「これはただ事でない。」
海辺の高台に住む庄屋の五兵衛は、今の地震の長いゆったりとしたゆれ方と、うな
るような地鳴りでそう思った。海を見ると波が沖ヘ沖へと動いて、みるみる海岸には
、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。このままにしておい
たら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。家にかけ込んだ五兵衛は
大きな松明を持って飛び出して来た。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と、五兵衛は自分の田のすべ
ての稲むらに火をつけた。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の者は、急いで山手ヘかけ出した。高台から見下し
ている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。村中の
人は、追々集まってきた。五兵衛は、後から後から上がって来る老幼男女を一人
一人数えた。
やがて津波が村を襲った。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、た
だあきれて見下していた。
稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。
始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のま
ま五兵衛の前にひざまづいてしまった。
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