賀川豊彦(1888-1960年)は、若いころ肺病持ちの体で、弱って青ざめた顔をして
いた。
医者からは、もう長く生きることはないだろう、と言われていた。彼は、 「俺は
もうすぐ死ぬんだから」 と言って、その当時神戸にあった貧民窟に入り、捨て子を
次々に集めては世話をし、育てていた。また行路病人の女を看取ってあげたりもし
ていた。
そんな中に、あるクリスマスの頃、明治学院時代の同級生が賀川のことを思い起こ
した。
そうだ、あいつは自分が病気で顔も真っ青だというのに、この寒い時にも寒さに打
ち震えながら頑張っている。あいつに新しいメリヤスのシャツでもプレゼントしよ
う、と思って賀川豊彦にプレゼントした。
「賀川君、これは君へのクリスマス・プレゼントだ。貧民窟の貧民にじゃなくて、
君にやるんだから、これを着てどうか体を大切にしてくれ」 と言って渡した。
ところが数日後、賀川豊彦は何だか言いにくそうに、彼にこぼした。
「どうも済まん。じつはあのシャツは、私が世話している病人に着せてやった。そ
れがこの前死んだ。夜中に死んでな。お湯をわかして、その体を拭きあげてやった。
棺桶がないので、酒樽につめて葬った。かわいそうなことをしたが、せめて君のおか
げで、きれいなシャツを着せてやれた……」
そう言われて、その友人はもう二の句が継げなかったという。このときの経験は、
彼にとっても忘れないものとなった。それは純粋な愛に満ちた心にふれた経験であ
る。
賀川は、のちにこの時のことを回想してか、こんな歌を詠んでいる。
「一枚の最後に残ったこの衣
神のためにはなお脱がんとぞ思う」
たとえ、どんなに貧しくても、どんなに自分の状態がきつくても、神のためには最
後の一枚も脱ぎましょうという。
そのような人を、神は見放すことはできない。賀川豊彦は、医者からは肺病のため
に若死にすると言われていたが、その病と死線を乗り越え、祝福の中を72歳まで生
きた。
賀川豊彦 かがわとよひこ 1888〜1960
大正〜昭和期のキリスト教社会運動家、牧師。回船運漕業をいとなむ父賀川純一
と母かめの2男として神戸市に生まれる。日本の労働運動、農民運動、協同組合
運動を推進した先駆者のひとりで、第2次世界大戦後は日本社会党の結成に参加
、世界連邦運動にもとりくんだ。著作も多く、著書150冊、翻訳書25冊をのこして
いる。生涯にわたって多彩な活動をおこない、ノーベル平和賞候補になるなど、そ
の声望は広く外国にも知られた。
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