1962年、ディックとジュディの間に男の子が生まれました。ところが1時間たって
も2時間たっても、ふたりは赤ちゃんに会わせてもらえません。
しばらくすると医師がディックとジュディのところにやってきて、ふたりを人気のない
病院のロビーに連れて行くと、こう言いました。
「残念ながら、息子さんは脳性小児麻痺で全身が麻痺しています。普通の社会生活、普
通の教育に適応できない体で生まれてしまったのです。多分一生を植物人間として送る
ことになるでしょう。どうでしょうか?専門施設に入れ、介護してもらってみては」
あまりの医師の言葉に、ジュディは思わず息を呑みました。
「ゆっくり考えてみて下さい」
医師はそう言って病院のロビーから立ち去りました。
ジュディが目に涙を浮かべて夫のディックの方を見ると、ジュディにこういったので
す。
「あくまで、医者が言った言葉でしかないよ、ジュディ。彼は私達の息子の親じゃない
んだ」
ジュディは、ディックの顔を身ながら深くうなずきました。ふたりは、医師のアドバイ
スを聞かなかったことにして、息子のリックを抱いてマサチューセッツの北にある我が
家へ帰っていきました。
ディックは、健やかな寝息を立てて眠るリックを、用意しておいたベビーベッドにそっ
と寝かしつけてつぶやきました。
「リック・ホイト、君の障害を克服することは、パパとママにとっては、決して乗り越
えられないカベでも、敗れないバリアでもない。単なるチャレンジでしかないんだ
よ。」
ディックは、息子にふつうの子供たちと変わらない生活をさせようと決心したのです。
ものごころがついたリックに、唯一できるコミュニケーションの方法は、頭を振ること
だけでした。頭を前後に振れば Yes 、横に振れば No 。 リックに表現できるのはこれ
だけです。小児麻痺の専門家は、リックはぜったいに話せないだろうと言いました。
それでもディックとジュディは、
「リックは必ず話せるようになるわ」
「何か、リックが話をできる方法があるはずだ」
そう信じて、少しも疑っていなかったのです。
あるときふたりは、ボストンのタフツ大学研究チームが、話のできない全身麻酔症の患
者でも正確にコミュニケーションが取れるようになる装置を研究していると聞きまし
た。それは文字や数字の書いてあるリールを電気で回転させて使う装置だそうです
ディックとジュディは、
「一日も早く、この装置が開発されて私たちが息子と楽しく会話できるように」
そうメッセージをそえて、大学に5000ドルを寄付しました。
リックが12歳になった時、コミュニケーション装置は実用化の最終段階のテストを迎
え、ディックとジュディは、息子と共にタフツ大学へ招かれました。タフツ大学のエン
ジニア、そしてディックとジュディは、装置をつけたリックを囲み、胸をワクワクさせ
ながら、彼から何か言葉が発せられるのを待ちました。
リックは、頭を使ってスイッチにふれ、「Go Bruins!(行け乱暴者)」 と文
字を打ち出しました。
リックの抜群のユーモアに、その場に張り詰めていた緊張の糸がプッツンと切れて、全
員が大笑いしました。
専門家から不可能と言われても、ディックとジュディは信じていました。
「リックはきっと話ができる。誰とでもコミュニケーションが取れるようになる。」
そのことを、リック自身が証明してくれたのです。ディックとジュディは、コミュニ
ケーション装置を通して、リックがふつうの少年と同じような行動力やチャレンジ精神
を持っていること、そして、学校へ行きたがっていることも理解で来たのです。
ディックは、リックの入学してもらおうと地元の学校に掛け合いました、しかし学校
は、リックが自分一人出歩いたり、食べたり、話したりすることができないという理由
で入学を拒みました。
それでもリックはあきらめず、14歳になると、自分のコミュニケーション装置を使っ
て話す能力が、同じ年頃の少年たちと同じレベルであることを、学校側に認めさせまし
た。
又、天もリックに味方をしました。その年、すべての子供たちが平等に学校教育を受け
る権利を義務づけた、全障害児教育法が制定されたのです。
リックはヘルパーが手助けをすることを条件に、高校に入学しました。
1977年、高校生になったばかりの16歳のリックは、交通事故にあった大学生が、
8㌔のロードレースに出場したことを聞いて、うちに帰ってきました。リックはコミュ
ニケーション装置を使って、父のディックに言いました。
「パパ、ぼくもレースに出てみたいよ。」
ディックはとっさになんと答えて言いのかわからず、途方に暮れました。
「おいおい、パパはもう40歳だぞ、せいぜい太らないようにジョギングするくらいし
か走ったことがないよ」
リックの悲しそうな顔とジュディの励ますような顔を交互に見て、ディックはゆっくり
考えてみました。
「リックの車椅子を押して走るなんて無理だ。マラソンの経験もないんだぞ。自分が走
るだけでせいいっぱいじゃないのか?」
しかし、別の思いがディックの中にあった事も確かでした。
「レースはリックにとっていい経験になるかもしれない。」
次の瞬間ディックは、こう口にしていました。
「OK! ふたりでやってみようじゃないか」
初めてのレースの後、ディックは筋肉痛でしばらく動くことができませんでした。
ディックの痛む筋肉をジュディが塩でもみほぐしていると、リックが学校から家に帰っ
てき、うれしそうにこう言いました。
「パパ、ママ、走っている時は、ぼく、自分が身体障害者だって言うことを忘れてた
よ」
ディックの筋肉痛はいっぺんに吹き飛んでしまいました。
「リックはついに自分を解き放ってくれる何かを見つけたんだ。息子がマラソン選手に
なりたいと望むなら、私は息子にこの体を貸すしかない。」
レースに出たいというリックのことばは、ホイト一家を大きく変えていきました。
1979年9月、レースに参加するための軽量車椅子を完成させると、ディックとリッ
クは毎週末、いろいろな都市で開催されるレースに出場していきました。
そうやって経験を積んでいったふたりは、1998年、世界的にも有名なボストンマラ
ソンの車椅子部門に申し込みをしました。しかし、車イス部門の参加者は、あくまで車
イスの人がひとりで走ることが出場条件だったのです。
リックの他、パートナーを必要とする全身麻酔症の患者は、みな出場を断られました。
「どうする、リック?」
「もちろん、行くしかないよ、パパ」
リックがぎこちないウインクで答えました。
ディックはリックの車イスを押して、車椅子グループの後ろにつくと、スタートの合図
と同時にレースに参加しました。スポンサーや実行委員は、彼らを正式な出場選手とは
認めませんでした。
しかし、レースの観客は大きな拍手と喝采で、ふたりを応援しました。ふたりの順位
は、後ろから数えた方が早いくらいでしたが、人々は大歓声で彼らを迎えました。
それから数年間、リックはレースに参加しつづけていただけではありません。
レースに出場しながらボストン大学の学生になっていたリックは、大学でははじめて学
位を取得した、全身麻酔症の生徒になっていたのです。
一方リックと共に5年間、各地のレースに参加しつづけていたディックは、今や完璧な
アスリートとなっていました。
ディックはついにトライアスロン大会に招待されました。しかし、そのレースはディッ
クひとりで参加することが条件だったので、彼は出場をきっぱり断りました。
「私は息子といっしょでなければ、どんなレースにも参加しません。私はリックのため
にレースをはじめたのですリックが私をレースにかりたてるのです・・・・。息子がい
ないと、自分の腕をどうやって使ってよいかさえわからないのです。」
大会の公式委員会はディックとリックに条件を出しました。
「トライアスロンに耐えられる車椅子と牽引装置考案して、安全にレースを行える確認
できたら、ふたりの参加を認めましょう。」
ディックは息子を引っ張りながら泳ぎ、自転車をこぐための装置をつくり、練習をはじ
めました。
自転車と車椅子牽引装置は合わせて29㌔、リックは40㌔です。 77㌔のディック
が、69㌔のハンデを背負ってレースに出場するのは、どう考えても不可能に思えまし
た。
しかし、ディックは、リックを引っ張りながら3.9㌔泳ぎ、リックを乗せてアップダ
ウンの激しい坂を180.2㌔自転車をこぎ、車椅子を押しながら42.195㌔のフ
ルマラソンを走りぬいて、初参加のトライアスロンレースで完走したのです。
公式委員会のメンバーも、レースを観戦していた人々も、みな口をそろえて言いまし
た。
「あの車椅子の青年は、全身麻酔症の患者だって? ウソだろう?」
「彼の父親は何歳だ? もう、自分で走るのもしんどい年齢じゃないのか?」
ディックは人々の驚きの声にこう答えました。
「息子といっしょにやれば、できないことなど何もないんです」
ふたりはこのレースをきっかけに、いくつものトライアスロンレースにエントリーし、
ほとんどのレースで参加者中、真ん中いじょうの順位で完走しつづけました。
さらにディックとリックは、ハワイ島で開催される過酷なアイアンマンレースへの出場
を決めました。このレースは、気温40度、こう湿度の気候に加え、険しい丘、強風と
いう厳しい条件下で行われるもので、健常者でさえ完走できれば大満足というレースで
す。
ディックとリックは訓練のために一年間、毎週ローカルなレースに参加しつづけまし
た。ディックは毎日、息子のかわりに50㌔のセメント袋を背負って3㌔を泳ぎ、12
㌔のマラソンをして、自転車に乗ると65㌔の距離をこぎつづけました。
特訓の成果は見事に身を結び、ふたりはアイアンマンレースで完走しました。それ以来
4つのトライアスロンレースに出場し、そのすべてに完走する快挙を成し遂げたので
す。
それでも、ふたりのレースにかける情熱はとどまることを知りませんでした。
ロスアンゼルスからボストンまで45日間、休みなしで6000㌔を自転車で走破し、
アメリカ大陸を横断しました。また、1981年に参加を拒否された時から数えて、1
5回目のボストンマラソンでも完走しました。
その結果、ディックとリックは、マラソン生誕100周年記念の特別賞を受賞したので
す。ディックは授賞式で、特別賞受賞のスピーチをしました。
「それが何なのかはわかりません。ですが、息子の車椅子の後ろに立つと、私にはいつ
も何かが起こる予感がします。私は息子に体を貸しますが、私の体を動かすのは息子の
リックのスピリットです。リックが私の推進力であり、リックこそが真のアスリートな
のです」
リックとディックは、20年間で631のレースに参加しました。
しかし、彼らに終わりはありません。
リックは言います。
「周りの人はいつも『僕には何もできないだろう』と言っていました。しかし、両親と
ぼくは必ず『何でもできる』と信じていました。そしてぼくたちは、今までずっと周り
の人たちが間違っていることを証明してきたのです。ぼくと父は、チームを組んでアス
リートになりました。ホイトの一家は、人が不可能だと思うことに挑戦する習慣が身に
ついているのです。」
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