2015年8月15日土曜日

No.006(肉体と魂- 映画 エデンへの道)

「死」について考えるのに、いいビデオ(エデンへの道)があります。豊島にあるの
で、みなさん機会があれば見てみてください。夜ひとりで見ると、少し怖いかもしれ
ませんが・・。
現代は核家族化が進み、なかなか死というものが身近に感じられない時代です。
「死」について考えようとしても、なかなか実感が伴わず遠いものに感じられてしま
いますよね。私は、この映画を見てから、さらに死に対する考え方が変わりました
よ。
以下の文章は、その映画を紹介したものです。

ドリーミングの時代を読む   【第23回】 肉体と魂   執筆:田口ランディ

「すごいもの見てきちゃったよ」
と、私は興奮して森さんの方に身を乗り出した。

森達也氏はテレビ番組の制作ディレクターをしている。彼の番組制作のテ
ーマはちょっと変わっている。なぜか彼は世間から異端とされる人物を取
材して歩いているのだ。本人に言わせると「僕は決して異端が好きなの
ではない、興味がある人物がたまたまマイノリティなだけなのだ」というこ
とだ。それは私自身にも当てはまる。だから私は森さんに興味をもってし
まったんだと思う。そんなわけで、今夜は久しぶりに森さんと会って渋谷
で飲むことになったのだ。

「すごいものって、なに? 」
「あのね、あのね、人間の中味」
「人間の中味? 」

先日、このメールマガジンで布施英利さんが紹介していた「エデンへの
道」という映画、それを東中野ボックスシアターで観て来たのだ。そう、も
しこのメールマガジンを配信してもらっていなかったら、私はこの映画の存
在を知ることはなく、よって観にいくこともなかっただろう。本当に役に立つ
メルマガである(よいしょではない)。

「エデンへの道っていう映画を観て来たのね。ドキュメンタリーなの。主人
公はブタペストの解剖医、彼の日常を淡々と描写してるんだけど、全編を
通して人間を解剖するシーンが描かれるわけ。もちろん18才未満入場禁
止なんだ」「ああ、その映画ならボックスシアターのスタッフにすすめられ
たよ。僕も観に行きたいなあと思っていたんだ」
「観るべき、絶対に観るべき! 。私ね、あの映画を観なかったらたぶん一
生、自分の体の内がどうなっていたか見れなかったと思うもの」

私には、不思議な欲求があった。
もの心ついた頃から、自分の体の内を見たいと切望していた。鏡では見
えない、肉体の内部を知りたいと思っていた。だって、不思議じゃないか。
自分そのものについて自分は一生知り得ないなんて。この皮の下の内臓
がどのように配置され、神経はどんなふうに張り巡らされているのか、私
は知らないのだ。自分なのに。

自分の中味を見たい。
小学校の頃、この欲求を満たすために、私は人体解剖図や、生物学の図
鑑など図書館にある本を片っ端から読み耽った。でも、満足しなかった。
図や写真ではリアリティがなさすぎる。私は実態を知りたいのだ。内臓や
血管や神経や脂肪、その厳然として存在しながら目に触れない自分の肉
体の実態を知りたかったのだ。

映画「エデンへの道」は、この数十年にも及ぶ私の果たされなかった望み
をかなえ、人間の中味が見たいという私の欲求を完璧なまでに満たしてく
れた。私は2時間、食い入るように画面を見つめ、人間の内部が露にされ
るのをじっと見た。そして、納得した。

そう、心から納得したのだ。
私の中味はああなっているのだ。私の肉体はやはり肉の塊なのだ。納得
して、そしてほっとし、とても安らぎを感じた。

肉体が肉の塊であることを見せられることはない。死は隔離され、死体は
人知れず処理される。ゴミは誰も知らない場所にこっそり投棄される。放
射性廃棄物も医療廃棄物も、人知れず処理される。人気のない場所へ。
地中へ。年をとったら老人も隔離される。隔離され処理される。カーニバ
ルのような喧騒、消費、夢のなかの出来事のように曖昧な関わりあい。
夢を見ているのは私の「エゴ」だ。この社会は「エゴ」にエサを与えること
で「豊かさ」という夢を見させている。

かといって、目覚めた状態がどういうものなのか、私にはよくわからない。
あらわな現実だけを見て生きるのは辛すぎる。生きるためには夢が必要
なのだとも思う。

先月、神戸で精神科医として働く友人と会った。
彼は阪神淡路大震災を自ら経験し、震災後直後の精神科救護活動に携
わった。その経過を自著「心の傷を癒すということ」(著・安克昌 作品社)で
発表している。その安さんが、同じことをつぶやいてた。
「たった一瞬で、世界が崩壊して街がガレキの山と化したのを見たら、しょ
せん世界は簡単に壊れるし、人間はこのガレキの中で生きていけるんだ
って思った。だけど、じゃあ、ずっとガレキの中で暮らせばいいかと言え
ば、そういうわけにもいかない。たとえいつか壊れると知っていても、生き
ていくためには夢のようなきれいな街が必要なんだ」

私は『エデンへの道』という映画を通して、人間の中味を見た。それによっ
て、自分に対してちょっとだけ寛容になったような気がする。この体の皮
の内に内臓を封じ込めて、白子みたいな脳で思考している自分が、ひどく
滑稽でけなげに思えた。しかもあのようなモツのごった煮みたいな内臓を
抱えて、それで私は生きている。この、生きていることの奇蹟。実はそれ
は非常に奥深い喜びにつながっていることに改めて驚く。

あんな臓物の詰め物を抱えて、人間が軽やかに歩いて動き回ることを納
得するためには、魂を考え出さずにはおれない。それほどまでに人間の
肉は鈍重で、肉そのもので、モノだった。ただの臓物だ。

肉体と魂の問題は、考えると恐ろしい。肉体をモノだと思えば、死体を遺
棄することもたやすいだろう。死体を恐れることもなくなる。人体への軽視
は凶悪犯罪につながるように思える。

だけど、人間が死ぬと肉体はただのモノになる、というこの現実を知らず
して、生きていることの本質に迫ることができるんだろうか。人間はモノ
だ。でも、それだけの存在ではない。人間への尊厳は、単なる重たい肉
袋であるはずのものが、生き生きと生命力溢れて動くのを見て初めて感
じることだ。あんなモノがなぜ創造的に動き回れるのか? という素朴な疑
問。それが人間存在の尊厳へと繋がる。

人間はしょせんモノだ、という思想は、踏み誤れば人間を殺すことなど、ヘ
とも思わぬ感性に行きついてしまうかもしれない。けれども、その危険を
犯してもなお、人間は死ぬと肉の塊になる、という事実とは向き合ってい
かなければならない。そうしないとその先の進めない。

だからこそ、この事実と向き合うために、人類はさまざまな埋葬の儀式を
創造し、そして「肉体と魂」を分離し、再融合させようと試みた。壮大な人
間の尊厳を保つための歴史、肉体と魂の葛藤の歴史。もしかしたらその
葛藤の中にこそ「リアル」があったのかもしれない。

今、肉体は表層しか問題にされない。肉体がモノではないことを証明する
ために葬儀屋はありとあらゆる手を尽くして死化粧してくれる。美しく、あ
たかも生きているように。

死体についてはバーチャルに知るのみだ。バーチャルなら何千回となく人
を殺し死体を見る。でも現実的な死や肉体からは隔離されている。肉体と
魂の葛藤はない。神秘はDNAのデータ上にある。

頭が理解しても、納得できない何かが私にはあった。なぜ人は死ぬの
だ。死ぬために生まれるのだ。

でも、人間の中味を見たとき、この重たい肉のズタ袋が、唄い、踊り、考
え、生きて、しかも成長し、ある時もとのズタ袋に戻るのだと実感したと
き、生きていることが奇蹟だと思えた。肉体の神秘への素朴は驚きは、
死の理不尽を超越して私を圧倒したように思えた。生きているのが奇蹟
なのだ。死ぬことがあたりまえ。奇蹟を生きているのだ。

喜んで生きねば。そう、思った。
ほんの一瞬だったけどね。   (おわり)


田口ランディさん プロフィール
  ・企画プランナー、編集者を経て文筆業に。
  ・著書:「忘れないよ、ヴェトナム!」「癒しの森-ひかりのあめふるしま屋久
島」(共にダイヤモンド社)「スカートの中の秘密の生活」(洋泉社)
  ・趣味はヨット、シーカヤック、ダイビング、森歩き。
  ・臨床心理学の、特に心理療法(夢分析・サイコドラマ)を勉強中。
   ・霊感ヤマ勘第六感まるでナシ、それなのになぜか道を歩くと奇妙な出来事に遭
遇してしまうのが悩みの種。
  ・神奈川県の湯河原在住



0 件のコメント:

コメントを投稿