昭和天皇とキリスト教(佐賀新聞より転載)
〈マ元帥天皇の改宗検討〉
連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥は日本占領時代、民主
改革とともにキリスト教の布教にも努め、昭和天皇の「キリスト教改宗」まで真剣に
検討していた事実が、当時の関係者の日記から確認された。共同通信が入手した、米
プリンストン大図書館収蔵のジェームズ・フォレスタル米海軍長官(当時。後に初代
国防長官)の日記に明記されていた。結果的には、キリスト教の布教は戦後の一時的
なブームで終わり、昭和天皇の改宗問題はこれまで秘話とされてきた。
昭和天皇は敗戦から約三カ月後の一九四五(昭和二十)年十一月、プロテスタント代
表団と懇談、カトリック神父も含め、有力なキリスト教指導者と何度か会見した。
キリスト教社会運動家、賀川豊彦の進講も受けた。戦後いち早く訪米して帰国した女
性キリスト教運動家、植村環が皇后に聖書を進呈し、皇居内で聖書を講義したことも
あった。
四六年七月十日、日本を視察したフォレスタル長官はマッカーサー元帥と約一時間に
わたって会談した。
元帥はその際「天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現
にはかなりの検討を要する」と言った、と長官は日記に記した。
元帥はまた天皇について「欧米で言えば、育ちが良くてお金持ちの若い社交クラブ会
員のような人で、軍部に操り人形として利用された」との感想を漏らしたという。
こうした経緯を経て、当時の関係者の間で「天皇はキリスト教徒になるのではない
か」とのうわさが流れた、とGHQ宗教課のウィリアム・ウッダード元調査官は回想
録に書いている。
天皇が改宗すれば、多数の日本国民の入信も見込めるため、キリスト教各派の代
表は天皇との接触を求めて活発に動いた。当時皇居の警護も担当していたエリオット
・
ソープGHQ民間情報局(CIS)局長の回想録には、ローマ法王庁の駐日大使が天
皇との会見をしつこく要求したいきさつが明らかにされている。
各派の対立を避けるため結局、マッカーサー元帥の判断で「天皇の改宗は行われない
ことで決着した」とソープ准将は書いている。
昭和天皇自身は四八年八月のオーストラリア紙「メルボルン・サン」との会見で「自
分自身の宗教(神道)を体していた方がよいと思う」と言明、改宗の意思を明確に否
定した。
昭和天皇が一時期キリスト教関係者との接触を深め、西洋文明への関心を示したの
は、皇室の存続にプラスになると考えたため、とも理解できる。占領軍当局やキリス
ト教関係者はそうした行動を改宗への〝兆候〟と受け取り、うわさが先行した可能性
がある。
(春名幹男共同通信編集委員)
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〈布教、大統領も承認〉
占領期にGHQが日本で進めた「キリスト教伝道」は、ハリー・トルーマン米大統領
の直接の承認を得て、米陸軍の占領地政策の一環として行われていたことが、同
大統領の関係文書から明らかになった。
米アマースト大のレイ・ムーア教授(日本史)がトルーマン図書館で発見した米政府
文書に明記されていた。
キリスト教布教は、敬けんなキリスト教徒だったダグラス・マッカーサー連合国軍最
高司令官が、個人として積極的に進めたことは知られていたが、実際には米政府の公
式の政策だったことがはっきりした。
当時のケネス・ロイヤル米陸軍長官は一九四九(昭和二十四)年四月二十七日付でト
ルーマン大統領あてにメモを送り、日本では神道が衰退して、米国にとって「宗教的
好機が到来した」と指摘、キリスト教的倫理、文化、政治的理念を「日本社会のすべ
ての階層に普及させる」よう訴えた。
これに対し、トルーマン大統領は「私は喜んでこれを受け入れる」とイニシャル署名
入りメモで答えた。
こうして、占領地政策担当のトレーシー・ボリーズ陸軍次官補が、カトリック、プロ
テスタント両団体の支援と助言を得て、計画を推進した。
これらの文書には、具体的な布教活動の内容や予算額などは記されていないが、
関係者によると、宣教師の派遣や聖書、賛美歌集の印刷、戦災で焼けた教会堂の
再建などが行われた。
日本に入国した宣教師の数は四五—五○年で三千人を突破。さらに、戦前・戦中に使
われていた聖書、賛美歌集が米国でリプリントされ、送られてきた。「賛美歌が君が
代と一緒に掲載されていたこともあった」と関係者は言う。しかし五二年に占領が終
了、キリスト教ブームは冷め、日本国民の間にキリスト教が拡大することはなかっ
た。
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=フォレスタル日記要旨=
フォレスタル米海軍長官(当時)の一九四六年七月十日付日記の関係部分要旨次
の通り。
■マッカーサー元帥は一時間の会話で次のように語った。
1、日本の産業が復興し始めることができるよう、賠償問題では支払額を日本側に明
確に通告すべきだ。
2、彼(マッカーサー元帥)は天皇について、欧米で言えば、育ちが良くてお金持ち
の若い社交クラブ会員のような人で、軍部に操り人形として利用された、と表現し
た。
■天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現にはかなりの
検討を要すると思う、と元帥は言った。
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ジェームズ・フォレスタル氏 一八九二—一九四九年。プリンストン大卒。ウォール
街の投資銀行ディロン・リード社に入り、社長を務めた。四○年、ルーズベルト大統
領に請われて海軍次官、次いで海軍長官に就任。四七年新設された国防総省の初
代長官。陸海空三軍間の調整などで苦労し、一年半後辞任。うつ病にかかり、四九
年自殺。
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〈マ元帥、宣教師1000人求める〉
アマースト大教授、レイ・ムーア氏
十九世紀の人間であるマッカーサー元帥は、民主主義はキリスト教の原理から起こっ
たと信じ、キリスト教を日本で布教するよう米国の教会に要請した。一九四五年十
月、彼はプロテスタント指導者に「千人の宣教師の派遣」を求めた。
彼は、ある宣教師あての手紙で「私が日本のキリスト教化を楽しみにしていることを
理解してくれるでしょう。その目的のためにあらゆる努力が行われている」と書い
た。また五○年には、「キリスト教会は過去五百年間日本で、今ほどの好機に恵まれ
たことはなかった。・・・日本はキリスト教なしに民主主義になり得ない」とも書い
た。
彼は、皇居内の情報源にも勇気づけられて(昭和)天皇自身がキリスト教に改宗する
だろうと確信した。事実、彼は福音伝道師ビリー・グラハム師に対して、天皇はキリ
スト教を日本の公式宗教にしてはどうかと申し出た、と語ったという。一部の学者
は、こうしたマッカーサーのキリスト教への熱意の証拠を取り上げず、ワシントンの
支持がなかった、と言う。
実際には、統合参謀本部は一九四五年、正式に布教への支援を承認し、一九四
九年、ケネス・ロイヤル陸軍長官とトルーマン大統領は「日本における宗教的好機」
を利用するというマッカーサー元帥の政策を支持した。その後マッカーサー元帥は、
自分は「米国の兵士であると同時に神の兵士だ」と述べた。
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レイ・ムーア氏 米アマースト大教授。1933年生まれ。国際基督教大で日本語を
学び、ミシガン大で博士号取得。64年以来アマースト大で日本史講座を担当。同志
社大、東大で客員教授などを務めた。著書に「内村鑑三」「天皇がバイブルを読んだ
日」など。
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