2015年8月15日土曜日

No.062(まず教師や親の自己改革から)

まず教師や親の自己改革から

 特に教師にありがちな,「自分を正しい者」の位置に置いて他の人の欠点を治し
てやろうとするあり方を,聖書では「罪」と言っております。「自分こそ罪深い者!変
わるべき者!」と気づいたその時から,驚くべき周りが変わり始め,空気まで変わっ
てくるようです。
「今こそ全ての教師が聖書に帰るべきだ」との溝上茂夫氏の次の言葉をかみしめて
歩みたいものです。
 『すぐれた芸術家は,聖書の中にある美を真実の美として認めている。これと同様
に,私たちは混沌とした教育界にあって,この聖書の中に永遠絶対なる真の教育学
を見いだすのである。そこには,永遠に教育者のお手本であるイエス・キリストがあ
るからである。またイエスの教授法はソクラテスもプラトンも,あるいは世界中の新し
い教授法の教師もはるかに及ばないところの最高の模範教授であるからである。
 また教育者は聖書にくることによって,真実の教育愛の源泉がどこにあるかを知
るばかりか,真の教育活動への新しい生命力を十分に与えられて,キリストに似た
教育者となるのである。どのような教育学にも,学ぼうとする師弟の全人格を改造し
,その霊眼を開き,教育を聖なる事業としてしまう偉大な力はないけれども,聖書に
はそれがあるのである。
 そして聖書の一句は,コメニュウスを遣わし,ペスタロッチを遣わし,フレーベルを
遣わし,トーマス・アーノルドを遣わし,サリバンを遣わし,全地球上から日々真実の
教育者を遣わしているのである。 教師や教授たちは,その研究室にプラトンを研究
し,ルソーを論じたりする。それらを読んで奮起したり,教育の聖者となった者が世界
中に果たして一人でもいただろうか。百万巻の教育書を読んだとしても,聖書の一
句を紐解かない者はおろか者である。聖書に聴くことなくして,いたずらに思索にふ
ける教師はわざわいである。実に,聖書の中には,驚くべき何千の教育学が秘め
られているのである。
 そして,永遠に教育の本質を教え,教育者を奮起させ,種々の教科教育法の細
かなところにまでも欠くことのない指導を与えるのである。おお,聖書こそ驚くべき
教育学であり,活きた学校なのである。』

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 98年2月号掲載>

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