2015年8月16日日曜日
有名人の聖書観 Part Ⅲ
有名人の聖書観 PartⅢ
【アブラハム・リンカーン】
「聖書こそ、神の律法と神の歴史を含む神の書であると自らを主張している唯一の書
である。聖書はそれ自身の権威を裏付ける無数の証拠を持っている。」
【ダニエル・ウェブスター】
「私の思想や文体に推賞されるものが何かあるとすれば、それは早くから聖書を愛す
ることを私に教えてくれた両親のおかげである。」
Daniel Webster 1782〜1852 アメリカの政治家。雄弁家で知られ、19世紀前半の
ニューイングランドを代表する政治家。ウィリアム・ハリソン、タイラー、フィルモ
アの各大統領のもとで国務長官をつとめた。
【トマス・カーライル】
「聖書は、人類の魂から発せられた言葉による最も真実な発言である。それを通し
て、あたかも神の開いた窓のように、全人類は永遠の静寂をうかがうことができ、は
るかな、久しく忘れている故郷をのぞき見ることができる。」
Thomas Carlyle 1795〜1881 イギリスの思想家・歴史家で、影響力の大きい社会批
評家だった。
【ゲーテ】
「人類の知的文化が進歩しようと、自然科学が進んでその広さと深さとを加えよう
と、人類の心がその望むままに広くなろうと、福音書から輝き出るキリストの高さと
道徳的修練を越えて行くことはないであろう。」
Johann Wolfgang von Goethe 1749〜1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学
者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼が
あらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がうつし
だされている。
【ハインリヒ・ハイネ】
「なんという本だろう。この世界のように広大であり、創造の深淵に根ざし、天の紺
碧の奥義の背後にまでそびえたっている。日の出と日の入り、約束と成就、生と死、
人間の全ドラマは、ことごとくこの書の中に収められている。」
Heinrich Heine 1797〜1856 ドイツの詩人。その抒情詩は哀調をおび、ときに機知
にとんだ風刺もこめられていて、ひろく愛唱された。
【サムエル・ジョンソン】
「青年よ、ここに生前いくらか世に知られた者の最後のことばに耳をかたむけてもら
いたい。そしてそれはただ、きまって聖書を読めということである。」
Samuel Johnson 1709〜84 イギリスの作家・辞典編集者。確かな眼識をもつ、18世
紀イギリス文壇の大御所であり、力強く調和のとれた散文体で有名である。
後世の研究でうかびあがってくるジョンソン像は、「困難に遭遇してもくじけず、し
いたげられたまずしい人々に同情し、不屈の精神で真実を探究した、卓越したヒュー
マニスト」である。
【ヘンリー・ヴァン・ダイク】
「東洋に生まれ、オリエントの形と象徴とを身に帯びて、聖書は全世界の道を物慣れ
た足取りで歩き、国から国へと渡り行き、どこにおいても自分の国を見出す。それ
は、これまでに何百か国語もの言葉で人々の心に語りかけて来た。子供たちはそこに
書かれた物語に驚きと喜びをもって耳を傾け、賢者はそれを人生のたとえとして熟考
する。邪悪な者、高慢な者はその警告に恐れおののく。しかし傷ついた者、悔い改め
る者にとっては母の声である。それはわれわれの最も尊い夢を織り成し、愛、友情、
同情、献身、思い出、希望などは、その貴重な言葉の美しい衣を着ている。この宝を
自分のものとして持っている者は、決して貧しくも孤独でもない。辺りが暗くなり、
震えおののく巡礼が死の陰の谷に近づく時も、彼はそこに入ること
を恐れない。彼は聖書の杖を手にして、友だちに言う、『さようなら、また会いま
しょう。』そしてその杖に支えられて、闇を抜けて光に至る人として、その寂しい道
に向かう。」
【カール・ヒルティ】
「この書こそ、読むべきでなく、まさに食らうべきもの。
ただ読む者は、耳に入りしことをあまりに早く忘れ去る。
されど神のみ言葉、おのが血肉となる人は、
それによりて力を得、神と一体となる。
そこに誌されし史上の事どもをそらんじても、
ただうわべのことのみ、むしろ心にふかく銘じなければならぬ。
文字は事をなしえず、形象は命を奪うのみ。
精神にしてかつ生命なるものこそ、霊の本性を備う。
それは骨髄を貫き通して、生ける実在を生む。
それは言葉なしにも語り、病める者を癒す。
それによりて預言者の眼光と理知と明るさの精神は生まれ、
清き器をとおして、他人にも清らかに流れ入る。」
(カール・ヒルティ著、岩波文庫「幸福論第三部」P323からの引用)
カール・ヒルティは、思想的著述家と実務家という、普通は相反する分野において成
功を遂げた人物である。その著書『幸福論』には、教訓と示唆が数多く含まれてい
る。 人間は怠惰な生き物であるという前提に立ち、幸福な人生の秘訣は、すべて生
活習慣と心の持ちようにあるという。
【八木重吉】
「わたしはひとりでも聖書を読む人が多ければよいと思います。わたしはだんだん自
分の感想、考えを人に語ることを恐れるようになってゆきます。静かな心になってみ
ると自分には良い考えが何もないことがはっきりと分かってくるからです。それでわ
たしは、人と論ずることがありません。ただ聖書に、わたしよりずっと良いことが書
いてあるから見て下さいとだけいって黙ってしまいます。
わたしは一生の自分の行いがすべていけないことであっても、聖書を人にすすめた
ことは、いいことであったと信じて死ぬことができると思います。といって、わたし
は、聖書の隅から隅まで説明できるというわけではありません。十年も毎日聖書のこ
とを思い、ほとんど読まぬ日とてないのですが、毎日毎日新しい疑いにまよっていま
す。ただわたしには、これほど好きな本が外には無い。そして、少しずつでも、分
かってゆく事が多くなるのが、どんなに楽しみでしょう。」
「この聖書のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やその眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい」
「どこを
断ち切っても
うつくしくあればいいなあ」
早世の詩人。英語教師を職として、肺患を病み30才で夭逝。敬虔なクリスチャンと
して終始す。
1898(明治31)年2月9日、東京府南多摩郡堺村相原大戸(現在の東京都町田市相原大
戸)に生まれる。
1917(大正6)年、東京高等師範学校に進む。在学中、聖書を耽読し、かつ内村鑑三
の著書に感化されキリスト教に受洗する。
1922(大正10)年、卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。24歳で、17歳の島田
とみと結婚。この頃から、詩作と信仰に打ち込みだす。
1925(大正14)年、親戚の作家であった加藤武雄の世話により、第一詩集『秋の瞳』
が新潮社より刊行される。以降、佐藤惣之助主宰の『詩の家』の同人となり、草野心平を
中心とする『銅鑼』や『日本詩人』『生活者』等、詩誌に作品を寄せる。
1926年、結核と診断され、以後、約1年間絶対安静の闘病生活を続ける。病の床で第
二詩集『貧しき信徒』を編纂。
1927(昭和2)年10月26日、『貧しき信徒』の刊行を見ぬまま死去。郷里堺村の八木
家墓地に葬られる。『貧しき信徒』は翌年、処女詩集と同じく加藤武雄の尽力によって、
野菊社より出版された。
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