産業行動研究所の小野浩三氏が伝える、ロジャー・バニスターというイギリスの中距
離ランナーの話をご紹介します。(『精神開発の技法』ダイヤモンド社刊)
バニスターは、陸上競技の一マイル競争で初めて4分を切ったランナーですが、彼が
その記録を達成するまでの話です。
1923年、天才ランナーと言われたフィンランドのヌルミ選手が、一マイルを4分
10秒で走り、それまで37年間誰にも破られずにいた記録を2秒更新しました。
当時としては本当に驚異的な記録でした。
もうこれ以上の記録は人間には出せないだろうと専門家は断言し、新聞もそう書き
立て、やがてそれが「世界の常識」になりました。
昨年、世紀の変り目ということでライフ誌が「ミレニアムを作った重要人物100
人」というリストを公表しました。
1位はトーマス・エジソン、2位はクリストファー・コロンブス、3位はマルチン・
ルターと誰でも知っている名前が並んでいます。
日本からは葛飾北斎が 86位にランクされています。
この中に陸上競技選手でただ一人選ばれたのが、92位のロジャー・バニスターで、
ネルソン・マンデラ と トルストイの間にその名を見つけることができます。
一般の人には無名とも思われるロジャー・バニスターが重要人物100人に選ばれた
ことの本質は何だったのでしょうか?
ヘルシンキ・オリンピック代表で、オックスフォード大学医学部を卒業したばかりの
ロジャー・バニスターは1954年5月6日に2人のチーム・メイトをペースメー
カーにして1マイルを3分59秒4で駆け抜け、31年間誰も破ることの出来なか
った記録を突破しました。
ライフ誌は次のように書いています。
「極めて遠い将来まで多分永遠に、ヒトは1マイルを4分以内で走ることはできな
いだろうと考えられていた。それは途方もない壁だった。(中略)なぜ、人々がその
ような実際には存在しない壁があるがごとく暗示をかけられていたのかはわからな
い。しかし、バニスターがそれを達成した時、夢は勢いをえ人間の潜在能力は突
如無限のものとなった。バニスターは我々に人間の可能性という概念を疑わせ、定
義させなおしたのだった。」
当時の世界記録はヌルミ選手が1923年に出した4分10秒3。そしてこの記録が
樹立されて以来、「ヌルミの記録はいつかは破られるかも知れないが、4分を切るこ
とは医学的に考えられない」といわれていました。
事実それから31年間、ヌルミの記録を破る選手は現れなかったのです。
31年間ヌルミにまさるランナーがいなかったのでしょうか。
そうではないと現在では考えられています。
なぜならバニスターは世界記録を樹立しましたが、その記録は当該年度のなんと第2
4位に終わってしまったのです。
つまり、同じ年に23人のランナーがバニスターの記録を破ったからです。一体それ
までの31年間は何だったのでしょうか。31年もの間記録が破られなかったので
す。1954年に突如24人の名ランナーが現れたのでしょうか。いやそうであるは
ずがありません。
バニスターは「不可能を可能にした」のですが、それはバニスターにとってというよ
りも人類にとってであったのです。このことは陸上競技界やスポーツ界だけでなく
さまざま分野に影響を与えました。
バニスターはこう考えました。多くの人たちは困難な問題に挑戦するにあたって、
最初からぜったい無理だと決めてかかっている。これでは実際に記録を破る力が
あっても、力を出し切れないまま失敗してしまう。バニスターは「世界の常識」に
疑問を抱くとともに、猛烈な練習を重ねた結果ついに世界新記録を樹立しました。
●実力を発揮するには
バニスターは、あなたの記録は科学的練習の成果かとたずねられるたびに「いい
え、私の記録は私の精神の所産です」と答えたそうです。彼は否定的な意識を
持っていては、困難は乗り切れないことを誰よりも知っていたのです。
さらに興味深いことは、バニスターがこの記録を出してからは、一マイル4分を切る
選手が続々と現われたことです。30年間だれもできなかったことが急にできるは
ずはありませんから、4分を切る力はすでに多くの選手に備わっていたのです。
ただその中にあって「きっとやれる」ことをもっとも強く信じたのがバニスターだっ
たと言えます。
このように本番のときに持っている実力が出せないで終わる、こんな残念なこと
はありません。上がってしまったり緊張しすぎてしまって、練習のときには何でも
なかったことにつまずくというのもよくあることです。考えすぎたり、「うまくいく
だろうか、失敗したらどうしょう」といった不安が、いつもの自然な調子を乱してし
まうのでしょう。
小野氏は前掲の本の中で、
「否定的意識はマイナスの方向に人間行動を制御する。……すなわち、それによっ
て、本来出るべき力(潜在力)が出なくなるような状況が生じてしまう。否定的意
識が脳中枢に抑制を生じさせ、そのため力の発揮が困難になる。これが内制止(イン
ターナル・インヒビション)と呼ばれる現象である」と指摘しています。無謀な自信
家では困りますが、いわば「落ち着いた、静かな自分への信頼:自信」は、実力発揮
のためには欠かせないようです。
●使わずじまいの可能性
バニスター選手の場合は世界記録というたいへん大きな話でしたが、問題の本質は
だれにとっても同じです。
アメリカの哲学者であり、心理学者でもあったウィリアム・ジェームズによると、
「人間はみんな本気で生きているように思っていても、たいていの人は自分の潜
在能力の25パーセントぐらいしか使っていない」
つまり、残りの75パーセントは一生使わずじまいだということです。この数字の細
かい正確さはともかく、一般に私たちは、自分の中に使われないで眠ったままに
なっている力がたくさんあることに、まだまだ気づいていないのは確かなようです。
そうした力を生かすことの大切さは、別に仕事に限った話ではありません。今まで以
上に細やかな心づかいや思いやりの心で人に接することができれば、よりいっそう
円満で気持ちのよい人間関係が、もっとたくさん生まれてくるでしょう。
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