2015年8月16日日曜日

No.108(聖書周辺の旅-蒋介石総統と聖書-)

聖書周辺の旅-蒋介石総統と聖書-

 日本の敗戦が鮮明になった1945年8月15日、当時日本と直接交戦中だった中
華民国の蒋介石総統が。全中国国民と世界に向けて、ラジオ放送を行った。当日、日
本時間の正午に放送された、日本国天皇の「終戦を告げる、終戦の詔勅」の放送に先
立つこと1時間、日本時間の午前11時、重慶から行われたラジオ放送である。 
 「告文」と呼ばれるこの放送には、戦後の日本について、重要なことが述べられて
います。その一部をご紹介しましょう。

* 告文 *
「全中国の軍官民諸君、並びに全世界平和愛好の諸士。われらの対日戦は本日こ
こに勝利を得た。…殊に被占領地区の同胞は、限りなき虐待と奴隷的屈辱をなめつく
した。もし今次の戦争が、人類最後の戦争となるならば、たとえ形容不能の残虐と屈
辱を受けたとはいえ、けしてその賠償や戦果は問うまい。…わが中国の同胞よ、既往
をとがめず、徳をもって恨みに報いることこそ、中国文化の最も貴重な伝統精神で
あると肝に銘じて欲しい。
…けして報復したり、さらに敵国の無辜の人民に対して、侮辱を加えてはならな
い。…もし暴行をもって敵の過去の暴行に応え、奴隷的侮辱をもって、誤まれる優越
感に報いるなら、怨みはさらに怨みを呼び、永遠に止まる所がない。これはけしてわ
が正義の師の目的ではなく、わが中国の一人一人が、今日特に留意すべきところ
である。
…ここで余は、まず、最も困難な任務を申し渡したい。…公平正義の競争が、彼らの
武力略奪や独裁恐怖の競争より、真理と人道の要請にかなっていることで、これこそ
わが連合国に託された、今後の最も困難な任務である。」

 当時、中国本土に210万人いたと言われる日本人や日本兵が無事に帰国できたの
も、また賠償放棄により、戦後の復興がかなったのも、この「告文」に負うところが
大きいと言えるのではないでしょうか。
 実は、蒋総統は、抗日戦の多忙の中、1944(昭和19)年10月から46年に
かけて、新約聖書の翻訳を手掛けていたのです。カトリックの信者であり、中華民国
憲法の起案者である呉経熊が、新約聖書と詩編を、ラテン語ウルガタから翻訳し、手
書きの墨字で丁寧な原稿を作り、それを1944(昭和19)年10月31日、重慶
にいる蒋介石総統に捧げました。
 読んでもらうことと、訂正の赤を入れてもらうためです。総統は、戦争の最中であ
るにも関わらず、訂正をしたらよいと思われるところを朱文字で、丁寧に書き込みを
しています。しかも、2年の間に3回も繰り返し読み、読み終わると、その日付を書
き、中正と署名しているのです。
 その蒋介石総統の朱文字が入った新約聖書と詩編の翻訳原稿が、蒋総統の生誕
100年を記念して、台湾の教会を中心に、復刻されました。
 蒋介石の軍隊は、共産軍に追われ、台湾に渡りましたが、そこで地域住民を虐殺し
たりして228事件を引き起こしてしまいました。
 長い間、台湾の教会との間もうまくいかなかったのですが、台湾の教会も、蒋介石
のこのような働きの成果を復刻したように、和解が進んできたようです。
この復刻版の聖書が、日本聖書協会に台湾の教会から贈られ、銀座聖書館ビルの
聖書図書館に納められています。
 放送された「告文」には、至るところに聖書が引用されていますが、蒋介石総統
は、聖書を読むどころか、聖書の翻訳をも手掛けていたのです。日本との戦争のさな
かに、いわば戦争の最高指導者という超多忙の中で、翻訳原稿に手をいれるという、
困難で、精神の集中が必要なこのようなことを為していたのです。我が国は、聖書の
翻訳によって救われました。戦後の復興も、そして何よりも平和も、この蒋介石総統
の聖書翻訳が、陰の力であったことは確かなようです。
 この新約聖書は、「新約全書」と言われ、1949年8月ホンコンの出版社、公教
真理学会から出版されました。

『蒋介石』
1887〜1975 中国国民党の指導者。日本に留学。軍人出身。
孫文なき後の国民党で実力を伸ばし、1926年国民革命軍総司令となって軍事権を握
り、北伐を開始した。共産党勢力の伸長を嫌い、財界・地主・外国勢力に接近。1927
年4月12日の上海クーデターによって反共に踏み切った。1928年南京で国民政府
主席となり、以後国民政府の最高指導者として勢力を持ち、1948年5月初代総統、
1949年12月台湾に移る。

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