2015年8月15日土曜日

No.047(アウグスティヌス)

【アウグスティヌス】 Augusutinus 354〜430

知的苦悩
ローマの雄弁家で政治家のキケロの哲学的対話編「ホルテンシウス」に感銘を
うけ、アウグスティヌスは真理の探究にいそしんだ。キリスト教徒になることを考え
たが、それは長年にわたりさまざまな哲学体系をまなんだ末のことだった。
373〜382年の9年間は、ペルシアのマニが説いた二元論哲学のマニ教を信奉した。
当時西ローマ帝国でひろく信奉されていたマニ教は、アウグスティヌスにとって自
らの葛藤(かっとう)にこたえる、すばらしい哲学的・倫理的体系に思えた。
そのうえ、マニ教の道徳律の厳しさはそれほど不快感をあたえなかった。のちにア
ウグスティヌスは自著「告白」の中で、「われに性的禁欲と自制をあたえよ。だ
が、いましばらくのちに」と書いている。しかし、やがて教義の矛盾に行き詰まりを感
じ、マニ教をすてて懐疑主義に転じた。
383年ごろ、カルタゴをでてローマにわたったが、1年ほどでミラノにうつり、大
学で修辞学をおしえた。この地で新プラトン主義の影響をうけると同時に、当時の
イタリアでもっとも高名な聖職者だったミラノの司教アンブロシウスにであった。
やがて彼は、ふたたびキリスト教にひかれるようになる。彼自身の回想によると、
ある日、子供のような声が「とりあげて読め」とくりかえすのがきこえた。彼はこれ
を、神が聖書をひらいて、目にはいったページを読めと命じているのだと解釈した。
聖書をひらくと、「ローマの信徒への手紙」の13章13〜14節が目にはいった。そこ
には「……酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみをすて、
主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心をもちい
てはなりません」としるされていた。
アウグスティヌスはただちに回心してキリスト教を奉じる決意をした。387年の復活
祭の前夜、息子とともにアンブロシウスから洗礼をうけた。イタリアにきていた母は
、祈りが通じ、願いがかなえられたことをよろこんだ。その後間もなく、母はオステ
ィアで死亡した。

司教として、神学者として
アウグスティヌスは神学論争に全身全霊をかたむけてとりくんだ。マニ教の異端と
たたかうほかに、2つの大きな神学論争にかかわった。
ひとつはドナトゥス派との論争で、彼らは秘跡をほどこす司祭が人格者でないか
ぎり、その秘跡は無効であるとした。もうひとつはペラギウス派との論争だった。ペ
ラギウス派はイギリスの修道士ペラギウスの信奉者で、原罪を否定していた。長
くはげしい論争をつづける中で、アウグスティヌスは原罪と神の恩寵、神の至上性
、予定説などの教義を発展させていった。
宗教改革の指導者であるカルバンとルターも、アウグスティヌスの思想をまなびと
っており、カトリックとプロテスタントの教理はどちらもアウグスティヌスの純粋に神
学的な側面をもとにしている。カトリック教会はとくにアウグスティヌスの制度尊重
と教会中心主義の教義を支持している。
アウグスティヌスの教義はペラギウス派とマニ教という両極の中間にあった。人間
は自分の力ですくわれるとするペラギウス派の教義に対して、アウグスティヌスは
、不服従の精神から人間は罪人(つみびと)となり、人間としての本性ではそれを
かえることはできないとした。彼の理論によれば、神の恩寵をあたえられてこそ、
人間はすくわれるのだという。いっぽうマニ教に対しては、神の恩寵と協同する人
間の自由意志のはたらく場があることを強く主張した。アウグスティヌスは430年8
月28日にヒッポで没した。彼の祝日は8月28日。

作品
なみいる教父や教会博士の中でアウグスティヌスが占める位置は、使徒の中の
パウロの位置に匹敵する。アウグスティヌスは多作で、説得力のある名文家だった。
もっとも有名な作品は、自伝的な「告白」(400頃)であり、自らの前半生と改宗につ
いて赤裸々にしるしている。キリスト教の弁証論「神の国」(413〜426)では、神学
的な歴史哲学を集成した。22巻からなるこの大著のうち、10巻は汎神(はんしん)
論に対する議論にむけられ、残りの12巻は教会の起源、発展、将来をたどり、教
会が偶像崇拝にとってかわるべきものだとしている。428年にあらわした「再論」
では、初期の自著の中の誤りを、成熟した判断でただし、まとめなおした。


【マニ教】 Manichaeism
3世紀にイランでおこった宗教。マニ(216頃〜276頃)によって創始され、何世紀に
もわたってキリスト教に対抗していた。

マニの生涯
マニは南バビロニア(現イラク)の貴族の家庭に生まれた。彼の父は敬虔(けいけん
)な人で、マニをおそらくはマンダ教と思われる厳格な洗礼教団にあずけてそだ
てた。マニは12歳のときと24歳のとき、天使から新しい究極の啓示をかたる預言
者として指名されるという霊的体験をし、インドまで布教にいって、そこで仏教の影
響を受けた。
帰国後は、ササン朝ペルシア2代目の王シャープール1世(在位240〜272)の庇
護(ひご)をえて帝国じゅうで説教をし、ローマ帝国に布教者たちを派遣した。マニ
教の急速な伸展は、正統ゾロアスター教の指導者たちの敵意をよびおこし、バフラ
ーム1世(在位274〜277)の時代になると、彼らは、マニは異端者だと王に説いた
。逮捕されたマニは、獄死あるいは処刑によって死んだ。

教義
マニは自らを、ゾロアスターや釈迦、イエス・キリストについであらわれた、世界を
すくうための最後の預言者だと主張した。マニの教えによれば、ゾロアスターなど
の預言者がのべた啓示は部分的で不完全なものであり、それらはマニの教えの
中で包括され、ゆえにマニの教えこそが全体をそなえた完全なものだとされた。
また彼の教えは、ゾロアスター教とキリスト教にくわえて、グノーシス主義の影響
を色こくうけている。


【ギリシア語】
Greek Language ギリシアの言語で、単独でインド・ヨーロッパ語族のギリシア語
派を形成する。古代のアッティカ方言、ヘレニズム時代のギリシア語、ビザンティ
ン帝国時代のギリシア語、そして近代ギリシア語をふくむ。古代ギリシア人が話し
ていた言語は、いくつかの点で、現代のギリシア人が話している近代ギリシア語
とはことなる。古典ギリシア語も近代ギリシア語も、フェニキア文字から派生した
24の文字からなるギリシア文字を使用している。はじめがαで、最後がΩ。

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