2015年8月16日日曜日

No.098(現代青年の威厳-中田厚仁さん)

現代青年の威厳−中田厚仁さん

■1.I am dying■
 "I am dying"(私は死んでいきます)という荘重な言葉を最期に、中田厚仁さんが、
25年の短い生涯を終えたのは、今から7年前の平成5年4月8日、場所はカンボジ
ア、コンポトム州であった。中田さんはUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の
ボランティアメンバーとして、総選挙実施の支援活動をしていた途中、何者かに、至近
距離から2発撃たれ、一発の銃弾は左側の頭の後ろから左目に貫通したのである。
20年もの内戦の続くカンボジアでようやく停戦合意が成立し、総選挙を実施する事に
なった。中田さんは選挙について説明をするため、各地を廻っていた。武装解除に応じ
ないグループもあり、また国土には1000万発といわれる地雷が埋設されている。そ
の中でも最も危険なコンポトム州に自ら志願した。悪路に次ぐ悪路で、車で行けなくな
ると、川に出てフェリーで行く。フェリーが駄目になるとカヌーを漕いでいく。それで
も行けなくなると、2時間以上も泳いで村々を廻ったという。

■2.投票箱の中から感謝の手紙■
奇しくも中田さんの49日の法要と同じ日、5月23日に総選挙が実施された。中田さ
んが担当した地域の投票率は99.99%、カンボジア全土の90%を遥かに超えていた。投票
箱を開けてみると、投票用紙の間から、手紙がいくつも出てきた。その一つはこう語っ
ている。
『今まで民主主義とか人権とかいう言葉に触れることなく、一生戦争のなかで、暮らさ
ねばならないのか、と思っていたけれども、こうやって初めて自分たちの意思が表せる
選挙ができ、こんな嬉しい事はない。ありがとう。』

■3.僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない■
厚仁さんは、昭和43年に生まれた。仁は慈しみを持って、人を愛する心、そういう心
の厚い人になって欲しいと両親は願って、「厚仁」と名付けた。
商社マンだったお父さんとともに、小学校時代をポーランドで過ごし、お父さんに連れ
られてアウシュビッツの収容所も訪れている。そこで感じた事もあったのであろう。中
学一年の時に「ポーランドの福祉」という文章を書いている。
『僕は今思います。ポーランドの人たちは、福祉というものを、お金持ちが貧しい人に
施しをするようなものだとは決して考えていない事です。その考えの底に強く流れてい
るものは、自分たちよりも力の弱いものに対する暖かい思いやりのある心です。    ・
・・ それは、 ポーランドの人たちが戦争という不幸な体験の中で、多くの同胞を失
い、財産を失い、生きていくために必要な最低限度のものさえ失った中にあっても、決
して失わなかったものです。・・・
僕が見てきたポーランドの人たちはこう言っていました。「人はパンのみにて生くるに
あらず」。僕は今強く思います。 僕たちの国の福祉もパンだけであってはならな
い。』

■4.厚仁さんの示したもの■
遺骨を抱いて、帰国された父・武仁さんから、「政府は、あるいはUNTACはどう責
任をとってくれるのか」というような恨みつらみの言葉を聞き出そうとした放送局のイ
ンタビュアーもいた。しかし武仁氏は、息子の死に対して、誰かに責任を求めるような
言葉一つ吐かず、逆に次のような手記を残された。
『厚仁のからだは白い布に包まれ、とどめを刺された一撃である後頭部から左目に貫通
した銃弾の痕も、それと分からないように包帯で包まれていました。母親がせめて手だ
けでも握ってあげたいと申しまして、恐れおののきつつ白い布を解きますと、厚仁の手
は胸のうえで合掌するように組まれていました。この姿を見たとき、私には、厚仁が私
たちの息子であるというようりも何か崇高なものであるような気がしたのです。・・・
息子ではありますが、気だかい人間性の発露、人間の尊厳を見たような気がして、もう
厚仁は私たちのものなどではなく、たいへん気高いものになったという感動を覚えまし
た。・・・
信ずるもののためには命を捧げても行動する、という崇高さを持った人間を示してくれ
たことが、厚仁の救いであると思います。貴いもの、崇高なものが人間の中にはあると
いうことを信じさせてくれた事が。』
「今でも深夜や朝方には、耐え切れず、泣き叫ぶことがある」という親としての悲しみ
と、息子の気高い姿に人間として感動するという事は、ともに真実の思いであろう。

■5.なんであなたがいかなければならないの■
カンボジアへのPKOに参加した日本人は数多い。自衛隊からは、総勢約1800人、
また文民警察として75人の警察官が派遣された。そのうちのひとり高田警視も命を落
とされている。
自衛隊の伊丹のある部隊では、PKOへの志願が定員の30倍にも達したという。
「日本の代表としてしっかり活躍したい。同じアジアの国の発展に協力できる事がうれ
しい」(陸二曹28才)
「当初は両親にも反対されましたが、国際貢献のためだからと必死に説得した。」(陸
三曹30才)
派遣の一ヶ月前、長男が生まれたばかりの妻は、夫(陸三曹)の派遣が決まった時、
「なんであなたがいかなければならないの」と泣きながら訴えたという。
「私が泣いた時、主人はじっと黙っていた。恐らく辛かったのでしょう。生まれたばか
りの子供のそばにいてもらいたい。今でも行って欲しくない。」
危険な地雷処理をしても、その手当は1時間で缶ジュース1本分、家族への電話代、1
分千円前後の通話料も、自己負担だという。そういう悪条件にもくじけず、カンボジア
に赴いた青年達の気持ちは、中田厚仁さんと変わるところがないであろう。
「なんであなたがいかなければならないの」という妻の訴えに答えるのは、中田厚仁さ
んの次の言葉だ。

だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、そ
の誰かになりたい。

■6.カンボジアからの遺族弔問■
中田さんや自衛隊PKOの貢献により、総選挙が行われた翌年、政情も安定化し、広島
で開催された第12回アジア競技大会に、カンボジアは20年ぶりに選手団を送り込ん
だ。
選手団の費用は、UNTACに参加した自衛隊員や警察官、青年海外協力隊のOBに
よって結成された「ガンバレ・カンボジア・プロジェクト」が支援した。さらに自衛隊
体育学校はカンボジア選手に練習施設も提供した。
選手団長のブラム・ブンイー氏は次のように述べている。
昨年のカンボジアの総選挙において、カンボジア以外のたくさんの国の方々がカンボジ
アにおいて選挙を成功させ、カンボジアに平和を回復するために非常な努力を払ってい
ただきました。そこには兵隊もいたんですよ。
その兵士の中には日本の兵士(自衛隊)の方々もおられました。この日本の兵士達が海
外に派遣された事は第2次大戦後初めてであることは、私もよく解っております。だか
ら、日本の方達が非常に好意的な貢献をして下さったことは、私もカンボジアの全国民
もよく知っておりまして感謝しております。
ただしこの間に高田さん、中田さんの2名の方が亡くなった事はお気の毒な事です。
カンボジアの政府、そしてカンボジアの全国民はお二方の死に対しては非常に遺憾に
思っております。それで、今回、カンボジア・オリンピック委員会のサムディー副会長
がお二人のご家族を弔問したのです。

■7.大会に参加できた喜びを今後の国造りに役立てたい■
私どものチームをも私自身も本当に喜んでアジア大会に参加させていただきました。同
時に非常な誇りをもって参加させていただきました。20年ぶりに、アジアのその他の
諸国の国旗の間に私共の国旗を見たときには大変感激しました。
選手達も次のような言葉を残している。
「こうして参加できるのが信じられない。それも高田さん、中田さんのような日本人の
尊い犠牲があったればこそ。」
「最初は日本に来れるなんて、思っていなかった。大会に参加できた喜びを今後の国造
りに役立てたい。」
中田さんや自衛隊員、警察官の「パンだけでない福祉」の気持ちが、カンボジア青年達
の未来への希望と志に火を灯したのである。

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