朝顔はなぜ朝咲くのか。朝の光を受けて咲くのか、温度変化を感じ取って咲
くのか。朝顔を研究した学者によると、朝顔が咲くには、朝の光に先立つ暗や
みが不可欠の要素になっているという。
実験をしたところ、24時間ずっと光を当て続けた朝顔のつぼみは、結局開
かなかった。暗やみを経験してこそ、光を受けて花開くという。
人生はそれに似ている。幼い頃から何不自由なく、ちやほやされて生きる
と、結局、花開く前に落ちてしまいやすい。しかし人生の暗やみを経験し、悲
しみや苦しみを通ってこそ、やがて光を受けて朝を迎え、花咲くであろう。
矢島楫子(やじまかじこ)という人は、1833年に熊本の寒村の総庄屋、
矢島家の第6女として生まれた。当時の風潮もあり、男子を期待した両親は女
児の誕生に失望し、彼女はお七夜を過ぎても命名されなかった。ふびんに思っ
た姉によって、ようやく「勝子」と命名された。
このような境遇の中で自然、彼女はむっつりとして、めったに笑顔を見せな
い勝ち気な少女として育った。姉からも「渋柿」とからかわれるほどだった。
やがて彼女は25歳で結婚するが、夫はあいにく酒乱の悪癖があり、酔えば
長刀(なぎなた)を振り回すような人物だった。悲惨な生活が10年続き、な
かば目が見えなくなったあと、ついに離婚を決意。世間の冷たい目を浴びなが
ら、姉や親戚の家を転々とする生活が続いた。
彼女は失意の底から立ち上がり、40歳のとき、病身の兄の看護のため小さ
な蒸気船に乗って上京。このとき船の小さな楫(かじ)を見て、
「私のような目立たぬ女でも、楫のように大きな船を動かすことができるか
もしれない」
と思い、自ら「勝子」を「楫子」に改名したという。
上京後、彼女は小学校教員として勤めるが、やがて兄の家の妻子ある書生と
恋に落ち、子どもをもうけてしまう。しかし、これら離婚、また不義の子を産
むなどの前半生のすさまじい体験が、のちに彼女をキリスト教信仰に入信させ
ることになる。
1921年、アメリカ行きの客船に、まもなく卒寿(90歳)を迎えようと
する一人の婦人が乗っていた。それが矢島楫子であった。
そのときすでに彼女は、日本キリスト教婦人矯風会初代会頭、女子学院初代
院長をつとめていた。また日本の婦人運動の草分けとして廃娼、禁酒運動に挺
身し、外国からも「日本の母」とまで呼ばれ、たたえられていた。
老身を押しての渡米は3度目。90歳近くでもこのバイタリティで、多くの
人を驚かせた。1回目の渡米のときは、ルーズベルト大統領と親しく面会し、
日露戦争講和の斡旋の労に感謝するなど、平和使節としての役目も果たした。
万一のことを心配する人々に、楫子は、
「天国は、日本からでもアメリカからでも距離は同じでしょう」
と、意に介することもなく笑って答えていた。使命感に燃えての渡米であっ
た。
矢島楫子は1925年、92歳で生涯を閉じた。おいであった徳富蘇峰は追
悼演説の中で、彼女の波乱の人生を振り返り、
「あたかも渋柿が、霜を経て渋味抜け、甘みのみとなるごとく、情趣こまや
かに思いやり深く、柔和にして愛に満ちたる人となりました」
と評した。人生には、夜も霜も必要である。
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