神とともにあったチャンピオン ジャック・デンプシー
恥ずかしかった貧乏
ジャック・デンプシー(1895〜1983)は、1919年から1926年までボクシング
のヘビー級世界チャンピオンを保持した。
デンプシーがプロ・ボクサーになったのは、貧乏がどうにもはずかしかったからでし
た。父親はのんきな性分でヴァイオリンを弾くのが好きで、いつもあちこち歩き回っ
ては何か金儲けのチャンスが転がり込みはしないか、と待っているような男でした。
ある時、ジャック・デンプシーの母親は、ジャックをつれてデンバー行きの列車に
乗ったのでした。子どもはただでのせてくれるだろうと思っていたところ、ジャック
はその時、もう8歳だったため、車掌は半額払わなければ子どもは降ろす、と言って
聞かなかったわけです。
母親は「私はこの通り病気の身体だし、お金は持っておりません」といって頼むので
すが、車掌は「乗車賃をださなければ乗せるわけにはいかん」といって承知しませ
ん。途方に暮れて母親はさめざめと泣き出しました。
すると通路の向こう側の席にいたカウボーイがジャックを呼び寄せ、小声でささやい
たのでした。「坊や、いざとなったらおれが払ってやる。心配するなとママに言え」
その時、「お金がないと実に恥ずかしい目に遭うものだ」、とデンプシーは思ったの
でした。「そこでぼくは固く決心したのです。大人になったらけっして汽車から降り
ろなんて言わせないぞ、絶対に恥をかくことはしないぞ。母親に人前で泣かれたのが
実に恥ずかしかったのです。ぼくはその時その場で決心しました。強いボクサーに
なって金を儲けよう。いつかあのカウボーイのような金持ちになろう」と。
必ず神に祈りを捧げて
デンプシーがボクシングを習いだしたのは12歳の時。使い古した鶏舎に手をいれた
だけのジム、床にはマットレスの古物を敷く。パンチング・バックは砂とおが屑を詰
めて自分でこしらえたものを使っていた。そしていつも松脂(ロージン)入りのガム
を噛んで顎(あご)の筋肉を鍛えていました。
その後、ジェス・ウリラードをノック・アウトしてヘビー級世界チャンピオンになっ
たのが、1919年7月4日のことでした。
しかし、ジャック・デンプシーが一生の中で、もっとも苦しい絶望の時はジェス・ウ
リラードを破ってヘビー級タイトルを取った直後のことでした。
そう、ジャック・デンプシーは「 目標に向かって頑張っている時のほうが成功した
時より楽しい 」という事実を知るようになるのです。
チャンピオンになったとたん、デンプシーの生活は変わってしまった。
あっ、という間にまったく予想もしていなかった世界に入り込んでしまったのです。
デンプシーは新聞記者やカメラマンに追い回され、セールスマン、サインをもとめる
人々、金を貸してくれとたのむ古い友人までもが集まってくるようになったでした。
新聞社や雑誌社からは原稿依頼が舞い込み、舞台への出演依頼や講演の依頼、
宣伝に名前を貸してくれというものや慈善事業への募金を後援してというものまで
ありました。
ハリウッドからは映画出演のはなしもあり、英米二カ国の上流社会からも招待され
る。招待されて出かけると歓迎の辞がデンプシーにはちんぷんかんぷんでわからな
い。いろいろ質問されてもまともに答えられない。
ジャック・デンプシーは語っています「 なにしろ、ぼくは子どもの頃から勉強が
さっぱり面白くないので、ろくな教育も受けませんでした。だからそんな教育のある
連中のいうことがてんでわからなかったのです。」
年中人につけ回され、いらない重荷をいつも背負い込んで疲れきっていたのかもしれ
ません。
こんなエピソードまであります。イギリスの王妃メアリーから名誉にもバッキンガム
宮殿へ出頭せよと下命があったのですが、デンプシーは病気のため参上できませんと
返事をしています。およそバッキンガム宮殿へよばれて断ったのはデンプシーぐらい
のものでしょう。もっとも身体の調子も事実よくなかったようなのですが。
デンプシーは1926年、ジーン・タニーに破れてタイトルを失い、その後もう一度
タニーに挑戦して破れ1928年に引退しています。
試合に備えてトレーニングをしている時、デンプシーは1日に5、6回は必ず神に祈
りを捧げていました。試合開始のベルがなる直前にも必ず祈りを捧げるのを忘れませ
んでした。祈りを捧げると自信がつき、勇気が湧いて試合に望めたのでした。
「 ぼくは寝る前と食事の前に、一度もお祈りを欠かしたことがありません 」と、デ
ンプシーは言っています。
「 祈りが叶ったことが何千回もありますし、祈りを捧げて何もご利益のなかったこ
とは生まれてから一度もありません。」
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