2015年8月16日日曜日

No.118(内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」)

内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」

●代表的日本人
内村鑑三の著作の一つに『代表的日本人』という名著がある。西郷隆盛、上杉鷹山、
二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げたもので、日清戦争(1894年)のさ
なかに書かれたものである。原題を『Japan and japanese』(のちに改題されて
『Representative Man of Japan』)といい、それは英文で書かれている。
なぜ英文で書かれたのか。
内村はその執筆動機をこう語っている。
「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにして
も欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業のひとつとしてこの事を為し
得たことを感謝します。私の貴ぶ者は二つの“J”であります。その一つはJesus(イ
エス)であり、いま一つはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義
務の幾分かを書いたものであります」

いわば内村は、当時、好戦的な野蛮国と批判していた欧米列国の人々に対して、「日
本にはこんな素晴らしい偉大な人物がいるんだぞ、なにが野蛮国なものか」と、キリ
スト教徒の殉教者にも劣らぬ彼らを、日本人の“誇り”として書いたのである。
たとえば、その一人、二宮尊徳に対しては、
「彼がいかに“土地の衰廃と人気の汚悪”と戦ったか。彼には術策と政略は皆無で
あった。『至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く』として、この人には清教
徒の血が通っている所があった」と、尊徳の中に「慈悲」「勤勉」「正直」「忍耐」
といった美徳を見つけだし、敬虔なるプロテスタントの清教徒と対比して見せてい
る。

むろん、この本は単なる「偉人伝」ではない。西郷に対して「余輩は彼ほど人生の欲
望の少なき人を知らない」と、無私無欲を称えているように、身を挺して仁を貫く
「武士道的精神」をプロテスタントにも劣らぬ伝統的精神として活写し、不屈の意志
力で人生を誠実に生きた彼ら五人の精神の美徳を、みずからの生き方の指針として、
「かくあるべし」と願って書いたのである。それはまさしく内村の生き方そのもので
あったのである。

なぜなら、内村は一般的には「日本的キリスト教徒」として知られているが、じつは
彼こそサムライ的な矜持を保ち、生涯その生き方を貫き通した人はいなかったといっ
てよい。その証拠に、『代表的日本人』が出た翌年、内村は『余は如何にして基督教
徒となりし乎』(これも英文)を書くが、彼はこの中で自分のキリスト教への回心が
「武士道の台木に接ぎ木するものだった」と述べ、その根底の精神に一貫して武士道
的精神が流れていることを告白している。

キリスト教徒といえば、とかく多くの人が西洋かぶれしたバタ臭い人を想像しがちだ
が、内村は墓碑に、

「われは日本のため

 日本は世界のため、

 世界はキリストのため、

 すべては神のため」

と標したように、彼はすぐれた愛国者であり、もっとも日本人の美しき道徳律を持っ
て生きた国際人であり、神の忠実な下僕だったといえる。

●キリスト教徒としての萌芽
さて、その内村鑑三は、万延二年(1861)三月、つまりペリー来航から八年後、明治
維新から七年前、高崎藩松平家の家臣の子として生まれた。明治キリスト教徒として
同時代に活躍する植村正久、海老名弾正、小崎弘道からは三〜五年遅れ、良き友
あるいは論敵だった徳富蘇峰、山路愛山には二〜四年長じている。
父・宜之は謹厳実直な武士であると同時に儒学者でもあった。だが明治四年の廃藩置
県で職を解かれ、内村が札幌農学校へ入学したころには早くも隠居し、没落武士の身
となっっていた。
鑑三少年は、父の影響で最初は政治家を志し、一三歳で東京帝国大学の予科であ
る東京外国語学校へ進学した。が、先の家庭の事情から学資がつづかず、三年後、
授業料が無料で北海道開拓使の道が約束されている札幌農学校(北海道大学の
前身)へと転身する。

札幌農学校というと誰しも「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士を
思い出すが、クラークと内村との直接の関係はない。クラークが教鞭をとったのはわ
ずか八ヶ月のことで、直接の薫陶を受けたのは一期生のみである。同級生には五千円
札で知られる新渡戸稲造がいるが、内村らは二期生だった。
とはいえ、内村にとって札幌農学校での四年間は、彼の人生を決定する期間だったと
いってよい。内村はここで、クラークが残した「イエスを信じる者の契約」にサイン
し、初めて生涯の愛読書となる英文聖書に出会い、キリスト教の「神」を知った。

もちろん武士の子として育った内村は、簡単にキリスト教に入信したわけでない。そ
の経緯は『余は如何にして基督教徒になりし乎』に詳しいが、彼は「わが内なる精神
には武士道あり」と、当初はキリスト教を耶蘇教として認めていなかった。それどこ
ろか、友人たちがづつぎに入信するのをニガ虫をかみしめる思いでながめ、札幌神社
に参拝して「耶蘇教をわが国から追いだしたまえ」と祈りつづけるほどの青年であっ
たのだ。

ところが、いったん、キリスト教と武士道の精神が矛盾するものではなく、ともに自
己を鍛える崇高なる道徳律であることを理解すると、在学中に「信仰の独立」を唱
え、外国の援助や干渉を受けない独自のキリスト教を主唱したのだ。
明治一四年(1881)札幌農学校を首席で卒業した内村は、農学校の規定にしたが
い開拓使御用掛として勤め、のち農商務省に転ずるが、やがて明治一七年、その農
商務省も辞めて自費でアメリカへ留学した。ペンシルバニア州の州立精神薄弱児の
施設などで苦労して働き、その後クラークの母校でもあるアマスト大学に進学して
神学を修めた。そしてここでシーリー総長と出会い、決定的な「回心」を体験して福
音主義的信仰に導かれたのであった。

●後世への最大遺物
帰国後の内村は第一高等学校の講師の職にあった。だが明治二四年(1891)一月
、思わぬ試練に遭遇する。明治天皇の教育勅語奉載式で「敬礼」を躊躇したことで職
を解かれてしまうのだ。世に「不敬事件」として知られているが、内村は「国賊」
「不敬
漢」として、井上哲次郎ら国権論者を中心に、日本中のジャーナリズムから総攻撃さ
れた。もちろん内村にすればキリスト教徒の良心から出たものであったが、「忠君愛
国」に燃える世間はそれを許さなかった。

犯罪者のごとき烙印を押された内村には、身の置き場もなかったほどだった。友人を
訪ねてネグラを探す内村は、あるとき盛岡で宿をとった。「内村鑑三」の名では泊め
てくれないだろうと、「内村三蔵」という偽名をつかった。ところが、ちょうどその
年の五月、ロシア皇帝を大津で斬りつけた犯人が「津田三蔵」という名であったた
め、宿の主人はその人物と疑って内村を叩き出したという。

あるいはまたこんな話しも残っている。
日本中を転々とする内村は、京都に札幌農学校の先輩でクリスチャンでもあった大島
正健を訪ねた。腹が空いているだろうと大島がスキ焼きをご馳走すると、内村は鍋の
ものを全部平らげたのち、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と、一気に
鍋を持ち上げて飲み干したという。
内村によれば、不敬事件のあとの数年は、「飢餓線上をさまようごとく」であったと
記すが、だが、この間に処女作『基督教徒のなぐさめ』をはじめ、『日本人および日
本人』『余は如何にして基督教徒となりし乎』などの名著をあらわし、その精神は
「日本のため、世界のため、キリストのために」と、いっそう磨かれ、昂揚していく
のである。

なかでも感銘を受けるのは、こうした受難の時に、若きキリスト教徒たちのため
に夏期学校でおこなった「後世への最大の遺物」という講演である。
内村はいう。
「一人の人間として我々は何をこの世に遺せるか。金か、事業か、文学か……、だ
が、それらは誰もが残しうる最大の遺物とはいいがたい。誰もが遺せる最大の遺物、
それは勇ましく高尚なる生涯だと思うのです」

後にこの講演は一冊の本としてまとまり、内村の気概の精神を唱えるものとして、若
きキリスト教徒たちの「和製聖書」とまで呼ばれるが、この後、内村は先の著作のベ
ストセラーとともに、不死鳥のようによみがえったのである。

●日本の天職とは
いまや内村は、マスコミ界きっての売れっ子として国民的寵児となっていた。明治三
十年(1897)二月一四日、当時、日本一の発行部数を誇っていた黒岩涙香の『萬朝
報』に、内村が英文欄の主筆として迎えられると、同紙はその入社を一面トップで紹
介したほどだった。だが、やがて日露戦争が勃発し、社長の黒岩涙香が参戦論を展開
すると、内村は堺枯水、幸徳秋水らとともに「非戦論」を唱えて、同社を退社した。
明治三十六年十月九日のことだ。その日、萬朝報に掲載された「退社の辞」は、日露
戦争に反対する内村の心の叫びであった。

この間、内村は社会評論雑誌『東京独立雑誌』(明治三十一〜三十三年)、個人雑誌
『無教会』(同三十四〜三十五年)などを創刊しつづけるが、内村のライフワークと
なったのは、明治三十三年から死にいたる(昭和五年六十九歳で死去)まで出版され
た個人雑誌『聖書之研究』であった。これは全三百五十七号における一連の聖書講義
であり、内村はこれを「紙上の教会」とみなして、全国三千人の読者に三十年間送り
つづけたのである。それは「無教会主義」と呼ばれる内村の独自の布教活動であっ
た。

内村にすれば、キリスト教信仰は「キリストを信じる」という、ただそれだけのこと
で十分であり、洗礼を受けたり教会に通うことなどといった制度や作法は重要視しな
かったのである。
また日曜日ごとに行われた聖書講義は、東京市民の人気の的であり、会場となった場
所は常に満員であった。内村は聖書との関連で、人生を語り、世界をながめ、歴史を
解釈し、進んで人に信仰をすすめたり、信者をつくろうとはしなかった。
内村の真骨頂は、膨張する国家に対してその堕落ぶりを批判し、信仰と愛国心に裏打
ちされたナショナリズムを提唱したことだ。いわゆる「日本天職論」であるが、彼は
福沢諭吉の「脱亜論」とは違う、欧米と東洋の折衷を説き、次のような主旨を述べた
のである。

「日本のあるべき姿は東西世界の架け橋となることであり、軍事力や経済力とは別の
“信仰の国”として、平和国家を建設することである」と。

この言葉は今日の日本でも通用する一つの国家論といえるのではないか。ちなみに、
こうした内村から薫陶を受けた人々として有島武郎、志賀直哉、正宗白鳥、前田多
聞、南原繁、矢内原忠雄、高木八尺などがいる。

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