2015年8月16日日曜日

No.123(若者に大望を懐かせた教育者 クラーク博士)

若者に大望を懐かせた教育者 クラーク博士

ウィリアムS・クラークは1826年、米マサチューセッツ州に生まれた。ピューリ
タン信仰に立つアマースト大学に在籍中、キリスト教に劇的に回心。
卒業後はドイツに留学して植物学を修め、母校の農芸化学の教授になっている。南北
戦争では学生義勇軍の指揮をとり、大佐にまでなった。
「国家のためというより、呪われた奴隷制度をこの国から払拭したいという気持ちの
方が強かった」という。
その後、マサチューセッツ農科大学の創設に関わり、初代学長を務めた。札幌農学校
創立のための協力依頼を受けたのは、学長就任10年目の時のことである。
1876年(明治9年)6月下旬、横浜に到着。横浜で英語の聖書30冊を用意し
て、船で北海道に向かった。
船中、北海道開拓使の黒田清隆と激論になった。黒田から「学生達に最高の道徳を教
えてほしい」と頼まれ、「聖書を用いて行いたい」と答えたからである。
黒田はキリスト教禁制が解けてまだ間もないからだめだと言い、クラークは「聖書に
言及せずに道徳は教えられない」と譲らなかった。
論争は小樽に着くまで続いた。ほかの宣教師たちは、黒田はキリスト教に敵意を持っ
ているから不可能だと言ったが、結局、クラークが粘り勝ちした。
開校式の演説では、「ここで学ぶ学生は大望を喚起すると信じる。青年紳士諸君、健
康を保ち、食欲と性欲と利欲を制御し、知識と熟練を獲得せよ」と語り、学生たち
を感激させた。
また、「人間は規則で作られるものではない」として校則を廃し、「紳士たれ」でよ
しとした。持ってきた聖書を学生たちに配り、授業はその1章を読んでから始めたと
いう。指導は丁寧で、実際に即していた。
同時に謙遜で、その行動は意表を突いた。「この方は偉い先生だという先入観に支配
されて、導かるるままに従って行くばかりだった」と学生の一人は書き残している。
こうしてクラークの人格に圧倒された1期生は全員『イエスを信じる者の誓約』に署
名した。
その感化は直接教えを受けなかった内村鑑三ら2期生にまで及んだ。これらの学生た
ちは、その後、明治日本の各界で指導的役割を果たす人物になっている。
翌年4月、クラークは札幌を離れた。名残を惜しんだ学生たちは24キロ先の島松
まで見送った。
クラークは学生一人ひとりと握手して馬にまたがると、ひときわ声高く「青年よ、大
志を懐け」との名言を残して去っていった。クラークが札幌で教鞭を執ったのはわず
か8ヶ月であった。

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