2015年8月16日日曜日

No.132(聖書を読むきっかけ - ある人の告白)

聖書を読むきっかけ(ある人の告白)

高校生のとき、現代国語の授業の中で、矢内原忠雄という戦前・戦後を通じて活躍し
た経済学者、聖書研究者のことを知りました。矢内原は、新渡戸稲造が国際連盟事務
局次長に転出した後を受けて東京帝国大学の助教授、教授となりましたが、信仰のゆ
えに戦争への協力を拒んで帝大を追われ、以後終戦まで伝道者として活躍しました。
その活動も軍部・警察によって著しく圧迫されました。戦後、5度懇請されて大学に
復職、以後、経済学部教授として現在の国際経済論の講座を開き、教養学部長、
経済学部長、総長として、東大の再建に尽力しました。
わたしは、戦時中の彼の生き方、特に軍部や政府に逆らってまで自らの信念を貫く強
さ、しかも、歯を食いしばって強がるのではなく、歓びながら所信を貫く彼の「不思
議な強さ」に強く惹かれ、彼が一生涯、そのあゆみの基盤とした聖書に興味を持つよ
うになりました。
彼の同僚であり、社会主義者・無神論者であった大内兵衛は、矢内原を始めとする聖
書読者について、次のように述べています。
『東大につとめるようになってから、私はたびたびいろいろの事件を起こしたり、
また関係したりした。(註1)
そしてそのたびごとに、多くの同僚のうち何人かがマゼものの入っていない本当の人
間であるかについて、分別を試みなくてはならぬ立場におかれた。済々たる多士のう
ち、最上級の品質として私がよく出したものに、法学部に田中耕太郎、南原繁、高木
八尺があり、経済学部に矢内原忠雄、江原万里があった。
この人々はいずれも私より年少であったけれども、そのバック・ボーンが私自身の何
倍も強かった。
私は彼等の骨を私の支柱としつつ、その強さがどこから来るのかをいぶかった。多年
の分析と分別によって、彼らのヴァイタリチーまたはヴィタミンは、彼らが若かった
ときに、内村という男(註2)が彼らに注ぎこんだものであることを、私は遂に発見
した。
わたしが心を惹かれたのも、聖書を読む人間の、この不思議な「骨」でした。』



註1 社会主義経済学者であった大内は、戦前戦中の思想弾圧により、何度か大
学追放や検挙などの難を受けた。
註2 明治・大正期を代表するキリスト者・内村鑑三のこと

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