レーウェンフックの重大な秘密 (広瀬隆 『地球の落とし穴』より転載)
現代人は、科学万能の世界を邁進しつつ、一方では、その限界を悟って自然なる地
球を回復しようと努力している。両者は相反しているようだが、矛盾しているのでは
ない。科学万能主義の人間と、自然回帰派の人間が、別の道を歩んでいるのである。
この二種類の人種を分けて、東半球と西半球に住まわせ、二個の地球を作ってどちら
が長く生き延びるか観察すればよいのだが、どこの国にも二種類の人間が住んで
いるため、うまく分けることができない。
このような科学と自然との接点が生まれたのは、遙か昔、17世紀から18世紀に
かけてのオランダに、アントニオ・ファン・レーウェンフックという特異な発明家が
いたからである。
特異というより、変人であった。
変人というより、天才的な科学者であった。
レーウェンフックの生涯には、重大な秘密があった。
秘密があったというより、すべてが秘密で満たされていた。
この深遠な秘密ほど、現代人の世渡りに胸騒ぎを覚えさせるものはない。
彼が生まれたのは、1632年である。ロンドンで、ペストが黒死病として猛威を
ふるい、最後の大流行が人々を恐怖におとしいれたのは、レーウェンフックが働き盛
りの32歳の時であった。
この時代がどのような状況にあったか、われわれがその頃のヨーロッパを具体的に
創造するため、過去の誰でも良い、例えばモーツァルトという一人の人間を思い起こ
してみよう。モーツァルトが、なぜ早死にしたのかという謎を医学的に追跡した『人
間モーツァルト』(JICC出版局)によれば、この天才的な作曲家の死は、われわれの
好奇心を刺激する。”アントニオ・サリエリによる毒殺”という説が、医学的に否定
され、神経梅毒やリューマチ熱、肺結核、発疹チフス、インフルエンザ、連鎖球菌感
染症など、さまざまな原因が、当時のひどい衛生状態と医学知識とともに解析されて
いる。名画『アマデウス』に描かれていた音楽会の背後には、サリエリが収容された
病院のように、当時の人間にとって未知の病が氾濫していた。
ロンドン周辺での調査では、乳児の死亡率が、5割から6割にも達していた時代で
あった。産まれてきた子供の半分は、ほぼ確実に、5歳になるまでに天に召されると
いう、母親にとっては恐ろしい時代であった。
しかし、つい先年、モーツァルト没後200年が世界中で祝われたという数字から分
かるように、ここで登場してもらうレーウェンフックは、さらにその200年以上前
の人間であった。どれほどひどい衛生状態であったろう。
神が生物をこの世に創造したなら、その生物たちをこの世に紹介したのが、レー
ウェンフックである。
彼こそが、それまでこの世を舞台に活躍しながら名前さえつけられていなかった無
数の小さな生き物たちに、光を当てる芸術的な装置を完成したのだ。今日われわ
れが微生物の世界を目で見ることのできる顕微鏡は、レーウェンフックより前に、天
文学の父ガリレオ・ガリレイによって使われ、イタリアの解剖学者マルチェロ・マルピ
ーギによって肺の構造や毛細血管などのくわしい観察がおこなわれていた。
しかしレーウェンフックが、自らの手で精巧に磨き上げ、見事な腕前で完成したレ
ンズの働きによって、次々と微細な生き物を見つけだし、やがて、そのばい菌どもが
一匹残らず、熱湯によって殺されてしまうという生物界の真理を、解き明かしたので
ある。
コレラ菌を発見したロベルト・コッホや、狂犬病の予防接種を確立したルイ・パス
トゥールでさえ、そのすべての研究の原本となる舞台を初めて人類の前に創始した
レーウェンフックに比べれば、足元にも及ばないのだ。
浮世絵でいえば、レーウェンフックが墨一色摺りの版画を仕上げたところに、コッ
ホやパストゥールが彩色をほどこしたに過ぎない。これほど偉大な先駆者の名前が、
われわれ現代人にほとんど知られていないのは、変人だったからである。彼は、学者
ではなく、事実の発見と確認に満足する哲人であった。
レンズがものを拡大してみせるという単純な動きに、異常なほど惹かれて以来、そ
こに地球の神秘を解き明かす鍵があると確信し、レンズの製造に取り憑かれた職人
だったのである。
造り酒屋に生まれ、織物店を開き、公会堂の門番を勤め、この履歴を聞くだけでも愉
快になるが、最後に彼が選んだのは、メガネ職人に弟子入りして腕を上げたレンズ磨
きという技術であった。それも。われわれが想像するような大きさのレンズではな
かった。 どのように磨き上げれば、レンズという簡単な道具が物を大きく見せてく
れるかを、次から次へと手製のレンズを確かめながら、ついに直径が3ミリという微
少なレンズを最高度の技術で磨き上げると、昆虫や樹木や血液を片っ端から、調べ始
めた。ついに、物を200倍にまで拡大できる顕微鏡を完成しながら、彼は、その秘
法を誰にも教えなかった。
彼は一人で作業をしたが、孤独ではなかった。この変人に、孤独という文字はな
く、自分一人で真理を知る作業は、歓喜に満ちていた。
その秘密を明かす友達といえば、娘だけなのである。
実に、20年以上にわたって、一人でくり返し事実を確かめ、生物界の一つの原理
が明らかになると、次に進んだ。シラミの足が、なんと精巧にできているものかと感
嘆し、赤血球の直径が1000分の8.5ミリの大きさである事を、そのレンズの倍
率から計算してみせた。
この計算値は、現代人のわれわれが知っている赤血球の正確な寸歩と、誤差が
わずかに10パーセントという精度であった。牛の目玉の構造を調べ、水晶体の動き
に納得した後は、雨水の中を泳ぎまわっている無数の微生物の姿をとらえ、どうし
てか天からこの生き物が落ちてきたのかと不思議に思いながら、そのメカニズムを
疑った。
やがてそれが、天から落ちてきたのではなく、きれいな水に侵入した汚れと共に発生
してくる事を実験によって確かめた。
人間の歯と歯との間に住む生き物のの数があまりに多きことに驚き、そればかり
か、新鮮な精液の中に存在する生命のもとが精子である事を探り当て、運河では、貝
の体内に膨大な数の子どもが宿されている事をつきとめた。
それがレーウェンフックであった。幼い頃から「神が造った」と教えられてきた地
球上の出来事が、どのような仕組みで成り立っているか、その真理を、知り得る限り
つきとめたかったのである。
レーウェンフックの耳には、数々の高名な学者達の言葉が、聞こえていた。それを
耳にするたびに。レーウェンフックは首を振って、ひとり「それは間違いだ」とつぶ
やき、自分の部屋にこもって、横行する偽学問を正していた。その変り者も、40歳
を過ぎて、ついに、当時世界一の学問的権威であるロンドンの王立協会にあてて、驚
くべき事実の数々を報告する日がやってきた。
最初は、学者という学者が、無名のオランダ職人ごときが、厳格な論文の文体も知
らずに書き連ねた紙切れを一笑に付し、誰も彼の言葉を信じようとはしなかった。
が、なめらかな筆で実証を重ねた事実に勝る学問はない。レーウェンフックは、その
報告を仕上げるまでに、きわめて用心深く、彼が発見した事実を非難するに違いない
学者の思考法をつきとめていた。
学者達は、自分に先んじて他の者が事実を発見して栄誉をさらう事に、ひどく恥を
覚え、攻撃を仕掛けてくる生物の集団である。彼らの学問が重んずるのは、事実その
ものではなかった。誰がそれを発見したか、その者の肩書きは真理を語るために正統
であるか、その新事実が社会に明らかにされる事によって自分たちがどのような批判
を受けなければならないか、といった相対的な価値観だけにある事を知っていた。一
つ間違えば、レーウェンフックが異端者として宗教裁判にかけられるおそれは充分に
あった。
そのような結末は、彼が20年の歳月を費やしてつきとめた事実の数々にとって、許
し難く、しかし最も起こりやすい出来事であった。
その学会の攻撃から貴い真理を守らなければならないと、レーウェンフックは心に決
めていた。彼の報告は、その足元をついて、学会を追いつめる徹底した内容のもので
あった。奇人と見える男が、精密画によって微生物の形や昆虫の目玉、羽根、足の曲
がり具合などを細部まで描きあげ、それらの生態をしたためた詳細な説明こそ、正確
この上なく、この世の生き物の営みを描写しつくしていた。
その為最後には、王立協会の有志会員が再現した顕微鏡を使って、「レーウェン
フックの報告はすべて事実である」ことが、確かめられたのである。
レーウェンフックは90歳で大往生するまでに、実に300台にも達する世界最高の顕
微鏡を完成し、死ぬまで地球を調べつづけた。それでも彼は、アイザック・ニュート
ンのように高名な学者の頼みであっても、その一台にも、手を触れさせようとしな
かった。本心から事実を確認したいと願う誠実な学者でさえ、ただレーウェンフック
が指示する通りに、そっと顕微鏡をのぞく事しか許されなかった。
”レーウェンフックの顕微鏡”をのぞきたければ、たとえイギリスの国王でさえ、
オランダのデルフトまで足を運んで、有名になった彼の家を訪ねなければならなかっ
たのだ。事実、ロシアのピョートル大帝、レーウェンフックの家を訪れている。
なんという頑固者、何たる自由人、何という努力家、何という哲学者、何とすぐれ
た頭脳を与えられた天才であったろう。しかし何にもまして感嘆させられるのは、そ
の体内に宿った精神の強靭さである。
レーウェンフックがこの世に誕生したその年、ローマではガリレオ・ガリレイに対
する宗教裁判がおこなわれていた。
ガリレオは、物理学のさまざまな発見をした後、望遠鏡を作り、木星の周囲に4つ
の衛星が回っていることを発見した。やがて、「地球は太陽の周りを回っている」と
いうニコラウス・コペルニクスの地動説に確信を抱いた。
先人のコペルニクスは、しかし自ら確信する地動説を、科学の真理として主張しな
かった天動説にもとづいて聖書の教えを普及する法王宛てに、へつらい気味の献詩を
したため、宅身に自説を流布する戦法をとった。そのため論文が公表されてもコペル
ニクスは弾圧されず、しかもその日以来、世界観が一変してしまうという、かの”コ
ペルニクス的転回”を成し遂げた。
ところがその説を支持したイタリアの哲学者ジョルダノ・ブルーノは、1600年
に宗教裁判で審問され、火あぶりの刑でこの世を去らなければならなかった。それを
知っていたガリレオが、宗教的権威と科学的真理の板ばさみに葛藤しながら、最後に
は真理を選びとり、『天文対話』と題する物語風の科学論文を出版して地動説を主張
し、教会の公式見解を非難したため、宗教裁判にかけられたのである。
拷問と死の前に、70歳のガリレオは耐えられず、ついに公衆の面前で「地動説は誤
りである」と告げ、宣誓書を出さなければならなかった。が、その後おのれの魂を守
るために、「それでも地球は動いている」つぶやいたという。
1989年、ローマ法王パウロ二世がガリレオの生地ピザを訪れ、「ガリレイを迫害し
た裁判は誤りだった」と、カトリック教の最高権威者として初めて公式に、17世紀の
科学者の名誉を回復させた。とうの昔に地動説が認められ、ガリレオ裁判の1632年か
ら数えて、すでに太陽の周りを地球が357回まわったというのに。
この物語に象徴される連綿たる人類史が教えているのは、誰もが信じて疑わず、世
に通っている説というものが、必ずしも真理ではない、という事実である。また非常
に多くの場合、真理のために迫害をいとわず権威に挑戦した数少ない異端者がい
たお陰で、人類が迷信から解き放たれ、今日の世界まで前進することができた。
われわれの時代に、同じ地球上で、異端者を審問するに近い出来事が起こってい
ないだろうか。異端者に対する迫害は、決して古い物語ではないのだ。
私は、レーウェンフックと、ギリシャの哲学者ディオゲネスが好きである。
ディオゲネスはひどく変り者で、無欲で、社会批判を続けながら、樽の中で寝起き
するのが好きだった。ギリシャ全土を征服したアレクサンドロス大王がこの評判の哲
学者に会おうとしたが全く無視されてしまった。
仕方なく大王自らディオゲネスの住居におもむいて、樽の中の住人に声をかけた。
「何か、私にできることはないか。何でもお望み通りのことをしてやろう」
すると、樽の中の住人が尋ね返した。
「本当に、わしの望みを聞いてくれるのか」
「いいとも、私はアレクサンドロスだ。できることであれば、何でも言ってみよ」
「それなら、頼みがある。あなたにしかできないことだ」
それを聞いたアレクサンドロスは、いよいよ自分が高名な哲学者に認められた大王
である自負をもって、ディオゲネスの言葉を待った。
「大王、そこをどいてくれないか。いま日なたぼっこをしているところだ。あなた
がそこに立っていると、太陽がさえぎられてしまうのだ」
レーウェンフックがレンズを磨いて小さな生物を発見したのと同じ動機で、樽の中
の住人のように怠惰に、この世がどのように成り立っているのか、その事実を、生き
物を観察しながら探求するほど興味深いことはない。
レーウェンフック Antoni van Leeuwenhoek 1632〜1723 オランダの顕微鏡製作
者。原生動物、赤血球、毛細血管系、昆虫の生活史に関し、先駆的な発見をした。
オランダのデルフト生まれ。科学の教育はほとんどうけなかった。織物商であり、ま
た市の役職についた。趣味で小さな両面凸レンズ1個を黄銅の板の間にはさみ、目の
近くに固定できる装置をつくった。これをもちいて、針の先にとりつけた物体を観察
した。最大倍率が300倍に近いものもあり、初期の複式顕微鏡をしのぐ性能であっ
た。1668年にイタリアの解剖学者マルピーギの毛細血管系の発見を確認し、赤血
球がウサギの耳やカエルの足の水かきの毛細血管をとおって循環するようすも明ら
かにした。74年には、はじめて赤血球を正確に記述した。ついで、彼が顕微鏡虫と
よんだものを池の水、雨水、ヒトの唾液の中で観察した。今日の原生動物やバクテ
リア(細菌)である。77年にヒトの精子を記述した。
レーウェンフックは、当時優勢であった自然発生説に反対し、コクゾウムシ、ノミ、
イガイなどはコムギの粒や砂から生まれるのではなく、小さな卵から発生することを
明らかにした。アリの幼虫やさなぎが卵から発生するようすをしめし、その生活史も
記述した。また植物や筋肉組織を観察し、細菌の3タイプ(桿菌・球菌・らせん菌)に
ついて記述した。しかし、レンズ作りの技術を他人に明かさなかったため、その後の
細菌の観察は、19世紀に複式顕微鏡が改良されるまでもちこされた。
こうした発見が評価され、イギリス王立協会の会員にむかえられ、イギリスのアン女
王やロシアのピョートル大帝などの著名人の来訪もうけた。
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