コースを初めて視察した日、空港から宿舎へ寄る
前にそのままコースの下見に出かけている。
まずは車からコースの全体像を把握する。この日は前半部分のみを見て回る。すでに
コーチ陣による下見の報告を得ていたが、小出は自らの時計を巧みに操りながら、
さらに1kmごとのポイントをマークした。
コース全体の印象を初めて報道陣に語っている間も、初めて見たコースのはずが
1.5km、あるいは10kmと何百メートル行ったところ、と実に細かなキロ表示をしながら
説明する。
42kmを1kmずつ覚える。選手と一緒に走るのはそのためである。その中で高橋の
動きを見る。
初下見で意外な話をしていた。高橋にこれまでの選手と違う才能があるとすれば、
走力ではなく特別な集中力だと言う。
「コースを見た後、カントク、ここは覚えるのがすごく難しい、五輪パークに出て行く
ところまで細かくて1kmのマークが頭に入りません、と言うんだ。でも最後にはしっか
り覚えている。それは勝負への執着心なんだ。
五輪というのは執念の世界だからね。あの子はコース図を書けますよ。情報収集
のスタートはまさにコースを叩き込むことです。シドニーに関して言えば、よほどしっ
かり覚えていないと勝負にならない」
コースの感想を聞かれた高橋が「走る」ではなく「覚える」という言葉を使って難しさ
を表現したことは、情報収集の作業を象徴するものであった。
そして、笑顔で報道陣に「景色も楽しめそうです」などと答えた姿は、1kmごとのマー
クと風景すべてをシドニー滞在6日間で頭に叩き込んで帰国しようという師弟の凄まじ
いまでの集中力を隠すオブラートに過ぎなかったのかもしれない。 前半コースを走破
した翌日から、今度は筋肉の疲労がどこにもっとも溜まったかのチェックが始まる。
小出は高橋の足を実際にマッサージしながら、どの個所にこれまでとは違う張りが
出るかなどを自ら調べる。この感覚が、今後3カ月のメニューを組み立てる上での
「核」になるからだ。それを見てからでなければ練習メニューは立てない、とも言っ
た。
メダルへのこうしたミクロを探るかのようなプロローグがノートに記されたのははるか
に20年も前、高橋尚子がまだ小学生の頃であった。有森の2つの五輪メダルも、鈴
木の世界陸上金メダルも、すべてそこから始まったといえる。
当時、進学校の千葉県立佐倉高校の教員。陸上部の指導者として最初に浮かんだ疑問、
それが女子選手の競技種目の少なさだった。
「みんなは無理というけれど、どう見たって女の子には長い距離が合っている。女
子マラソンがオリンピックで始まんないかと思っていたし、歴史が浅く誰も本気で着
手してない分、世界とだって戦えるのにとずっと待っていた」
小出にとって最初のマラソン選手、つまりは監督にとってもっとも重要な「引き出し」
を与えてくれたのは倉橋尚巳かもしれない。
まだ女子種目に3000mもなかった時代、周囲からも無謀だ、身体に悪い、女の子
にあんなことを、そして何よりも進学校としては陸上の練習時間が長くなることは決
して好まれなかった。素材にも練習量にも限界のある中で、女性の体調と競技力
がどう関係するかを知ろうとする。個人差がかなりあるが、男子と違って女子は練
習スケジュールを綿密に組み立てなくてはならないことが分かる。そうして少しずつ
距離を伸ばす。倉橋にマラソンを走ってみよう、と告げたときも、本人は尻込みをし、
周囲からも反対された。
しかし結果は完走。しかも素人と呼んでもいい高校2年の女の子の記録が'82年の
日本ランキング3位に入った。
「あの時代、何のサンプルもなかった時代に独学でああして走らせることができて味を
しめたし、勝つための戦略を覚えたね。あれを思うとね、有森にしても鈴木にしてもそ
して高橋にしても、ああいう優秀な選手たちにメダルを獲らせることなんてなんでもな
いんだ。ほんと楽なもんだよ」
決してオーバーな話ではない。
さて、1kmずつをマークし、さらには筋肉疲労の細部を把握し、表面が凸凹の悪路
の素材も丹念に調べ、情報収集は終了する。
「コースの把握はできた。あとは一番うるさい点、シューズの選択だ。そこだけは、俺
はうるさいからね」
裸足で長靴を履いて田んぼの中を走り、足がどう変化するのかを試したのも20年
前の経験である。
サンプルはいくらでも頭に入っている。本番までの下見は10回も行なうという。シュー
ズもこのコースで「10足」を試し、一番合うものを履かせると言い切った。

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