2015年8月16日日曜日

No.134(闘魂の人 黒沢酉蔵<北海タイムス社長>)

闘魂の人 黒沢酉蔵<北海タイムス社長>

黒沢酉蔵という名前をきいた人は、少ないかもしれない。たしかに、ポピュラーな名
前ではない。だが、北海道の黒沢といえば、どこかできいたことのある名前だと思い
だす人も多いのではないか。
それほどに、黒沢氏は、北海道の発展と歩みを一にしてきた人であり、北海道の開発
を語るうえに、欠かせぬ人である。しかも、現在、数え年81才の高令を以て、20
代、30代のような情熱を傾けて北海道開発審議会の委員長をつとめるかたわら、北
海タイムスの社長として、また、酪農大学の学長として、その先頭にたって活躍して
いるのである。
20才の時北海道にわたって牧夫となってから60年、文字通り、闘魂の人として、
人生を闘いぬき人生を勝ちぬき、そして、今もなお、闘いつづけている男、それが黒
沢酉蔵という男である。
黒沢氏は、明治18年、茨城県久慈郡の農家に生まれた。その年は、後年、彼が師事
した田中正造が、国会ではじめて、足尾銅山の鉱毒事件を訴えた年でもある。
15才のとき上京して、アルバイトをしながら中学に通ったが、田中正造が明治天皇
に直訴したことをきいて、やもたてもたまらず、正造を新橋の旅館にたずねた。彼が
17才の時である。
正造の話に深く感動した黒沢は、今後この事のために人生をささげようと決意し、そ
れからは、学業を捨てて、鉱毒の村を歩きまわるのである。そのため、とうとう逮捕
され、前橋監獄に未決拘留6ヵ月の生活を送ることになるのである。このとき、聖書
を読む機会に恵まれるとともに、「まず生活の安定が先だ、世の中への奉仕はそれか
らだ」と考えるようになる。黒沢氏の挫折であり、同時に、第二の人生をあゆみはじ
めることになるのである。
北海道にわたった黒沢氏は、当時、札幌を中心に有名だった宇都宮仙太郎の牧場をた
ずねた。
それというのも、この宇都宮氏は「酪農には三つの徳がある。第一には、役人に頭を
さげなくともよい。第二には、相手は牛だからウソをいわんでもよい。第三には、牛
乳をいくらでものめる」ということを説いており、それに深く共鳴したためである。
挫折したとはいえ、正造に対した姿勢は、その時も失われていなかったのである。
明治42年、はじめて、家屋敷牧地つきの貸家に乳牛一頭を借りうけて、独立の第一
歩をふみだした。それから5年、朝は3時に起きて、牛の乳をしぼり5時には、牛乳
の配達にとびだすという刻苦勉励の結果、乳牛20頭に18町歩の山林畑地を持つ身
の上になる。30才の時、結婚したが、結婚の日も、新婚第一夜、も朝3時におきる
ということはかわらなかった。氏の力闘ぶりがうかがえるというものである。
だが、黒沢氏の前途は平坦な道ばかりではなかった。それは、第一次大戦中、乳製品
は海外からの輸入が絶えてどんどん売れたが、戦争が終わると、外国品がどっとは
いってきた。そうなると、質も悪く、値段も高い国産品は競争にならない。煉乳会社
は買いしぶり、乳価は暴落した。農家はその被害をもろにうけたのである。黒沢氏も
その被害をうけた。しかも、本格的に乳牛をふやした時だから、たまったものではな
い。どこかに打開の道を求めねばならなかった。
こうした危機の中から北海道製酪組合が誕生したのである。即ち、煉乳会社が買って
くれない牛乳を組合が買取り、バターをつくる計画である。勿論、その組合をつくる
ために、黒沢氏は、足を棒のようにして、一人一人説得してまわらねばならなかった
のである。だが、製造したバターやチーズを売るのはもっと大変なことだった。東京
で、宣伝に配ったバターは石けんに間違えられる始末だったから。
が、とにもかくにも、黒沢氏の闘魂は北海道製酪組合を立派にみのらせ、戦後の雪印
乳業の基礎をきずいた。その間には、札幌駅頭で、暴力団の襲撃をうけるというよう
なこともあった。
北海道タイムスの社長となったのは、朝日・毎日・読売各紙が北海道にファクシミリ
攻勢をかけた時である。北海道新聞は勿論だが、創刊して日も浅い北海タイムスは、
その被害をもろにうけざるを得なかった。その時に、黒沢氏は北海タイムスの社長と
なったのである。ここにも、被害をうけてたつ、黒沢氏の共通の姿勢が発揮されたと
いってよい。それは、遠く、前橋監獄において、聖書を読み、そして洗礼を受けたキ
リスト者の精神であるといった方がよいかもしれない。
社長に就任してから数年、4階の社長室にエレベーターを便わずにトコトコのぼって
いく姿勢には、身体を鍛錬するということばかりでなしに、新聞経営というハデな経
営を地味なものにしていこうとする氏の配慮がうかがえるのである。
黒沢氏は生きているかぎり、その闘いをやめないであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿