2015年8月15日土曜日

No.056(アクセノフの物語)

アクセノフの物語


 今から百年ほど前のこと、ロシアのウラジミールという小さな町に、イワン
・アクセノフという若い商人が住んでいました。
 血色のいい陽気な男で、実直に商売をして稼ぐ合間には、好きなギターを弾
いて、歌を歌うのが何よりの楽しみでした。
 彼も世帯を持つまでは、元気な若者にありがちな酒飲みで、喧嘩騒ぎをした
こともありました。けれども妻を迎えてからは、店をかまえてひたすら稼業に
いそしんでいました。
 ある夏のことです。アクセノフは、例年のように首都の大市に出かけようと
しました。その朝、妻がいつになく、
 「あなた、今日発つのはおやめになって下さい」
 と心配そうに言いました。「わたしはイヤな夢を見たのです。あなたが旅か
ら非常にやつれて帰って来られた夢……。
 帽子を取ると、頭髪が霜を置いたように真っ白で、何も仕入れずにションボ
リ立っているじゃありませんか。ねェ、行かないで下さい。今朝は」。
 それを聞いて、アクセノフは笑い出しました。「なあんだ、つまらない。夢
なんか気にする奴があるか。大丈夫。お土産持って帰って来るから、待ってて
おくれ。気にするなよ」。
 そう言って、彼は出かけて行きました。
 途中、ニジニという町に近づいた頃、彼は知り合いの商人と出会いました。
二人はその夜、一緒の宿をとりました。
 アクセノフはすぐに休みました。隣部屋の商人も寝たようでした。
 翌朝、アクセノフは早くに目が覚めました。隣の客も起きているかな? ト
ントン、ドアを叩いてみました。何の応答もありません。
 「よく寝てると見えるワイ。行き先も違うことだし、起こして挨拶するまで
もあるまい。一足先に、涼しい早朝の内に出発しよう」。
 そういうわけで、アクセノフは早朝に出発しました。
 アクセノフは、一日路を馬車を走らせて次の町に着きました。宿をとり、宿
屋の前で涼んでいました。と、そこへ砂塵を巻き上げ地響きを立てて、三頭立
ての馬車が走り込んできました。
 何事が起こったのだろう? 町中の人々が飛び出して来ました。アクセノフ
が見ていると、バラバラと飛び降りた屈強な男たちが、盛んに何か聞き回って
います。
 と、アクセノフを見とめるや、やにわに彼の所に走ってきて、取り囲みまし
た。
 「おい、おまえは今朝、どこからやって来た?」
 「どこって……ニジニから来たが」
 「お前は商人と一緒だったろう」
 「よく知ってるな。しかし、それがどうした?」
 「どうしたも、こうしたもあるかッ。おい、我々は警察の者だ。お前を調べ
るぞ!」
 「おれを調べる? 一体、何を調べると言うのだ?」
 「黙れ! 調べればわかるんだ」と言うや、アクセノフのカバンをガバッと
開けました。すると中から、血がべっとりとついたナイフが飛び出て来まし
た。
 「おい! これは誰のだ?」
 アクセノフはびっくりしました。目を見開いたまま真っ青になって、ガタガ
タ震え出しました。「わ、わたしは知りません。これは私のものではありませ
ん」。
 「お前のものでない物が、どうしてお前のカバンに入っているのだ? それ
にこんなベラ棒な大金。一体、これはどうした?」
 「これは品物を仕入れるための資金です」
 「ウマイ事を言うな! あの商人を殺して盗んだのだろう。第一、一緒に泊
まりながら、なぜお前だけ、朝早く逃げるように発ったのか」。
 「い、いや、それは……」
 証拠は揃っています。弁解すればするほど状況は不利になり、アクセノフは
やがて裁判所に送られました。彼は、
 「私は殺さなかった」
 と必死に叫びましたが、その抗弁も通らず、ついに恐ろしいシベリアに無期
懲役ということになりました。
 「ああ、誰か一人でもいい、自分の無実を信じてくれる者はいないのか!」
 と呻き叫びました。
 いよいよシベリアに流刑される前夜、遠いウラジミールから妻がはるばる
と、生まれたばかりの乳飲み子をかかえて面会に来ました。面会時間は一〇分
間、言葉もなく二人は互いに目と目で見つめ合うばかりでした。
 誰も信じてくれないが、この妻だけは、オレの潔白を信じてくれていると
思っていました。しかし次の瞬間、妻の語った一つの言葉が、アクセノフを奈
落の底に突き落としました。
 「あなた、あなたは本当に人を殺したりしたの? ね、私にだけは真実を
おっしゃって」。
 「なにッ、オレに真実を言えだって? 本当のことを言っているじゃない
か。オレは殺していないんだ」
 「だって裁判では……」
 「裁判? ああ、お前までオレを信じないのか。お前まで、オレを疑うのか
?」
 アクセノフは、もう失神して倒れそうになりました。
 しかし、もっと倒れそうなのは、妻のほうでした。自分の夫が恐ろしい殺人
犯とは! わが子の父親が殺人犯とは! この鎖につながれ、囚人服にやつれ
て変わり果てている男が自分の夫とは、とても信じられません。
 やがて看守にせき立てられ、よろめくように去っていく妻の後ろ姿、その姿
を見送りながらアクセノフは、
 「ああ、最愛の妻でさえ、オレを信じてくれない。広い世間にただ一人だけ
でよい、妻だけでよい、真実を知ってくれる者があるならば、オレはどんな辛
い懲役でも、きっと働き通して帰ってくる。しかしその妻が……。
 ああ、この義憤を天に向かってぶちまけようか。地に向かってぶちまけよう
か! あの可愛いわが子が、二十年、三十年経って成人したとき、何と思って
苦しむだろう? わが子にだけは真実を伝えたいものを。それさえもできない
のか」
 アクセノフはわめき、泣き続け、冷たい獄の床板の上をはいずりまわってい
ました。彼の内なる良心は、人生の矛盾、この世の矛盾に対して義憤をぶちま
けていました。
 やがて、獄の窓から朝のかすかな光が射し込んできました。今日はシベリア
に流される日、もう涙も枯れ果てて、彼はただボンヤリ壁にもたれて光を見つ
めていました。
 と、突然、閃くようにも、囁くようにも、彼に一つの言葉が心の中に迫って
来るのを覚えました。いわく、
 「神は何もかもご存じである!」(ヨハネ1  3:20)。
 神は何もかもご存じである、すべてを知っておられる。誰が知ってくれなく
ても、妻が、子が、友人が、知ってくれなくても、神がすべてを知っておられ
る。
 初めは、かぼそく響いて来たこの囁きも、共鳴に共鳴を生んで、アクセノフ
の心の中に怒濤のような光となり、音となり、生命の嵐となって広がっていき
ました。「神は何もかもご存じである!」


神は何もかも
ご存じである

 これはアクセノフにとって、天が開かれる経験でした。良心や道徳によって
は決して得られない経験、天の声を聞く経験です。
 「神様、そうです。あなただけはご存じです。人は知ってくれません。しか
し、あなただけは真実を知っていて下さるのですね!」
 アクセノフは叫びました。神がすべてを知っておられるお方であるというこ
と、これはある時には私たちにとって非常な慰めとなります。
 私たちもときに、人からあらぬ誤解を受けたり、有ること無いことを言われ
て中傷されたりすることがないでしょうか。
 私の尊敬するある牧師は、以前、人から有ること無いことを言われまして、
その立場から追われたことがあります。それは、その牧師をよく思っていない
ある人が、ありもしないことをあちこちに言いふらして、そのためにその牧師
は立場を失ってしまったのです。
 しかし、その牧師は本当に天が開かれた人でした。この前私がお会いする
と、素晴らしくにこやかで、いつでも誰にでも優しい。
 そういう苦難を乗り越えて、天の光をまぶしいくらいに浴びたからですね。
だから、彼の回りには、彼を慕ってついて来る人が絶えません。
 私はこういう天が開かれる経験が、どんなに人を豊かにするだろうかと思い
ます。それは良心や道徳だけで生きてきた人とは違います。
 良心や道徳だけで生きていると、人はとかく他人を裁くようになります。
「ああすべきだ。こうすべきだ」ということばかり頭にあると、「ああ、あの
人はあの点で間違っている」「あの人はだめだ」「この人はだめだ」と言うよ
うになります。
 しかしいったん天の世界が魂に開かれますと、人をさばいたり、恨んだりと
いうことが自然となくなってしまうのです。
 私も、「神は何もかもご存じである」ということを知って、どんなに力を与
えられたか知れません。この世では、人から悪く思われることもあります。
 正当な評価を受けないこともあります。しかし、神はすべてをご存じであ
る。いったん魂に天が開かれ、天の光に照らされますと、
 「ああ、今まで人の評判ばかり気にしていた自分は一体何だったのだろう。
大切なのは、そんなことではないではないか。大切なのは、人がよく思うか悪
く思うかではない。神様が喜んで下さるか否かではないか」
 とわかってくるのです。みなさんの中にも、人から誤解を受けたことや、故
なきいじめを受けたこと、中傷を受けた経験のある方などがいらっしゃると思
います。しかし、誰に知られなくても、神はすべてをご存じなのです。
 アクセノフの話に戻りましょう。アクセノフは、「神は何もかもご存じであ
る」という天の声を聞いてからというもの、もう誰をも恨まなくなりました。
 一生を日の目を見ない陰惨な殺伐たるシベリアの寒い荒野で生涯を閉じなけ
ればならない運命に対しても、恨み事を言いませんでした。
 「神は何もかもご存じである!」
 こう独り言を言っては、彼は床の上で毎夜祈るのでした。
 それから、いつしか二六年の長い年月が経ちました。彼はもう六〇の坂を過
ぎていました。
 若いときのつやつやとした髪の色は、霜を置いたように真っ白くなり、頬髭
も灰色に長く垂れ下がっていました。しかし二六年間の苦しい陰惨な殺伐たる
囚人生活、極悪きわまる犯罪者たちと共に鉱山で毎日重労働をさせられ、地獄
のような境遇でした。
 しかし、「神は何もかもご存じである」と言って、彼が人を恨まず、世を呪
わず、ただ神に祈る人となりますと、彼の風貌も変わってきました。
 彼の姿を見ると、人は神々しい聖者の姿を連想しました。囚人仲間では「聖
者」または「おじいさん」とあだ名されて親しまれました。
 囚人仲間のいざこざも、彼が仲裁すると、おのずから皆が黙って服従するほ
ど、尊敬されていました。
 彼は、苦役によって得たわずかの金で『殉教者伝』という本を買い、ひまさ
えあれば、それを読んでいました。また、彼の最大の慰めは聖書を、わけても
福音書を読むことでした。
 監獄の中にある会堂で讃美歌を歌うときは、大変愉しそうでした。彼が歌う
その声は、若い時と同様に朗々として、若々しく澄んでいました。聞き入る荒
くれ男たちの心も清らかに洗い流されるのでした。


流刑されてきた
真犯人

 ところで、ある日のこと、ドヤドヤと新しく囚人たちが送り込まれてきまし
た。古くからいる囚人たちは、彼らを取り巻いてどこから来た、何の罪で送ら
れてきたと、根掘り葉掘り聞くのでした。
 その新入りの囚人の中に、六〇くらいの、ゴマ塩頭の角張った顔をした男が
いました。
 「おい、お前は何をやってんだ?」
 荒くれ男たちがニヤニヤ笑いながら聞きました。
 「オレはな、実につまらねぇ目に合ったのさ。盗みもしない馬を、みんなで
寄ってたかって、オレが盗んだことにされちまったのさ。それでシベリア送り
とは、ひでぇこった」。
 「するってぇと、お前さん、無実の罪だって言いたいわけか?」
 「まあ、この罪に関しては無実だ。ただオレはな、もう二六年前になるか
な、ちょっと悪いことをしてな、当たり前なら、その時ここに送られるはず
だったんだが、うまい具合にのがれた。
 ところが今度は、盗みもしねぇのに捕まって、こうやって送られてくるなん
て、考えてみりゃ、運命って分からねぇものよ」
 「ところでお前はどこから来た?」
 「オレか。ウラジミールだよ」
 そのとき、隅っこで一人静かに聖書を読んでいたアクセノフは、キッとなり
ました。ウラジミール? 彼にとっては寝ても覚めても忘れることのできない
故郷の町です。彼は、はじかれたように叫びました。
 「お前は、ウラジミールから来たのか! 名前は何という?」
 「マカール・セミヨニッチだ」。
 「マカール・セミヨニッチ? ところで、お前はあの町のイワン・アクセノ
フの家を知っているか?」
 「ああ、よく知っているよ。あれは二六年前だった。奴め、人殺しをやって
な。それでシベリア送りになった……。じいさん、お前さんは、奴のことを
知ってるのかい?」
 「い、いや、そういうわけではないが……。で、アクセノフの家はそのあと
どうなったんだ?」
 「それが、おかみさんが、なかなかしっかり者でよ。その後、立派に店を
張っていた。長い間、行方も知らず、シベリア送りとなった旦那の帰りを待つ
と言って、後家サンを通しておったが、今年の春、ある立派な男と再婚した。
仲むつまじい夫婦でね」
 「なに! 再婚した?」
 「それに息子というのも、しっかり者でな。昨年、嫁さんをもらい、おっ母
さんを助けて立派に店をやってるわい」。
 長い間、アクセノフが夢にまで見続けてきた故郷、そのわが妻子の様子——
わかってしまうことは、嬉しくもあり、また辛いことでもありました。
 「もう少し聞くが、で、そのあと、アクセノフが無実だったという噂は、立
たなかったのか?」
 「立つもんかね。証拠の品がカバンから出てきたじゃないか。また朝早く出
発しているし、身分不相応の大金を持っていた。これだけ証拠がそろえば、仕
方があるめぇ。そりゃオレがアクセノフのカバンの中にナイフを投げ込んでお
いたとしてもだ。そこまでは裁判官にゃあ分かるめぇ」。
 そういってその男はニヤリと笑いました。アクセノフはすべてを聞いたので
す。あのときの犯人は、こいつだ! それを知り、それを思うと、彼の体中の
全血液が逆流して、全身がワナワナと震えてきたのです。


心の試練

 「神は何もかもご存じである」と天の声を聞いて以来、誰をも恨まずにやっ
てきたアクセノフです。しかし、ここに試練の時、彼を試みる時がやってきま
した。
 神は、私たちをさらに高い段階に進ませるために、ときに試練をお与えにな
ることがあります。私たちの魂を揺り動かして、テストをなさるのです。
 しかし試練は、私たちがそれを乗り越えるとき、力になります。
 二六年前、自分が無実の罪でシベリヤ送りになったときのあの事件の真犯人
に、アクセノフは対面しました。以来、あの祈り深かったアクセノフ、聖者と
言われた彼でしたが、どうしても祈れなくなってしまいました。
 「あいつだ、あいつだ」
 そう思うと、今までの清い信仰もガタガタと崩れ去っていくのを感じまし
た。もう祈れなくなってしまった。一体これはどうしたことだろうか。
 畜生、何もかもあの男のためだ! いや、そんなことは思ってはいけない
——思い直して祈ろうとします。しかし、いらいらと燃え上がってくる憤怒
は、抑えるすべもありませんでした。
 私たちにも、そういう経験はないでしょうか。その当人と会わないうちは、
平静にしていられる。しかし、会うと、心が乱されて仕方がない。
 祈ろうとしても祈れない。けれども、私たちが本物になるためには、もう一
度天が開かれて、さらに高い段階に進ませられる必要があるのです。
 試練にあっても動じない信仰になるとき、その信仰は本物です。その本物の
信仰に進むためには、私たちは何度でも天が開かれる経験を持つ必要がありま
す。
 サウロ、すなわちパウロも、一度天が開かれる経験を持ちましたが、そのあ
と彼は、
 「三日のあいだ目が見えず、また飲み食いもしなかった」(九)
 と記されています。またクリスチャンになってからは、今度はユダヤ教徒た
ちから迫害される立場になります。迫害していた立場から迫害される立場にな
る。
 彼はクリスチャンになってから、数多くの試練に会ったと言っています。夜
も眠れないことがしばしばであったと。しかし、そういう中で、ますます天が
開かれ、天の光を浴びて、喜びに生きるようになるのです。
 一〇節以降を見ますと、このサウロのもとに、アナニヤが遣わされていま
す。アナニヤは、サウロがクリスチャンに対する大迫害者であることを聞いて
知っていました。
 アナニヤの友人も、何人もサウロの手にかかってひどい目にあっていまし
た。アナニヤにとって、サウロは最も憎らしい相手、最も会いたくない相手で
す。
 しかし、神の命令によってアナニヤはサウロのもとに行って、サウロに会い
ます。最も会いたくない相手に会う。
 アクセノフも、自分が最も会いたくない相手に会わされました。しかし、神
はこれによってアクセノフの心を、さらに引き上げようとなさったのです。
 また真犯人の心が開かれ、真犯人の魂に天が開かれる必要もありました。そ
のためにも、こういう引き合わせがあった。
 私たちが試練にあったら、それは私たちの魂に天が開かれるための神の配慮
だと思うとよいのです。そうでもしないと、私たちの魂はにぶくて、天の光を
感じ取らないからです。


ついに真実が

 さて、二週間ほど経った夜中でした。アクセノフは模範囚ですから、どこを
歩いてもよい。彼はその夜、どうしても眠れないで、獄の中を歩いていまし
た。
 すると、ある一カ所で土が掘られているのを発見しました。
 「はてな?」
 と、突然、アクセノフの腕をガッとつかんだ者がいました。
 「オレだ。マカールだ。わかってるだろうな。おいッ、黙っていたら今にお
前も逃がしてやる。だが、バラしたら生かしちゃおかねぇぞ」。
 マカールは脱獄の準備をしていたのです。アクセノフは彼をじっと睨み据え
ました。アクセノフはワナワナと怒りにふるえてきました。
 「マカール、わしを生かしておかぬだと? 今さら、何を言うんだ。お前
は、今さらわしを殺さずとも、とうの昔、わしを殺したも同様の目に会わし
おったではないか」。
 暗闇の中でマカールの顔が鈍くゆがんで笑いました。「おぼえがあるさ。し
かし、オレが自白でもしない限り、今さらどうにもなるめぇ。アクセノフ! 
とにかく今夜のことは黙っているのが身のためだぞ」。
 「わしが言うか言わぬか、それは神様の御心次第だ」。
 「なに、神様の御心次第? フン!」嘲り笑う含み声を残して、マカールは
夜霧に消えていきました。
 翌日になって、けたたましく非常召集がかかりました。脱獄の穴が発見され
たからです。全囚人が並ばされ、一人一人「お前か?」と言って、厳しい尋問
を受けました。しかし皆が「知らない」と言います。
 最後にアクセノフ、この人は脱獄など到底する人ではないとは思うものの、
看守長は念のため尋ねました。
 「アクセノフさん、あんたは知ってなさるか?」
 黙って答えません。「知っていなさるのか?」
 「ハイ、知っています」。
 「なにッ、知っている? 誰だッ」
 アクセノフはマカールの方をチラッと見ました。一言、「マカール」と言え
ば、彼はその場で銃殺されます。そうすれば自分が手をかけずとも、今復讐で
きるのです。なにを躊躇する必要があるでしょう。
 「アクセノフ、言え!」
 二六年の死の恨みを今こそ晴らせるというのに、アクセノフは悩みました。
沈黙が続きました。やがて彼は重々しく言いました。
 「申し上げられません」。
 「なんだとッ」。
 「なぜって……私もわからない。神様が言うな、とおっしゃる」。

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