2015年8月15日土曜日

No.028(イタリア ポンペイ)

ポンペイは、イタリア南部、ナポリ湾に臨むカンパニア地方にあった古代都市であ
る。紀元前4世紀以 来繁栄し、最盛期の紀元79年、ヴェスヴィオ火山の突然の大
噴火により一瞬にして火山灰と溶岩の下 に埋もれてしまったのである。

ヴェスヴィオ火山が噴火したのは、紀元後79年8月24日であった。噴火は30時間
以上に及び、ローマ時代の古代都市ポンペイは死の町と化した。その頃のポンペイ
に建っていた住宅 は、古いものでも200年程度しか経っていなかったが、ポンペイそ
のものは、すでに700年もの歴史のあ る古い都市であった。
しかしながら、ヴェスヴィオ火山が最後に噴火したのはそれよりも昔であったため、
埋没当時にポンペイやその周辺地域、ヴェスヴィオ山麓の別荘に住んでいた人
々は、穏やかな姿をしたこの山が実は恐ろしい威力を秘めていることなど、とうの
昔に忘れてしまっていたであろう。

当時の街の様子
当時ヴェスヴィオ山周辺の灰色をした土地は耕作に最適であると考えられていた。葡
萄の木に覆われ、農園の点在するこの山が歴史に残る大噴火を起こそうなどとは
、誰一人として想像できなかったはずである。しかも、その噴火は、名も無い記憶
にも残らない村落ではなく、繁栄して人口も多い古代都市を突如として地上から消
し去ったのである。
当時のポンペイは、道路は碁盤の目に区切られ、公共の水汲み場があり、公共浴
場があり、インスラ(居住区)で区切られた各道路には下水道がすでに整備されてい
た。 フォルム(公共広場)は、ありとあらゆる人々でごった返しており、物売りは
マッケルム(市場)だけでなくフォルムの歩廊にまで様々な商品を並べひしめき合っ
ていた。

商店街には、商店、パン屋、毛織物の作業場、居酒屋などが軒を連ね、荷物を持
った奴隷や、買い物客、卸業者であふれかえっていた。
さらに街の中心地からはなれると、住宅の屋根がまばらになり、広い庭園や菜園
、葡萄畑のある邸宅が増えてくる。葡萄畑には蔓棚の架かった夏向きの野外食堂
があり、家の主人は友人を招き、木陰での会食を楽しんだ。
そして、この心地よい地区のそばには、円形闘技場があった。見世物があるたび
にポンペイの町や市外から 熱狂した人々がこの地域に押し寄せてきたのである。
そして、剣闘士を応援して大騒ぎし、審判に対して悪態をつき、剣闘士が傷を負う
たびに叫び声を上げて敗者を殺せと怒鳴り、勝者に喝采を送ったりしたのであった
。その熱狂ぶりは、観客席で大乱闘を繰り広げ、多数の死者を出し、ローマ元老院
によって円形闘技場を10年間閉鎖することになったほどであった。

古今東西、人間の欲望は古代も同様だった。キリスト教が普及する以前の古代地
中海世界では、性に関してかなり開放的だった。
ポンペイでも娼館と推定される場所が少なくとも5件は発見されており、独立した建
物も見られる。
また、メナンドロスの家のようなお金持ちの住宅の2階が娼館として利用されてお
り、現代人の感覚では理解できないような例もあった。
一般に娼婦の価値は安く、居酒屋のぶどう酒一杯程度だったと言われている。

ポンペイは埋没以来およそ1,600年もの間、火山灰の下深く眠りについていた。しか
し、1748年ブルボン家のカルロス3世により再び甦る時を迎えたのであった。街に覆
い被さっていた分厚い噴火物の大部分は灰と火山礫であり、比較的柔らかいもので
あったため、今日まで忠実に当時の姿をとどめることができたのである。
住居の壁には選挙の宣伝文句、上流階級の豪華な屋敷や、住居や商店の建物、
そしてその内部には家具調度品や金・銀器、仕事の道具、食器、各種食料など奴
隷や主婦の日常雑事の跡が見られる。
このようにポンペイは町全体が当時の美術・風俗・職業・日常生活が手に取るように
みられる、古代ローマ文明遺跡の中でも最も重要な遺跡のひとつでもある。

0 件のコメント:

コメントを投稿